ブラッドリー『論理学』83

 §21.この原理は実際に行なわれる選言に先行している。それはその関係がどんなものかはわからないが、関係の共通地盤があることをあらかじめ言っている。選言は、関係が相反する領域にあるという更に限定された場で生まれる。かくして、我々は一方において、選言がもっていない自己決定する原理をもっているために、排中律は選言を超えていると考える。他方、更に発展すると、それは選言の一例以外ではなくなり、相反する述語の領域が<事実として与えられる>のを待たねばならなくなる。

 

 §22.なんらかの述語が示唆され、あらゆる要素の性質は述語の肯定か否定かの共通地盤であるという事実によって選言は完成する。それはどれか一つを、一つだけを強要する。別の選択を見いだすことはできない。

 

 ここで、矛盾の公準に反対して向けられた抵抗に再び直面することになる。Aがcあるいは非cでなければならないというのは間違いだと我々は言われる。我々はしばしば「両者とも」と、ときには「どちらでもない」と言わなければならない。しかし、多分、前の章の議論が我々の抵抗力を強めているだろう。然りか否かで答えるよう要求され、「然り<かつ>否」あるいは「どちらでもない」と答える必要がしばしばあることは認める。しかし、私はあえてそれが、質問が曖昧であるため、誤った選択に基づいて問いかけられているからであると考える。「運動は連続的であるか。然りか否か。」然りと言ったとき、私はそれが分離的<でもある>ことを否定することになるのかどうか教えてもらうまでは答えようとしないだろう。多分、この場合には、然りとは言わず、私は否と答えられる限りの場まで赴くことになろう。連続性と分離的との間には中間があり得る。連続性と非連続性との間にはなにもあり得ないのである。

 

 排中律を批判する根拠は、あえて言えば、錯覚である。固定的な相反ではなく、弁証法的な対立が与えられれば、それらが一つの主語に存在しても否定的に答える権利を与えはしない。他方を否定するために確かな根拠をつくりだすなどということは誰にもできないのである。他を完全に取り除かず、それに失敗するなら、それは論理的な矛盾ではない。というのも、否定判断の基礎となりうる対立者を破壊するのは、相反するものだけだからである。他によってある性質を否定することに失敗するなら、両者が現前し、どちらのであっても否定は完全に排除されるということでなければならない。しかし、この点についてはほとんど妥協できないように思われる。bの否定が単なる非bであり、それが主語Aにあるbと関わり合うものなら、排中律は消え去ったと認めることになる。しかし、この場合、それは後に残したものを破壊し続けるに十分である。この問題はこれで終りにせねばならない。