トマス・ド・クインシー『自叙伝』17

 悲しみ、汝は憂鬱を呼び起こす情念である。塵よりもつまらないものだが、雲よりも高い。マラリアのように震えるが、氷のようにしっかりしている。心を病にするが、その虚弱を癒しもする。私のなかで最も弱いのは、恥に対する病的なまでの感受性だった。十年後、私はこの弱点についての自己非難を次のような形に言い直すようになった。つまり、もし私が困っている仲間のために助けを求めに行くことを要求され、その助けが多くの批判的、冷笑的な顔をくぐり抜けなければ得られないような場合、私は多分その義務から卑劣にも後込みしてしまうだろう。確かに、現実にはそのようなことは起こっていない。自分の臆病を衝撃的な形で表すためのこじつけの物語ではある。しかし、疑いを感じることは、非難に十分な根拠があることを感じることである。起こるかもしれない犯罪は、私の眼には、すでに起こってしまった犯罪なのである。しかしながら、いまでは全てが変わった。姉の記憶について考えた一時間のうちに私は新たな心を受け取った。かつてウエストモーランドで私はこれに似た場面を見た。雌羊が愛情のためにその本性を脱ぎ捨てるのを見たのである。そう、蛇が脱皮するように完全に脱ぎ捨てた。子羊が深い壕のなかに落ち、人間の助けがなければ脱出は希望がなかった。そこで彼女は人間に向かっていってやかましく鳴き、彼が彼女の後に付いてきて彼女の愛するものを救うようにさせたのである。同じ様な変化が私にもあった。五万人の冷笑であっても、姉の記憶という愛情ある助けのあるいまでは私を悩ませることはないだろう。彼女が見つかる機会があるというなら、十個の軍隊といえど探しに行く私を邪魔することはできないだろう。嘲り、私にとってはなんでもない。笑い、どうでもいいことだ。「女の子のような涙」を侮辱的になじられたとき、「女の子のような」という言葉は、私にとっては、心にある永遠の思いの言葉による反響として以外には、いささかの刺激をも感じられないものであり、というのも、女の子こそ私が短い生涯のうちで知った最も魅惑的なものであって、女の子こそがこの世を美で飾り、私の乾いた泉を、この世界ではもう飲むことのない純粋な天上的な愛で満たしてくれるものだからである。


 さて、私が味わうよう運命づけられていた孤独の慰めについて説明しよう。いま私には孤独が魅惑的なものになり始めているが、というのも、孤独は抗することのできない悲しみとともに働くとき、悲しみそのものを贅沢な快楽にするという逆説的な帰結を招来するからである。こうした快楽は結局のところ罠であり、脅威となって生そのものや生命力を脅かす。常習的な類の深い感情は全て、孤独を求め、孤独によって養われることにおいて一致する。深い悲しみ、深い愛情、それらはなんと自然に宗教的感情と結びつくことだろう。そして、愛、悲しみ、宗教は皆孤独な場所を根城にしている。愛、悲しみ、信仰の神秘は孤独を欠いてしまったらなんであろう。可能な限り、一日中、私は家の周りや近所に静かな、人目を離れた避難所を探していた。風が全く吹かない夏の昼間にしばしばある静けさ、曇ったあるいは霧の出た午後の沈黙、それらは魔法のように魅惑的なものだった。森の、荒野の風の中で、私はその奥になにか心地よいものが隠れでもしているかのようにあたりを見つめた。私は天の審理を嘆願せんばかりに待ち望んでいた。頑固に私は深い青空を吟味し、見渡し、一瞬でも天使の顔が現れはしないかと探していた。