幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈52

縄あみのかゞりは破れ壁落ちて 重五

 

 蹴鞠をする場所を「かかり」というので、かがりを誤って鞠場と解したものもあるが間違いであり、取りがたい。蹴鞠の場は四方に竹の囲いを作るのが習慣で、壁、縄編みなど用いるとは聞いたことがないし、また、松桜楓柳を植えるのを四本かかりということはあるが、牡丹を鞠の場の周辺に置くなどということはありうることではない。これはかがりであり、かかりではない。かがりは繕いつなぎ合わせることである。むしろのかがりは縫いかがるものであり、童謡の、「わしのお手鞠絹糸かがり」は繋いでかがることで、ここにいう縄あみのかがりは、漁師の用いる縄編みで壁を覆いかがって、壁土の欠けたところを防ぎ守ることである。こうしたことは漁師町の近くで見られることで、壁の上に板を覆ったり、竹で包む代わりに、縄網の古くなったので覆うこと、侍の用いる簑の上に縄編みを覆うようにする。かがりは網の節だというのも間違っていて、網の節は結目といい、蟇股に結ぶなどといって、かがりとは言わない。「縄あみのかゞりは破れ壁落ちて」の一句の意味はこれで明らかである。前句とのかかりは、庭の周囲の塀の壁の土が落ちて裏が透き通って見え、牡丹の美しさが日頃目につくということである。牡丹は漁村でも、浜辺でもよく咲くもので、播州池田は海に近いところだが、関東の国々でも牡丹を植えようとすると池田より買い求めるほどである。また、武州金沢の野島は漁村であるが、旧家の泥亀氏は牡丹のよいものをもっているというので名が聞こえており、昔は江戸よりわざわざ泥亀の牡丹を見に行くということもいった。そうであれば、このつけ句になにも怪しまれるようなところはない。牡丹は花の富貴なものであり、金殿玉楼でも付けるべきなのに、却って壁の破れたところが変化だなどというのはあらぬ方に心を回した解である。