1985年前後の芝居
赤い帽子の女・水のないプール―プロセスノート・初稿シナリオ (1982年)
- 作者: 内田栄一
- 出版社/メーカー: 三一書房
- 発売日: 1982/12
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私は日記を書いたり書かなかったりするが、書いている時期が圧倒的に少ないのは、特に事件もなければ、忘れずにおくべきか、というような怨念もないので、書くことがないからなのだが、見た映画や読んだ本のことは日付だけでもはっきりさせておくといざというとき便利なので、思いだしたように書いたりもする。
そんななか、たまたま1980年代後半に書いた日記が出てきて、例によって途中でやめてしまっているのだが、1988年にこれまでに見た芝居のベスト10を書いている。私が芝居を熱心に見たのは、1980年代中盤の多く見積もって4~5年ほどで、1988年の後半から1989年の中盤まで、つまり昭和から平成への改元をはさんで半年以上入院しており、退院してからは散発的に見ていたにしろ、以前のように週2~3回も通うことはなくなってしまった。
もともと閉じ込められることが苦手で、いったんかつての熱気が失われてしまうと、かつての熱が取り戻せなくなってしまった。それに、いわゆる小劇場のブームが起きて、夢の遊眠社や第三舞台などがどんどん人気を博するにつれ興味を失ってしまった。
私があげているのは次のような10本である。
1.状況劇場『新・二都物語』
2.第三エロチカ『新宿八犬伝』
3.究竟頂『空飛ぶ鍛冶屋』
4.銀幕少年王『ハッピージャンク・シティー』
5.鳥獣戯画『桜姫恋袖絵』
6.燐光群『デッド・ゾーン』
7.東京乾電池「まことむすびの事件』
8.第七病棟『ビニールの城』
9.転移・21『水の柩』
10.毎日ジャイアンツ『冬の星座』
当時の芝居を思い起こさせるような表現は、現在でも時折目にすることがある。たとえば、園子温の『TOKYO TRIBE』は上記の10本のあとに見た維新派の芝居を思い起こさせるものだった。また、映像でEGO-WRAPPIN'の中納良恵が歌っているのを見ると、私が見てきた芝居のヒロインを髣髴させた。当時の劇団でヒロインを張るということは、場を支配する力が必要とされた。あるいは、同じ感じを椎名林檎が歌う姿から受けてもよかったかもしれない。だが、椎名林檎は(もっと先輩でいえば戸川純)たぶんにつくられたキャラクターで場を支配している。わたしが思い起こす「場の支配」とは、無理矢理にその場の空気をねじ伏せる力強さである。
この力が発揮されるにあたっては、劇場の問題も大きかったと思う。私が観た芝居のほとんどは、座席番号などなかった。例外は下北沢の本多劇場と渋谷のパルコ劇場、それに新宿の紀伊國屋ホール(西口にある旧館の)くらいだったろうか。現在と違うのは、中劇場がいまあげたくらいしかなかったし、そうした場所で公演するのはよほど成功した劇団に限られていた。一劇団である劇団☆新感線がコマ劇場の舞台に立つといったことは二十数年前には考えられなかった。私がもっぱら通ったのは下北沢のザ・スズナリ、アートシアター・新宿、名前は忘れてしまったが高円寺、中野、吉祥寺などにある小さな小屋だった。
二時間前に整理券をもらい、三十分前に並んで入るというのが一般的だった。それゆえ、場所の確保が芝居を見る前の重要な準備になる。前の方が好きなので、なるたけ若い番号をもらうようにしていた。定員などあってないようなもので、私は客を詰めこむ手際のよさを劇団の良否の一つの指針としていたほどだ。そんな小さな場所だからこそ力ずくでねじ伏せることが可能であったし、また必要とされたのである。
