ブラッドリー『論理学』92

 §7.しかし、(b)たとえこうした意味を拡がりに与えたとしても、この説は真ではない。いくつかの観念を比較したとき、より狭い意味をもったものが、常により広い適用が為されるわけではない。単純な例を取ってみよう。可視的という観念は、我々全てが認めるだろうように、可味的あるいは可臭的よりは充分な意味をもっている。しかし、後者はより広い拡がりをもってはいない。同格で、一方が他方に包摂されないような形容詞群や形容詞の組み合わせをとると、この説は何の意味ももたなくなる。空虚であるほど抽象化が進んでいるとは言えないように、内容の少ない形容詞の方が多くの事物に対して述語となる根拠など存在しない。

 

 もし、徴候や徴候の組み合わせと言う代わりに、組み合わせの法則あるいは様態と言っても、同じことが言える。それらの法則の一方が他方を含むのではなく、共通の頭のもと同格なら、それらの法則を比較し、空虚なほうがより広範で、広範なほうがより空虚だと期待する権利はない。

 

 §8.この説に<なんらかの>真実があることは間違いないが、それは次のようなこと以上ではない。もし形容詞的な徴候や法則をとり、それをピラミッド状に並べ替えたなら、もしその底に、礎石として、なんらその下に従えるもののない観念を置いたなら、もし二つの観念の差異を減じることで第二層を積み重ねていき、一組の石の上には減じた残りが乗るのだとしたら、もしそうして各層ごとにどんどん狭くなるように、層に層を重ねたとしたら--もしこれだけのことが全てなされたとしたら、高く登るほど石が少なく、低く下りるほど石が多いのは幾何学的に真である。そして、差異を置き去りにして登るので、ピラミッドが狭くなればなるほどその石は多くのものの上に立っており、多くのものの述語となることができる。これは否定することはできないが、だからどうなるというのだろうか。<もし>材料をある幾何学的な形に並べたら、<その時には>それはある種幾何学的な性質をもつだろう、と言っているだけである。それは真であるが、まったく取るに足らないように思われる。