トマス・ド・クインシー『自叙伝』19

 神は子供たちに夢のなかで、また闇に潜む神託によって話しかける。だが、とりわけ孤独において真理は瞑想的な心に語りかけられ、その礼拝において神は子供たちに「乱されることのない霊的交わり」を与える。孤独とは光のように静謐なものであり、光のように最も強い働きをする。というのも、孤独は人間にとって本質的なものだからである。あらゆる人間はこの世に一人で来て、一人で去っていく。幼い子供でさえ、神の前に召されるときには、優しい子守が手を引いてくれることも、母親が抱いていってくれることも、妹がその恐怖を分担してくれることもないという不安な囁きを意識のどこかで感じている。王も司祭も、戦死も乙女も、哲学者も子供もみなこの重大な通廊を一人で歩かねばならない。それ故、この世界で子供の心を仰天させ魅了しもする孤独は彼が既に通り過ぎてきたより深い孤独、そしてまたこれから通らなければならないより深い孤独の反響である。かつてあった孤独の反映であり、いずれくる孤独の予表なのである。


 孤独という重荷は生存のあらゆる段階で人間につきまとう。生まれるときにはそうであったし、その後の生ではそうであり、死においてはそうであろう。まことに孤独とは強力で本質的なもので、過去・現在・未来に渡るのである。神の霊がこの上ない広がりを動くようにキリスト教のもとに休らうすべての者の心にたれ込めている。なにもないか影しかあるように思えない空の広大な実験室が実はそのうちにあらゆる事物の原理を隠しているように、孤独とは瞑想的な子供には目に見えない宇宙を映し出すアグリッパの鏡なのである。愛する心は湧き出る程であるのに愛してくれる者をもたない深い孤独。秘められた悲しみがあるのにそれを哀れに思ってくれる者のいない深い孤独。疑いや暗闇と戦っていても助言してくれる者のいない深い孤独。だが、これら最も深い孤独よりも更に深い孤独は子供時代に訪れる悲しみ、子供を最終的な孤独、死の門で待ち受けているものを垣間見させるものなのである。ああ、過去・現在・未来を支配する強力で本質的な孤独よ。その王国は墓のなかで完全なものとなる。だが、この私のように墓の外で立ちつくす六歳の子供をさえその支配力でもって呑み込むのである。