母親の仕事の関係で、一年に数回大劇場のチケットが手に入り、帝国劇場、新橋演舞場などの芝居を見る機会もあった。藤山寛美が生きていたころの松竹新喜劇、大地真央の『マイ・フェア・レディー』、先年亡くなった勘三郎がまだ中村勘九郎であったころ、柄本明や藤山直美と競演した舞台、森繁久彌の『屋根の上のバイオリン弾き』くらいがいま思いだせるところだが、小さな劇場での役者たちの力業に魅了されていた私は、大きな空間での役者のあり方、マイク越しの彼らの声などになじめず、だいたいは必ずついているお弁当とビール、それに小さな小屋では考えられないふかふかの椅子にすっかり安らかな気持ちになって眠ってしまうのだった。
いい意味でも悪い意味でも大劇場の芝居にはルーズさがあって、定番を見る安心感が役者と観客に共有されていたように思う。いまでも印象に残っているのは、森繁久彌の『赤ひげ』で、息子役は竹脇無我だった。息子は長崎で最新の医学を学んで帰ってくる。そして、旧弊なやり方を守っている父親である森繁久彌の赤ひげ先生とことあるごとに衝突する。しかし、いつしか息子は父親の仕事を認め信服するようになる。私はこの芝居を見ていて、眠るのも忘れて狐につままれたような気分になった。私にはこの息子が父親の仕事を認める理由がさっぱりわからなかったのだ。黒澤明の映画版(こちらでは父親が三船敏郎で、息子が加山雄三)がどうなっていたかよく覚えてないし、芝居の細部を覚えているわけでもないのだが、とにかく、転機となるようなさしたる出来事もないまま、さっきまで少しも父親を認めていなかった息子が次の瞬間には恐れ入っており、不条理劇でも観ているようだった。それでも観客の間から驚きの声があがることもなかったので、葛藤は解消されるべきだというルーズな原則が演出・俳優と観客との間に共有されていたと考えるよりない。
私のなかで芝居を見るという選択肢が増えたきっかけははっきりしていて、状況劇場を観たことである。新宿の花園神社に設置された赤テントで1982年に『新・二都物語』を見た。楽日の前日に見たのだが、あまりに興奮したので、次の日の楽日にもう一度行った。この芝居のラストは、いかにも状況劇場らしく、饒舌な言葉と強烈な情念で凝縮され煮つまるだけ煮つまったものを一挙に解放するかのように屋台崩しによって舞台の背景が崩れ落ち、その向こうに夜の新宿が広がるのだった。
楽日では、そのラスト・シーンで何らかの不手際があったらしく、屋台崩しがうまくいかなかった。舞台裏で飛びかう怒号を聞いて芝居というものの臨場感を感じそれもまた嬉しかったものである。後になって、根津甚八や小林薫が出ていたころの状況劇場が見られなかったことに歯噛みをしたものだったが、この時期の状況劇場も、李礼仙はもちろん、不破万作、六平直政、金守珍、佐野史郎などが揃っていたのだから豪勢なものだった(実は佐野史郎の印象はあまり残っていないのだが)。俳優としての唐十郎の魅力も大きなもので、ここはわたしなどより澁澤龍彦の言葉を引いておこう。
唐十郎の目は、さて何と言おうか、人間的感情の発散を塞きとめた、ガラスのような無機質の光を放った目なのである。思うに、「汚れちまった悲しみ」を見てしまった人間は、それ以後、こういうガラスの目で生きることを運命づけられるのであろう。唐作品に特有な、あの少年時代の冒険と悲劇の体験を再発見しようとする、身をよじりたくなるようなリリシズムとロマンティシズムの衝動は、こういう目の中で結晶するのであろう。
「愛の南下運動を記念して・・・・」
それ以前に見た芝居といっては安部公房スタジオ、山崎努主演のアラバールの戯曲、それに歌舞伎数回というところだったが、このときから数年にわたって、一週間に二、三本の芝居を観ることが続いた。整理券の番号順に並ぶと、色々な劇団の劇団員がチラシを配りはじめる。多いときは二十枚くらい貰った。ネットが存在していないから、シティロードという雑誌が必携だった。ぴあのような情報誌だが、どこでなにをやっているかという基本情報以外の特集や切り口が先鋭的で、そのことは映画欄の星取り表に松田政男、中野翠、宇田川幸洋、秋本鉄次といった名前が並んでいたことからもうかがえよう。
