ブラッドリー『論理学』80

 §15.言いたいことはすべて言ったので、喜んで次に移ろう。というのも、我々は少しだけ形而上学に手をつけたに過ぎないのだが、それでも私には、できうる限り論理学の第一原理を明確に維持することができるか不安になっているからである。いまの例で言うと、矛盾の法則は、不運にも、事物の本性についてのある種の理論からにべなく否定された。存在から導きだされる法則が真理なら(そう主張された)、事物の本性のなかに矛盾は存在していることになる。対立するものが連接し、単一の同一性に相反する契機が見いだされる事実があることになる。

 

 経験においても学の体系においても広く働いているものを、そのすべての欠点も含めて一つの文章で簡潔にあらわすのが私の意図でないのは言うまでもなかろう。私のここでの考えは、上述のような矛盾の公準から対立を取り除くことにある。しかし、私は非Aが純粋な否定なら、どんな妥協も可能ではないことは明確に理解している。そこで、矛盾の公準弁証法的方法のどちらかを選択しなければならないだろう。

 

 第一に、連接されたものはなんであれ、<その事実によって>相反するものではない。もしある要素が共存するなら、<それで問題は終りである>。相反があり得ないから、矛盾もない。多くのことを語ったから、私はそろそろこの問題から離れたいと感じている。しかしまだ多くのことが残っており、逃れることはできないだろう。こんな言葉が追いかけてくるのが聞こえる、「見て取れる限り、諸要素が互いに否定しあっている場合には、一方が存在し、他方は存在し得ないのだろうか。また、相反するものが共存する非常に多くの概念を我々はもっていないだろうか。『それでは矛盾ではない』と言ってしまえば簡単だが、もう一度それらが相互排他的ではないかどうか見てみる必要があるのではないか」と。

 

 自分の立場を守り、なにか答えることは容易である。しかし、「あなたの概念は単なる現象でしかない。我々のもとに来て知識は相対的であることを学び、我々とともに物自体をあきらめなさい」と答えたのでは愚かしいように思える。というのも、どれだけの反論がよせられるかそのすべてを知ることはないにしても、私が招き寄せたもののある部分は推測されるからである。「あなたは『物自体をあきらめる』と言ったのか。むしろあなたはあきらめて<いない>ではないか。あなたは自分の知識が現象でしかないこと、矛盾の法則は絶対において妥当すると公言しているのであるから、あなたが知りうるような相反するものは絶対では<ない>。これが首尾一貫していないのは確かである。矛盾からこの貧弱な物自体の亡霊を救い出すために、現象の世界すべて、あなたが知り、あるいは知りうるものを完全な混乱に投げ込もうとしている。この物自体を救う限りにおいて、あらゆる事実を無意味なものにしようとしているのである。実際にあなたがなにに最も注意を払っているかは明らかである。「相対性」について言えば、この原理に違反しているのはあなた自身である。相対性を堅固で厄介な矛盾に変えたことがあなたをこうした哀れな状況へ追いやったのだ。」こうした侮辱のすべてに服すことはできない。むしろスペンサー氏か他の偉大な権威者に--その責に耐えられる、そうした侮辱が理解できないと感じる者ならだれでもいいのだが--それを引き受けてもらいたい。

 

 もし私が向き直り戦いに応じることを選択したなら、私は自分が使うことのできる別の武器を用いることになろう。「あなたの考えは部分的に錯覚である。それは一般的だが粗雑な表象の仕方で、実在の本性をそれで描くことはできない。そして、哲学の仕事はそうした観念を純化することにあって、その矛盾を取り除くことによって、実際の事実に適合するまで放っておくことでは決してない」と言うだろう。しかし、結局のところ、私はそれを議論のために口にすることができるだけであって、議論こそは私が避けようと腐心しているものなのである。その目的のために、いくつかの妥協が可能だと思われる。否定の実在、正反対なものの同一性を疑問に付することなしには、我々が矛盾の公準をもたらす教義を理解できないというのは確かなのだろうか。この公準は同一性の原理のようなものではない。それは非常に古く最も害のない老兵である。私自身について言えば、常識を驚かせたり、敵をすくませようとするのでなければ、それを攻撃しようと思ったことは決してない。そして、形而上学では、他の様々な手段を使って人を驚かせるようなことはできるのである。

 

 私が言おうとしているのはこういうことである。ある連続で、矛盾が結びつけられており、Aがbでありかつ非bであるように思われる状況があるとすると、それを矛盾の公準によって調停することが可能である。Aはbと非bとから成り立っている。Aを分解すると、そうした要素に行き着くわけであり、それらを結びつけると再びAを得るのである。しかし、問題は、そうした要素がAの<なか>にあるとき、そこでbと非bという完全に相反した性質をもつものとして存在していると言えるのかどうかである。私は、矛盾するものの統一が、それを理解する唯一の手段である事実の誤認にあるのだと言おうとしているのではない。というのも、もし私がそれが真だと確信しているなら、それを異端と認めることは耐えることのできない苦痛だからである。しかし、真実は、対象や全体のなかに、我々は決して実際にそうした相反物をもつことはない、ということかもしれない。それらが離されたときに両立不可能と<なりうる>瞬間があり、結び合わされると、全体のなかでなんらかの性質のもとまとまってしまうのかもしれない。もし我々が対立物の同一性をこのように理解できるなら--私にはそれ以外の方法がわからないのだが--矛盾の法則は無傷のまま咲き誇ることとなる。もし一つになることで矛盾が存在しないことになるなら、矛盾はどこに行ってしまったのだろうか。

