ブラッドリー『論理学』84

 §23.既に見たように、排中律は選言判断の特殊例である。このことは、いくつかの錯覚を吹き払う助けとなるだろう。

 

 第一に、排中律は、それを使うことで、未知の深みから知識を魔術のように呼びだす、そうした呪文ではない。いかなる主語も二つの述語のうちのどちらかをもたねばならないことを啓示するのだと言うのはナンセンスである。というのも、たとえ我々が論理的間違いを犯さず、現実に矛盾した性質を得たのだとしても、問題をそのように見なすことは正しくはないからである。否定は矛盾を述語化したものではない。排中律が我々に語るのは次のことだけである、つまり、なんらかの知識が与えられたとき、それに関してなされるいかなる呈示も正当なる根拠に基づいて肯定、あるいは否定されるに違いない、ということである。

 

 選言判断の章において、我々はこの判断が、その主語は文法的な主語ではないのかもしれないにしても、主語の存在を仮定しなければならないことを学んだ。排中律の場合、Aの述語としてbあるいは非bどちらかが真実であることが保証されると言われるとき、我々がごく自然に「しかし、Aの存在を保証するのはなんなのか」と尋ねることになろう。答えは得られない。事物そのものがbあるいは非bである。確かにそうであろう、しかし、<この言明の真の主語はなんであろうか>。多分、結局、それは「事物そのもの」ではなく、究極的な実在であり、それは総合によって呈示される全体を完全に退けることができる。この場合、事物それ自体は実在の世界にあるものではなく、幻影とみなされるが、諸性質をもっているのは間違いない、と言うこともできる。他方、もし事物そのものが存在をもつものと<とられる>なら、それは排中律によって証明されるのではなく、それは我々が基礎に置き、前提とするまったくの仮定である。

 

 §24.しかし、「真と偽との間には第三の可能性があり、それは無意味ということである」(ミル『論理学』II.vii§5)と言われるときには、「いかにも、無意味という可能性であり、実際にはまったく存在しない」と答えねばならない。意味がないゆえに真でも偽でもない命題があるという教義は排中律に「大きな限定」を与えることは私も認める。しかし、私は、この「制限」が一見思われるよりも大きなものであり、恐らく控えめに見積もった限界を超えて働くかもしれないと考える。確かに、一方において、意味のない命題は命題ではない。他方、なんらかの意味があるなら、真あるいは偽であるというのも明らかである。そして、述語が「いかなる理解可能な意味においても主語に帰せられるもの」では<ない>とき--それは否定のための十分な根拠ではないだろうか。しかし、論理学者はたちは、実際には、限定的に分割しうるものと無限定に分割しうるものとは<矛盾する>と言おうとしているのであり、例外的な出来事を予期していることにおいて正当化される。こうした項が完全に両立不可能だと仮定すると、公準を次のように変える準備をしない限り、それを排中律に持ちこむことはできない、つまり、述語が両立不可能であり、そこに<三、あるいはそれ以上の>可能性があるときであっても、<それら二つの>可能性のうちどちらかが常に真でなければならないことは確かである、というふうにである。しかし、恐らくこの「制限」は難点を解決するよりつくりだす結果となろう。