この雑誌は廃刊になったが、その雰囲気はいまも出ているテレビブロスに近い。それを頼りに、毎月どの劇団が何日から何日までどこで公演をするのかをチャートにしたノートをつくり、何曜日になにを見にいくか決めてせっせと通っていた。この間、状況劇場の芝居には欠かさず通った。若手公演では作家の島田雅彦がゲストで出演していて、海パン一丁で身体をくねくねさせながら台詞を妙な調子をつけながら発していた。
ちなみに言えば、寺山修司主宰の天井桟敷は見ずに終わった。その昔寺山修司が状況劇場の公演の際、冗談で贈った葬式用の花輪に怒った状況の劇団員が天井桟敷に殴り込みをかけたことなどもあり、ライバル・敵対関係にあるといった雰囲気がまだあった。寺山修司が死んだのが一九八三年の五月で、死の直前まで演出に携わっており、天井桟敷の最後の公演となった『レミング』のことはよくおぼえている。見もしなかったのにおぼえているというのも妙な話だが、紀伊國屋ホールで行なわれたこの芝居をその直前まで行こうかどうか迷っていたのだ。
寺山のエッセイや対談は読んでいた。短歌は読んでおらず、いまでもほとんど知らない。三島由紀夫との対談で、寺山がブリジッド・バルドーがカントの『純粋理性批判』をもっていたらエロチックだと思いませんか、と問いかけたのに対し、三島がそういう感覚はわかるが認めたくない、と答えるくだりなどおかしくていまでもおぼえている。
しかし、『上海異人娼館』や『さらば箱船』などの映画は面白くなかった。静的なイメージの連続で、映画としての躍動がほとんど感じ取れなかったのだ。したがって、彼の演劇についても、少なくともあまり私が好きそうなタイプではないな、と思っていたのである。後に、この公演を最後に天井桟敷が解散してしまったとき、やはり見ておけばよかったと後悔したが、更にその後、天井桟敷の劇団員のほとんどが移った万有引力の芝居を見て、もし天井桟敷の芝居がこういう感じであったなら、やはり見ないでもよかった、と思った。寺山の映画と同じく、審美的かつ静的なイメージの連続で、状況劇場にあった猥雑さがノスタルジーに、汚い町の路地が砂漠や波荒れ狂う大海に直結するようなダイナミズムに欠けていたのである。
このように芝居を見始めたわたしが、数年後に行き会ったのが第三エロチカの『新宿八犬伝』で、ヒロインは深浦加奈子だった。公演場所は今ではなくなってしまった新宿コマ劇場の裏にあったアシベホールだった。確か『新・二都物語』を見て、まだ他にどんな劇団があるかもわからない私は、第三エロチカのチラシにあった唐十郎の推薦の言葉を読んで見にいったのではないかと思う。
いずれにしろ、第三エロチカは、饒舌さ、妄想によって現実を変革しようとする大胆かつ無謀なところ、作・演出の川村毅が役者として出演もするところなど、明らかに状況劇場の多くの因子を受け継いでいる劇団だった。そして、深浦加奈子は場を力でねじ伏せることのできるヒロインであり、しかもなお格調の高い美しさを崩さなかった。頬骨の高い顔はディートリッヒにも通じるような古典的な美しさをもっていた。状況劇場は李礼仙の存在感にもかかわらず澁澤龍彦言うところの「少年時代の冒険と悲劇の体験を再発見しようとする」主題が通底することもあってか男芝居の印象が強いが、第三エロチカは川村毅、有薗芳記といった個性的な男優によってますますヒロインが際だっていく芝居だった。
かくして、第三エロチカの公演によって状況劇場以外の劇団への門が開かれたわけだが、第三エロチカは鍾愛する劇団にはならなかった。というのも、『新宿八犬伝』第一部第二部は文句なしに面白かったが、それ以降の『ニッポン・ウォーズ』や『ラスト・フランケンシュタイン』などはなにか歯車が噛み合わない感じで、結局その後を追いかけるのをやめてしまったからである。もっとも後で述べるように、深浦加奈子との縁がこれで切れたわけではなかった。ちなみに、第三エロチカでいえば、もう一人、香取早月が贔屓だった。狐のような顔をしたボーイッシュな女優で、迫力のある表情で言いたいことだけ言ってしまうと、舞台の脇で膝をかかえて座っているような役柄が多かったように思う。その姿には、なにか、衆人環視のなかでの寂寥感のようなものが漂っていた。
