幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈45

奥のきさらぎを只なきになく 野水

 

 田螺をとって生活しているものが二月の寒さに泣く、という旧解のまずさは言うまでもない。また、実方中将奥州に下ったところ、五月になって民家が菖蒲を葺かないので、尋ねてみると、この地には菖蒲はないという。実方浅香の沼の花かつみというものを刈って、葺いたらいいと教えた。この実方帰都の望みが遂げられず、長保元年正月二十六日に奥州で死んだ。そこで魂が雀となり、殿上の食前に上がって食うなどと言われ、実方雀の話はいまも残っている。これらのことは『故事談』、『世継物語』その他雑書に見える。この句、奥のきさらぎを泣きに泣くものは実方朝臣の北の方などの面影だといわれる。この解もまたいささか行き過ぎている。浅香の沼に実方中将のこと、縁がないわけではないが、実方と田螺となんの関係があろうか、実方が田螺を移したこと、野中兼山が蛤のたぐいを移したような話は更に聞かない。とすれば、旧註の、実方中将の訃報を聞いて、かつて送った国の田螺は都に長らえ、都にいるはずの夫は奥州に果ててしまったが、記念の田螺の泣く音も涙を催すことだという北の方の嘆きの面影だとするのは、あまりに妙な説で笑いを催すほどである。実方は歌人であり風流であったが、旅の身の上で、奥州より都の妻に田螺を送るとは想像もできない。面影取りの句は、かならずしもそうした事実がある必要はなく、さもありそうな余情を描くものだとはいえ、これはありそうもない話である。この句はなくの言葉があるのをもって人事と解釈することから、前句の浅香と結びつけて実方朝臣の故事としてしまうのだが、なくは悲しみの泣くに定まったものではない、なくとだけとってもよい、田螺がひたなきになくということであり、「きさらきをひたなき」と仮名書きにしては非常に読みづらく、「只鳴」と書いては「鳴」の字に「なり」の訓もあることゆえ、「只なき」と書けば、「ひたなき」と読むしか読み方がないために、そうしたのだろう。「只なきになく」ものは田螺であり、実方の奥方ではない。田螺栄螺のたぐいは甲を閉じて身を守り、遠くに移されてもわからないようだ。栄螺が自らを守る智を誇って、目を開くとすでに炙られようとするところだったという笑い話もある。田螺もまた栄螺のたぐいで、遠くに移されてもわからず、無邪気に長閑になくそのおかしみを見て取って、都の水辺だということも知らないで鳴くことよ、と傍らから興がって、「奥のきさらぎを」と面白く句づくりした。「奥のきさらぎ」と表現したことに味があり、「きさらぎの夜を只鳴きになく」などであったら、俳諧味も詩味もまったくなくなってしまう。実方奥方の面影とすると、田螺の因縁を解釈する根拠がないのみならず、一句の味も索然として興がない。野水が「奥のきさらぎを」としたのは、虚のなかに実があって面白いのだが、実方奥方の面影と解しては、実のなかの虚となって趣きもない妄言となってしまう。実方の妻、都で夫の訃報を聞いたとすれば、実方は正月に奥州で死んだので、都のきさらぎを只鳴きになくとなり、どうして奥のきさらぎといえよう。田螺の声も聞けない人には、野水も地下で只泣きにないているだろう。只泣きを「たゞなき」と読まぬのもいい。