トマス・ド・クインシー『自叙伝』8

 しかしながら、私はこのことを急速に知るに至った。私の二人の姉、その時生きていた三人のうちの年上の二人で私よりも年かさである姉たちが年若い死に見まわれたのである。最初に死んだのはジェーンで、私より二歳年上だった。彼女は三歳半、私は一歳半で、このことについては少しも思い出すことがない。しかし、その時、死は私にとって殆ど理解できないものであり、悲しみに途方に暮れたということはできないだろう。同じ時期、我が家にもう一つの死があった。母方の祖母の死である。しかし、彼女は娘の社会に死ぬためにきたようなものであり、病気のために完全に隔離されていたので、我々子供たちは彼女を知ってはいたが僅かなもので、美しい鳥、事故によって傷ついた川蝉の死(私が目撃した)により心を動かされたことは確かである。私の姉のジェーンの死(すでに述べたように悲しいというよりは困惑させられるものだった)には、私に最も恐ろしい印象を残し、私の年頃の者にとって確かに思えるものを越えた思想や抽象的なものへの性向を深めたある出来事が結びついていた。この世界の他のなににも増して私に不快を感じさせるものがあるとすれば、野蛮と暴力である。いつもの仕事から一日か二日、姉のジェーンのもとにたまたま使わされたある女性の召使いが、ある時姉を乱暴にではないにしてもがさつに扱ったという噂が家庭のうちで起こった。この間違いは彼女が死ぬ前の三、四日のうちに起こり、かわいそうな子供の苦しみからくるむずかりが原因だったろうから、自然家族のうちには恐れと憤りの感情が広まった。私はこの話が母には届かなかったと信じているし、たぶん誇張されてもいただろう。しかしこのことが私に与えた影響はとてつもないものだった。私は人がこうした残酷さにさらされている場面をしばしば見ているわけではない。しかし、そうした場面に直面すると、私は下を向いてしまう。彼女の顔を見ることはできない。しかし、それは怒りとは言えないのである。私を捕らえた感情は、私は悪と争いの世界にいるという真実を初めて垣間見たことによる身震いするばかりの恐怖だった。大きな街に生まれたとはいえ(マンチェスターは当時英国で最も大きな街の一つだった)、私は子供時代のすべてを、生まれたばかりの数週間を除いては人里離れた田園で過ごしたのである。三人の無邪気で小さな姉を遊び相手とし、いつも彼女たちと一緒に寝、貧困や苦難や乱暴さからは切り離された静かな庭にいた私は、この時まで私や私の姉たちが住むこの世界が現実には複雑なものだとは思ってもいなかったのである。それから私の考えは大きく変わった。それは非常に典型的なものなので、一つの例を挙げればこうした傾向をもつすべての可能性を示すのに十分である。私はこの虐待を非難する婦人が、それが引き起こす出来事がより苦痛に満ちた重みを持っているときでさえ、このことを深く悲しんだということをついぞ聞かない。しかし、私自身について言えば、この出来事は私の人生の評価を塗り替えるような、永続的で革命的な力を私に及ぼし続けたのである。


 私の幼児期の遊び相手である三人の姉のうちの一人がこの世を去り、(こう言ってよければ)死というものを私は知り始めた。だが、実際には、私はジェーンが消えてしまったということ以上に死について知ることは殆どなかった。彼女は行ってしまった、でもたぶん戻ってくるだろう。天上的な無知に甘んじていられた幸福な期間。子供の悲しみからの慈悲深い免疫質はその強さとなんと不釣り合いなことか。私はジェーンの不在を悲しんでいた。しかし、まだ心の中で彼女が戻ってくることを信じていた。夏と冬は巡り、クロッカッスや薔薇も戻ってくる。なんでジェーンが帰ってこないことがあろう。