この集中的に芝居に通った時期に心底熱狂した劇団は別にあった。一つは山川三太主宰の究境頂である。まったく知らなかったこの劇団を見にいったのは、チラシに山川三太と種村季弘との対談が載っていたからだった。本来、究境頂は状況劇場と同じくテント芝居だったが、わたしはテントでの公演は一度しか見ていない。というのも、この劇団はまもなく解散してしまったからである。結局わたしが見たのは、テント、高円寺のスタジオでの二回にとどまる。
究境頂のヒロイン鳳九が、他の二つの劇団の女優と集まって行なった三人芝居を加えると三回になるが。テントで見たのは『空飛ぶ鍛冶屋』という芝居で、場所はよくおぼえていないが、なんでも駅から相当歩いたような気がする。周辺には何もないのっぱらのような場所に銀色のテントが立っていた。花園神社のような喧噪と隣り合わせの場所ではなかったから、朧気になった記憶で思い返してみると、夢のなかの出来事か、水木しげるの漫画にでも入り込んでいたかのような気分になる。芝居の内容もまた朧気だが、安部公房の『友達』のように、見知らぬ他人がずかずかと家庭のなかに入り込むところから始まったと思う。それがどういう具合にか、錬金術的な創世の神話に結びつくのだ。
ヒロインの鳳九がまた魅力的で、イタリアの女優、ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレを思い起こさせた。創世の神話といっても、決して堅苦しい難解な芝居ではなく、芝居を見てこのときほど笑ったことはなかった。このことは実は大変なことで、それというのも、この公演、観客が十人ほどしかいなかったからだ(やはり辺鄙な場所が障害となっていたのだろう――都内であったのは確かなのだが)。役者と観客が互いを意識せざるを得ないこのような状況で笑いが絶えないというのは、満員の劇場をわきかえらせるのより、より容易なことだとは言えまい。二回の公演しか見られなかったことが思い出を美化しているかもしれないが、とにかく究境頂は状況劇場以後始めてのぼせ上がった劇団だったのである。
しかし、究境頂は、テント芝居であること、卑俗な現実が創世の神話と結びつく展開など、第三エロチカと同じく、多かれ少なかれ状況劇場からの流れにあった劇団だった。当時熱狂したもう一つの劇団こそ、状況劇場的な作劇を相対化する視点を私に与えてくれた。そして、これ以後、この劇団の与えてくれた方向にわたしの好みも移っていく。それが内田栄一が主宰する銀幕少年王である。
内田栄一でもっともよく知られているのは、脚本家としての彼であろう。藤田敏八の『バージンブルース』『妹』『スローなブギにしてくれ』『海燕ジョーの奇跡』、若松孝二の『水のないプール』『スクラップストーリー ある愛の物語』、神代辰巳の『赤い帽子の女』、根岸吉太郎の『永遠の1/2』などが彼の脚本(及び共同脚本)である。もともとは「新日本文学」に入会し、小説家として出発したらしい。安部公房のもとにいたということをどこかで本人が書いていたのを読んだ記憶がある。わたしが読んだ小説は(題名は忘れてしまったが)、なんでも中年の男がナンパした少女と部屋のなかでごろごろしている、といった感じのものだった。藤田敏八の映画を思わせるもので、当時わたしが内田栄一についてもっていた印象は、軟派な硬派というものだった。とりわけ硬派の部分が突出しているのが劇団主宰者としての内田栄一だった。1967年の公演『ゴキブリの作り方』は花田清輝に激賞されたというが、コンスタントに演劇に関わっていたのかどうか私は知らない。
銀幕少年王の芝居がどのようなものであったか伝えるのは難しい。まず、状況劇場のように、かけがえのない役者の存在を前提に成立するような芝居ではなかった。役者は公演ごとに代わっていった。池袋の文芸座ル・ピリエでの公演では田口トモロヲが出演していて、さしたる必然性もなしに服を脱いで、腰蓑の間から性器が見え隠れしていたのをおぼえているが、それは当時彼がボーカルをしていたパンクバンドばちかぶりを聞いていたから記憶に残っているのだろう。舞台装置も大げさなものはほとんどなかった。
