ブラッドリー『論理学』90
§3.その相違は「外延」と「内包」という用語によって表現することができる。これらの語は英国の公衆によって好まれており、「内包」という語の見境のない使用は優れた人のなかにも認められる。しかし、それらは論理学のためには有用ではない。不必要であり反論の余地のあるものである。一般的に使用される語に対して利点があるわけではないし、加えて、明確な悪影響がある。「内包」とは「含む」ことである。そして、ある語の意味はそこに含まれているものではない。個物の名では、恐らく意味は「内包されている」と言えるだろうが、「赤い」といった形容詞や「赤さ」といった抽象の場合、「内包されている」ものは明らかに諸属性ではなく、個別の性質である。こうした濫用からは曖昧さ以外のものは生じ得ない。もし、ある語をそこに含まれる意味として、より一般的には直接的な意味を伝えるものとして<使おう>とするなら、自分の選択が既にある程度誘因となって引き起こしている混乱を予期せねばならない。
§4.この不注意な用語法に伴い、既に部分的には反駁しておいた迷信がある(第二章§17)。語は「非内包的」でもあり得ると言われる。それらは主語のみ、あるいは属性のみを意味することができる、と言われる。そうした主張は退けられねばならない。「白さ」といった語が単に抽象的な性質だけをあらわすようなことはない。直接的にはそれを意味している。しかし、間接的に、白さの現実の事例、それに含まれる個物を指しているのである。それは、我々が既に反駁しておいた教義についても言える。ある個物の名前はある種の属性を運び含んでいなければならず、そうでないと個物と名との結びつきが心理学的に不可能となる。記号が何も意味しないが何かをあらわすと仮定するのは、単に考えが足りないのである。