幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈44

雨こゆる浅香の田螺ほり植ゑて 杜國

 

 『古今集』巻第十四、「陸奥のあさかの沼の花かつみかつ見る人に恋ひやわたらむ」、読み人知らず。また『著聞集』巻第十九、圓位上人、「かつみ葺く熊野詣のやどりをば菰くろめとぞ言ふべかりける」。『俊頼散木棄歌集』巻十、「中納言国信の坊城の堂にて人々長歌よませけるに向泉述懐といふことをよめる長歌(中略)、見る目にもはばからぬまの花かつみ、かつみるさまはまこもにて名をかへけるもうらやまし」。『無名抄』に、かつみはこものことを言うとある。とすればかつみは菰で、水こゆるに真菰をよんだ歌『金葉集』巻三、参議師頼、「五月雨に沼の岩垣水こえて真菰かるべき方も知られず」とある。これらの言葉を取りあわせ、「雨こゆる浅香の」とつくった。「雨こゆる」を雨肥ゆると解釈したものもあるがよくない、雨越ゆるである、水越えては水肥えてではない。浅香のかつみとは言わず、田螺としたのは俳諧である。ほりうゑては掘りて植えてである。『千載集』巻十一、大納言忠教「ほり植ゑし若木の梅にさく花は年も限らぬにほひなりけり」。一句の様子は、陸奥の門人などから贈られてきた浅香の沼の花がつみならぬ田螺など掘り植えてその声のさびしさを楽しむと戯れたものである。田螺は俳諧の二月の季題で、「田螺鳴く浅香の沼の月夜哉」という古句さえある。貞徳は俳諧の先達であり、蘆の丸屋も其の五園のひとつである。前句に浅香の田螺と付けたのは、貞徳風の古歌取りの俳意もあって面白い。千賀の塩釜を移したり、宮城野の萩を持ってきたりするのとは異なり、浅香の田螺とわびたところに、冨というのを面白くあしらっている。