ある意味象徴的なことだと思うが、あれほど熱狂していたというのに私は一つも公演名が思い出せないのだ。基本的なパターンは決まっていて、短いスケッチ風の芝居と、さあなんと言ったらいいか、リズミックな音楽にのせてなされるごく単純な動作の持続が交互に繰り返されるのである。たとえばその場で駆け足をしながら、隊列をなして、その編成を変えていく、といった誰にでもできる動作で、ここにも役者の特異性をあてにしない姿勢が一貫している。
後で触れることになるかと思うが、関西の劇団維新派の芝居に近いと言えるかもしれない。維新派の主催者である松本雄吉も経歴が長いから、あるいはどこかで擦れ違って影響を与えあったというようなことがあるかもしれないが、よくわからない。しかし、維新派は巨大な舞台装置を組み立てることが芝居の一環となっており、その点では両劇団は正反対である。内田栄一には『生理空間』という身体論であり、演劇論でもある著作があるが、まさしく彼の芝居は単純な動作の持続によって人間が無名の生理へと還元されていくのである。
あり得る誤解を避けるために言っておけば、銀幕少年王の芝居は、モダン・アートに特有なコンセプチュアルなものではなかった。後に、絶対演劇宣言と題してまさにコンセプチュアルな欧米の演劇ばかりを集めた催しがあったが、箱を右から左へ移すような単純な行為の繰り返し自体は両者に共通するが、こうした演劇にはまったく劇的興奮をおぼえなかった。内田栄一の芝居が人間がなにか訳のわからぬものに変貌するさまを見せてくれるのに対し(キューブリックの『フルメタル・ジャケット』の前半部分、新兵に対するしごきの場面で、汚い言葉に乗せて繰り返されるランニングが若者を何ものかに変貌させるように)、それらの演劇ではどこまでいっても概念によって動かされる人間は概念によって動かされる人間のままなのだ。
その他印象に残った劇団を思いつくままにあげてみよう。劇団鳥獣戯画は歌舞伎ミュージカルと称して『桜姫東文章』などをミュージカル仕立てにして公演していた。美空ひばりが主演する歌謡映画の雰囲気で、和製ミュージカルの変な臭みがなかった。歌舞伎にインスパイアーされた劇団としては花組芝居もあったが、わたしは鳥獣戯画の方が断然好きだった。坂手洋二の燐光群は政治と性や変革と情念の、山崎哲の転位・21は日常から犯罪へと向かう回路を示してくれた。女性ばかりの劇団青い鳥がこの頃話題になっていて、数回見に行ったが、おしゃれではあったが劇的なるものはさほど感じなかった。どうも男性だけの劇団や女性だけの劇団には性的葛藤がない分、劇的緊張の水位が一段階低くなるように感じるのが常であった。
土方巽は間に合わなかったが、多かれ少なかれ彼から発している舞踏も幾つか見た。誰であったか名前は失念したが、舞踏家が十メートルくらいの距離を一時間ほどかけて移動する舞台があって、こういうのは他人の行を見せられているようでそれほど感興がわかなかった。山海塾もわたしには禁欲的かつ審美的すぎた。もともと微細な動きを緊張感をもって見守り続けることがわたしはあまり好きではないらしい。
その点、麿赤児の大駱駝艦や大駱駝艦から分かれた白虎社(山海塾も大駱駝艦から派生したのだが)は楽しかった。特にこの両集団の場合、くだらないことをするときほど身体があるべき場所にぴったり収まるのが見事だった(かつて『タモリ倶楽部』で麿赤児が登場する体操のコーナーがあったが、ばかばかしい文句に乗せて動く身体の正確さには毎回驚かされた)。
