ブラッドリー『論理学』76

 §7.我々は「私は歯が痛い」といった判断が、そうした感覚に訴える形式では本当には真でないことを見た。それらは定言的真理であることに失敗し、ほとんど仮言的真理にも達していない。それを真にするためには、現在の事例を越えるようなつながり、歯痛の諸条件を呈示すべきである。判断が歯痛を根本的な法則からの帰結とするとき、判断が普遍的になり、仮言的になったとき始めてそれは本当に真となり、その真理は無条件で永遠のものとなろう。

 

 そうした言明がいかに不条理なものに響くか私もわかっている。どれだけ我々がそれを信じるにしても、どこかおかしなところがあると感じないのは不可能であると私も認める。だがそれは我々の失敗ではなく、不平を言うつもりはない。しかし、一般的な見解が<より>おかしなものに思われないなら、それは我々の失敗である。私は「私は歯が痛い」と今日言う。明日になる。そのとき私の以前の判断は偽になるのだろうか。一般的な見解はそれに声高に反対し、それはいまでも真であり、私は歯が痛<かった>し、判断はいまでも過去について正しいと言うだろう。これは簡単に言うとこういうことである。判断は事実に対応しているがゆえに正しい。事実は変わり判断はもはやそれに対応していない。判断は存在していない何ものかについて真だと言われる。これ以上不整合で不条理なことはあり得るだろうか。状況の変化や日付の変化が<この>真理を偽にしてしまう新たな文脈ではないなら、なんらかの文脈の変化が<なんらかの>真理をなぜ偽にすることがあろうか。状況の変化が真理を偽にするなら、あらゆる真理は絶えまのない流れのなかにあり、瞬間ごとに真や偽になるのではないだろうか。

 

 §8.この問題は後で(第二巻第一部)十分論ずるが、ここでは一つの誤解について言及しておこう。「空間や時間はなんの差異ももたらさないのか」と尋ねることは、完全に我々の原理の意味を取り逃がしている。我々はこう尋ねることによって答えよう、「その相違はAの文脈に入ってくるのか。もし入るなら、Aは<認識できる形で>多様になり、我々が自らの原理を去らねばならないのは明らかである。しかし、もし入ってこないなら、Aの真理は空間や時間から抽象されたものと考えられ、その相違が真理と関係のないことは確かである。かくして、我々はあるジレンマを呈示することで反論に対そう。あなたは空間と時間の差異を抽象するかしないかである。しないなら、あなたの主語は差異をもち、するなら、あなた自身が差異を排除したのである。

 

 実際のところ、我々は別の方角からも反論にあう。「では、同一性はどうなったのか。差異と一緒に消え去ったのではないか。異なった文脈が主語のうちに入ることを許されないなら、どうしてある文脈において真であるものが別の文脈でも真であると言うことができるのか。どの文脈においてもまったく真ではないこともあり得るではないか。」だが我々はこう答える、同一性は「S-P」という判断の<なかに>含まれているわけではない、というのも、それは差異に一切関わらないからである。同一性は「S-Pはどこでも常に真である」という判断のなかにある。この「どこでも」と「常に」がもたらす差異に対してS-Pが同一性をもっている。実在の属性である述語は多様な現象の差異にもかかわらずそれに属している。我々は現象は常に同一だと言っているのではなく、性質が現象を通じてその本性を保つと言っているのである。この回答で、ここでは満足しなければならない。