 

 否定的なものの闘争こそが世界の魂であり、まさしくそれらの同一性があるから<こそ>矛盾があるのだと言われる方もいるかもしれない。永遠に続く対立がより高次の統一によって解決に導かれるというのは確かである。しかし、否定の過程はまだそこにある。それは無視することのできない世界の側面であり、一つの主語において相反物が存在しない、ということと調和させることができない。全体のそれぞれの要素は、他の要素がなくともそれ自身において両立不可能だが、にもかかわらず、他との両立不可能性を永久に生みだし、あるいはむしろそうしたものとなっていく。

 

 結局のところ、私にはまったく納得がいっていない。相反するものを切り離し固定することで一面的なものにしてしまうという理由で矛盾の法則が反対されるなら、法則を否定することは、別の仕方で一面的になることではないだろうか。否定そのものが、一方では否定でありながら、他方ではより高い調和に向けた動きであるなら--つまり、諸要素は、その相反性によって相反である限りの各要素が同時にないときには相反ではなく、それゆえ<そのこと自体によって>相反することをやめるなら、確かに我々は矛盾の法則を否定することで過程の一面を固定し、矛盾を単なる矛盾として扱っている。法則がその頭に置いた矛盾は、対立するものを一掃する矛盾であり、戦場に勝利者として残る。その打撃が自滅的であるのは矛盾ではなく、その敗北は常に対立者を道連れにするに違いない。公準が語るのは、そのように固定された両立不可能性、完全に互いが排除し合い、別の側面などないような相反である。しかし、弁証法的矛盾は部分的な矛盾であり、それを隠しておくのは<我々の>間違いである。この法則に反対する者が、一つの要素にそうした二つの側面が存在するのは矛盾であり、非bに相反するbが非bを含意するのは自己矛盾だというなら、反論者はこれまでの教えを学んではいないと考えざるを得ない。bに非bがあること自体は自己矛盾であり、bである以上永久に正当である。我々はここでは単なる一側面の矛盾を扱っているのではない。

 

 しかし、公準が見守っているのは一面的で暫定的な矛盾である。それは見いだされるものであり、しらふの人間なら誰も見いだされないと主張することはできない。弁証法的な対立の含み合いが我々の否定するあらゆる連接に働きうるなどとは誰も主張してはいない。同時にお互いを含み合う矛盾を除いてはどんな相反も存在し<ない>とはとても主張できないだろう。そして、矛盾の法則は、そうしたまったくの両立不可能性が見いだされたとき、それを連接してはいけない、ということ以上を語るものではない。

 

 その主張は、もし我々がそれを考えるなら、まったく脆弱なもので、弱々しく完全に当たり障りのないものであって、誰に噛みつくにも噛みつくべき歯ももっていないから、喧嘩をすることもできない。論争は、最初はヘーゲルが推奨するような考え方を我々が実際に取ることができるかについて、第二には、彼の弁証法が事実においてどの程度の拡がりで見いだされるかについてだったが、公準に落ちつかせることができ<ない>だけでなく、完全にその領域外に出てしまった。ある種の要素が一緒になることは絶対にないという事実から出発し、この事実に依存していたので、その要素が一緒になるやいなや、公準は適用可能なものではなくなる。それは実在の自己整合性に基づいているが、ある種の相反に対立することなしにこの整合性をあらわす権利はない。それゆえ、もし実在の弁証法が最終的にはその統一を破壊すると我々が結論するなら、それは矛盾の公準とは何の関係もない。この種の他の問題と同じく、弁証法の妥当性は議論され、その価値が定まる事実の問題であり、いわゆる「諸原理」への訴えかけにあるのではない。あえて危険を冒して言うなら、ある種の要素が両立不可能な相反のうちにあると無批判に言うべきではなく、というのも、矛盾と排中律の法則に反対してそれが連接されているのを見いだすことになるからである。このようなものであるから、それは誰の敵でもない。誰も最終的にはそれを信じないでいることはできないのだから、放っておいたほうがいい。



排中律の原理

 

 

 

 §16.あらゆる判断は真か偽でなければならないという公準は、ある原理に基づいている。しかしながら、公準そのものは選言判断の下にあるので、そうした称号を受けるに値するかどうかは疑わしい。我々の公準が選言の原理の代理をすると想像するべきではない。それは単にその原理の一例で、適用の一つである。