ブラッドリー『論理学』86
§27.この問題につけ加えて、イェボン教授の精妙な議論についても述べておこうと思うが、残念ながら私にはその議論が理解できないと言わねばならない。彼は、「A=Bあるいはb」と言うのは不正確に違いない、と論じる。*というのも、「Bあるいはb」の否定はBbとなり、aの帰結であるAの否定もBbでなければならない。これに対する反論は、Bb=0ということである。しかし、「あらゆる語は思考に置いてその否定をもつ」のであるから、Aの否定は=0ではあり得ず、「A=Bあるいはb」という前提は間接的に偽であることが証明される。イェボン教授はこのことから、「A=Bあるいはb」という形のいかなる判断も必然的に誤っており、代わりに「A=ABあるいはAb」と書かねばならない、という一般的結論を導きだす。
その最終的な結果には完全に同意するが、イェボン教授の推論は、私の理解する限りでは、根拠が薄弱で、私には結論と過程とをうまく調和させることができない。最後の問題を最初に取り上げよう。「A=ABあるいはAb」と判断することは正しいように思われる。しかし、否定とはなんであろうか。否定をAbBだとすると、a=AbBと結論せねばならない。しかし、AbBはほぼ明らかに=0である。結局、我々は前提の間違いを証明する結論を得ることになる。
かくして、結論は議論の調和を破るものであるが、にもかかわらず、この結論は完全に真である。我々が「A=Bあるいはb」と言えないことは真<であり>、<なぜ>それが真でなければならないか示すことにしよう。Aはある限定された性質をもっているものと我々は考えねばならない。<単に>Bあるいはbであるというのはとにかく何ものかではある。Bbが何ものでもないなら、単に非Bbであっても何ものかではあることになろう。Aは限定された何ものかであるので、「A=限定されない何か」はもちろん誤りとなる。「Bあるいはb」の領域は全体として非限定的である。
このことは先に採用した教義(123頁)を確認することになる。もし非bがBのそれだけの単純な否定なら、それは何ものでもない。このことの意味をしっかりとつかんでいれば、「A=非B」は真ではあり得ない。非Bの真の意味は、Bを排除するようななんらかの非限定的で一般的な性質である。Aがなんらかの限定的なものである限り、Aはそれではあり得ない。私はxの存在から(『諸原理』94,95頁)イェボン教授がこの教義に同意してくれるものと思っている。
しかし、イェボン教授が間違っているとした結論は、真であるばかりでなく、彼の受け入れた真の教義の必然的な帰結でもある。Aを選言の基礎にある本当の主語だとすると、「AはBあるいは非Bである」がAは実在であることを仮定しそうみなしているので、「a=何ものでもない」とならねばならない。
aが非存在<以外の>何かであるなら、Aを選言の基礎として用いることはできない。間違っているのはこの結論や前提ではなく、イェボン教授が抱懐している否定についての誤った観念である。
彼を正しく理解しているかどうか、私には確信がないことを告白せねばならないが、彼は、非存在は思考しうるものではなく、あらゆるものの否定は思考しうるので、否定は非存在であるはずがない、と論じているようである。「存在」を可能な限り広い意味をもつもとして使えば、この議論の主張は認められる。非実在、不可能なもの、非存在は、思考可能なものであるなら、存在していることとなろう。この意味において、無自体でさえ存在しているので、すべての議論が消滅することは明らかである。
しかし、消滅しないなら、存在が実在におけるような意味で捉えられるなら、議論は悪循環に陥る。真であるある観念の矛盾がそれ自体実在であると仮定する権利は我々にはない。例えば、「実在」という観念を取り上げてみよう。私は、思考においてすべての観念はその否定によって性質づけられるとさえ認めることはできない。我々が到達する最高度のものにさえ、間違いでそう考えることはあるにせよ、思考において対立物をもつと言えるかどうか疑わしいだろう。実在に矛盾するものが実在であるに違いない、というのは、あえてイェボン教授に帰することはできないが、論理的な間違いである。
最後に言っておくが、「経験」の学派がヘーゲルの主要な間違いに陥ったら、楽しくもあるし、運命の皮肉でもあるだろう。J.S.ミルによって賛成されたベイン教授の「相対性の法則」は、少なくともそうした方向に向かっていることを示している。「我々の認知は、そのままでは、二つの属性が否定し合うものとして説明される。それぞれは、他方の存在を否定しているゆえに確かな存在をもっている。」(『感情』571頁)ベイン教授がこの不吉な発言において実際に口にしていることを意味しているのだと言うつもりはないが、断崖の際にまできていることは確かである。「経験」の学派が事実に関してなんらかの知識をもっているなら、ヘーゲルの罪は「相対性」の不足にあるのではなく、過剰にあることを知るだろう。一度でもベイン教授とともに「我々は諸関係しか知らない」と言い、(彼が言うように)そうした関係は肯定と否定の間にもあるのだということが<意味される>なら、正統的なヘーゲル主義の主要原理を受け入れたことになるのである。
二重否定
§28.<二重の否定が肯定である>ことは明らかである。「AはB<ではない>というのは誤りである」とは肯定的な主張「AはBである」に等しい。しかし、それは、つけ加えられた否定が、単に元々の判断を否定しているためではない。もしそれですべてなら、何も言うことはない。単なる非Aがゼロだとすれば、非非Aが可能なら、それはゼロ以下だろう。否定は肯定的判断を前提とするといわねばならないこともなく、それは否定が否定されるときに残されるものである。前に見たように(第三章§4)、こうした肯定判断は前提とされない。