ブラッドリー『論理学』85

 §25.こうした幾分基礎的な間違いから眼を転じ、排中律によってもたらされる実際の知識について考えてみると、とても吹聴するほどのことがあるとは思われない。たとえ事物それ自体のような主語について主張をなすようなときでさえ、我々は常に誤りに対して防御していなければならないことを憶えておかねばならない。我々はある語の意味、あるいは頭のなかの観念について主張し、それらの事実を他の種の事実と混同することもあり得る(42頁)。しかし、こうした間違いを明確なものとしたにしても、否定判断に向かうとそこには否定の実定的根拠についての避けようのない止むことのない曖昧さがある。我々は、物自体は三角形ではなく、薔薇の赤色ではなく、あばた顔でもなければ消化不良でもないとしかつめらしく断言できる程度には隠された神秘に入り込めるかもしれない。しかし、このことは我々になにを語るのだろうか。意味のない呈示を際限なく否定し続けることで言葉と時間を無駄に使い、我々はなにを知ろうというのだろうか。もし否定の根拠が同じであるなら、個々の否定は特別なにも主張していないことになる(第三章121,124頁)。

 

 §26.ある限定のなかでは、排中律は厳密に正しい。しかし、同一性や矛盾の原理を調べたときと同様の誤りを主張することも容易だろう。「あらゆるものは他のなにかと同一であるか、あるいは、同一のものなどもたない」と言うことができる。

 

 結論として、再び私は排中律のもとにある実定的な原理について注意を呼び起こさねばならない。我々は、知識のあらゆる要素は他のあらゆる要素となんらかの関係をもつことが可能だと仮定している。もし望むならそれに形而上学的なひねりを加えてもいいのだが、そうすることで我々は排中律を超えでてしまうことになる。我々に言えるのは、実在が調和したものであり個的なら、それは調和の成員として存在しておらねばならず、相互に内的に関係しておらねばならない、ということである。