モダン・ダンスはさほど見ていないが、ロバート・ウィルソン(音楽フィリップ・グラス)の『浜辺のアインシュタイン』やフランクフルト・バレエ団を率いたウィリアム・フォーサイスの公演などを覚えている。ダンスやバレーと舞踏は対照的で、跳躍による上方への志向においてダンスやバレーが際立っているのに対し、舞踏は地を抉るかのような動きにおいて優れていた(勝新太郎演ずる座頭市の、独楽のように地を這いずる殺陣を思い返してもらってもいいだろう)。
退院してから見たのは、維新派がある。先ほど述べたように、維新派は舞台装置を組み立てることが芝居の大きな要素であり、新橋の空き地に巨大なセットが建てられていた。1991年の『少年街』である。維新派は自分たちの芝居をジャンジャン☆オペラ(ジャンジャンというのは大阪新世界のジャンジャン横丁からきているらしい)と呼んでおり、銀幕少年王同様、芝居の部分と大阪弁で掛け詞や語呂合わせを大量に含んだ短い言葉の積み重ねを踊りながら歌う部分に分かれている。踊りも言葉と同じように、アクロバティックなものではなく、短く簡単な動作の積み重ねによって成り立っていた。舞台はノスタルジックな未来とでも言うべき空間で、そこで顔を白く塗った少年少女たちが壮大な仕掛けのなかを歌い踊る姿にわたしは圧倒された。すっかり興奮して、劇中音楽のカセットを買って帰ったのだが、肝心の歌が入っていないのにはがっかりした。それでも、数日間音楽とリズミックな歌の調子が取り憑いたように離れなかった。
興奮した芝居、熱狂した芝居、楽しんだ芝居と芝居の経験も様々だが、わけがわからないということで群を抜いていたのは東京乾電池のチェーホフ劇だった。面白かったかと言われると言葉に窮するが、それではつまらないかというとそうも言えない、ただただ困惑のなかに放置される体の芝居だったのだ。神西清の訳した脚本を、柄本明、ベンガル、綾田俊樹、角替和枝といった乾電池の役者たちがまったく感情を交えないフラットな台詞回しで述べ立てる。アドリブなども一切なく、蛭子能収が人が真面目なことをしているとおかしくなってくる癖がでて、同意を求めるように周りの役者に笑いかけるのだが、誰一人として応じる者がないので、曖昧な表情のなかに笑いを紛らわすことが幾度か繰り返された。チェーホフに現代性を盛り込もうとするような特別な演出もなく(演出は柄本明)、早口の台詞だけが滔々と流れていくような芝居だった。とにかく不思議な時間だったと言うしかない。
もっともこうした「実験」は一時的なものであったらしく、最近、劇団創立三十周年の「劇団東京乾電池祭り」の演目シェイクスピアの『夏の夜の夢』、小津安二郎の『長屋紳士録』をDVDで見る機会があったが、それなりに人情もあり、デフォルメによるおかしさもあり、こういってはなんだが、ごく普通に面白い芝居になっていた。
平田オリザの青年団を最初に見たときも、心を奪われた。1991年の『S高原から』をこまばアゴラ劇場という小さな小屋で見た。確かサナトリウムが舞台で、特になんということもない話を交わす。役者と観客の間に想定される第四の壁の扱いにおいて特異で、あたかも役者は観客が存在しないかのように振る舞い(お尻を向け続けることもある)、台詞は順々に受け渡されるものではなく、重なり合う。ロバート・アルトマンの映画のように複数の会話が同時に進行することもある。「静かな演劇」などと形容されることもある青年団だが、見ていて実にスリリングだった。
松本修を中心にしたMODEはこれまであげた劇団のなかでもっともソフィストケイトされた劇団だと言えるかもしれない。小道具などの舞台装置も、衣装も、音楽もシックでおしゃれだった。単に歩くことでさえ、この上なく楽しい演劇的行為になることを教えてくれたのがMODEだった。必ず演目のどこかで、役者たちが一列になって、そう、ちょうどスキップのようにアクセントをつけた歩き方で舞台を経めぐるのだが、それを見ただけでわたしは幸福感に満たされたものだった。この劇団に第三エロチカを退団して参加していたのが有薗芳記と深浦加奈子で、ここでの深浦加奈子は実にチャーミングでかつエレガントだった。大きく弧を描いて再び深浦加奈子に戻ったことでわたしの芝居の話も尽きてしまう。