2021-02-01から1ヶ月間の記事一覧
(しかし、自己にだけ属するような内容、非自己にだけ属するような内容があるだろうか。) 発見可能な自己と非自己は具体的な集合(1)で、問題はその中身にある。本質的に非自己や自己であるその内容とはなんであろうか。多分、この探求を始める最上の方法…
(それぞれが具体的な集合である。) 主体と対象が内容をもち、実在する心的な集合であることは私には明らかなように思われる。自我というのがこの、あるいはあの心的要素によって本質的に説明されるようなものでないということがしばしば語られるのは私も知…
(Ⅵ.非自己と対立するものとしての自己。) (6)我々は自己を理解する最も重要な方法に自然に行きついた。現在に至るまで我々は主体と対象との区別を無視してきた。我々は心的な個人から出発し、そこに、あるいはそれに関連した自己を見いだそうと試みて…
(Ⅴ.関心を抱くものとしての自己。) (5)自己とは私が個人的関心として受け取るものなのだと思われるかもしれない。私のものだと感じられる要素が自己と見なされ、それがつまりは存在する自己のすべてなのかもしれない。そして、関心とは、全部ではない…
(Ⅳ.モナドとしての自己。) 我々はここまで、自己がなんら明確な意味をもたないことを見てきた。それは個人の内容のある部分とは言えない。また、日常性に還元されるような、平均的と捉えられるような部分でさえない。自己は本質的な部分や働きであるよう…
(人格の同一性。) 我々は個人の同一性の問題に行きついたわけで、自己というときその意味を知っていると思っている者は誰でもよいのでこの問題を解決してみてほしい。私には解決不可能に思われるが、それは、問いかけられた問題が本質的に答えることのでき…
(Ⅲ.本質的自己。) 3.それでは、以前のように、人間の心をとり、その調度と内容とを調べてみよう。我々はその一部には自己があり、それが一つのものであることを見いださなければならない。我々が知る限りでは、ここで一般的な観念の助けを求めることは…
(Ⅱ.経験の平均的な内容物としての自己。) 2.ある瞬間における人間の内部にある集合体では、自己とはなにかという問題に対する回答として満足のいくものではない。自己は、少なくとも、現在時を越えた何ものかでなければならないし、相矛盾する変化の系…
(他を排除した身体としての自己。) 身体と同一視される自己についてだけ言及することにしよう。我々の身体の知覚には、もちろん、いくつかの心理学的な誤りがある。そしてそれは、なんらかの直接的な提示によって、自己の真のあらわれとは有機体の存在なの…
三富朽葉は明治22年長崎県の壱岐で生まれ、八歳のときに家族ともども東京に移り住んだ。そのとき、相続人のいなかった伯父の三富家の養子となった。早稲田大学の英文科に入り、在学時代から詩社を結び、活発に詩作、日本にフランス流の象徴詩をもたらそう…
第九章 自己の意味 (最終的に自己とはなにを意味するのか。) いまに至るまであげてきた我々の事実は、実体のないものであることが証明された。事物はばらばらになり、項を見いだすことのできない関係に砕かれてしまった。そして、恐らく我々にはある疑いが…
明治に入ってからの近代的短歌については、私はまったく知るところがないが、与謝野鉄幹の第一の詩文集である『東西南北』(明治29年)には短歌の師匠である落合直文から、森鷗外、齋藤緑雨、正岡子規まで総勢十人の序文を取りそろえていて、ずいぶん臆面…
(事物の同一性についての日常的な混乱。) この問題は、単に巧妙に考案された抽象ではなく、実際的な場面においても姿を見せる。ある対象が本当に同じものかと問われたとき、答えるのが不可能なときがしばしばある。人工的につくられたものが、部分的に作り…
(事物は観念、そしてあらわれと同一性をもたねばならない。) 私はすぐにある点に突き当たるだろう。存在する事物は、同一性をもっていなければならない。そして、同一性は、よく言っても疑わしい性格をもったものに思われる。もしそれが単なる想像物だとい…
第八章 事物 (これまでの結果は事物を破壊する。) この先に進む前に、都合がいいのでこの地点で一時中断しよう。読者は、事物ということで理解されるもののうち我々に残されたものがなにかあるのか自ら問うておられるかもしれない。実際のところ、「事物」…
(活動性と受動性は互いに含み合うが、不整合である。) 受動性と能動性の問題に戻ろう。なにものもきっかけがなければ能動的ではあり得ず、能動的なものはきっかけがある限り受動的であるのは確かである。また、きっかけは因果の過程に入るので--事物はそ…
(条件と諸条件の総計) この曖昧さは、原因と条件との一般的な区別に見られるもので、このことはより詳しく調べてみる価値がある。どちらの要素も、結果を生み出すことにのみ必要だとされる。任意の場合において、どちらの用語を選ぶかはほとんど、あるいは…
(受動性はどんなそしてどのように活動性と結びつくか。どんな場合であるか。) 受動性は能動的な活動を含んでいるように思える。それは事物の変化であり、もちろん、事物は残り、新たな属性が加わる。その属性は、変化の前には事物がもっていなかったもので…
(自己原因的な変化である。) 活動は、なにかが別のなにかに変わることを含んでいる。それで多くのことが明らかだと私は思うが、活動は単なる原因のない変化ではない。事実、既に見たように、それは考えることもできない。というのも、AbがAcになるには…
(時間における変化を含む意味合いをもつ。) 強さ、力、勢いといった語には活動と区別されるようなある意味が存在する。それらは偶然的なものではなく、せき止められた生気や、非存在と存在との間の領域にあるなにかをあらわすために用いられる。このことを…
第七章 活動 (本来的な〈所与〉であるかないかは見当違いな問題である。) 活動が実在なのか単なる仮象なのかという疑問を投げかけたら、それは本来性をもち、究極的で、単一なものだという主張に出くわすことになろう。この主張は不正確で、まったく根拠が…
(因果系列は連続的でなければならないが、連続的ではありえない。) 余計なことではあるが、ここで、因果的な変化の連続から生じる一つの難点をつけ加えておこう。継起は、一方では完全に切れ目のないものでなければならないが、それでは不可能である。この…
(その結果との関係は理解不可能である。) この点において、出口の扉が開いたと空想することができるかもしれない。差異が我々の混乱の源なら、原因と結果を同一化してしまえばどうだろうか。世界の同一の本質が、どの瞬間においても変わることなく自らを守…
(すべての諸条件にまで原因を拡大しても、完全なものとはなり得ない。) 因果関係を正当化しようとする我々の努力の唯一の意味のある帰結は、原因や結果を孤立化させることが不可能なことを示したことにあるように思える。擁護できる主張をしようとするなら…
(錯覚に基づく説明の試み) 我々が原因においてもっているのは、新たな原則なき妥協、純然たる一時しのぎである。じきにそれは本性をあらわにする。原因は単なるAではない。それでは耐えきることができない。原因はA+Cである。しかし、この結合は意味がない…
第六章 因果関係 (変化の矛盾を避ける努力。しかし、原因と結果は両立しがたい。) この章の目的は、第一に、因果関係の主要な矛盾を指摘し、第二に、時間の連続性から生じる障害を明らかにすることにある。他の一般的な問題については後の章で考えることに…
カール・Th・ドライヤー コレクション 奇跡 (御言葉) [DVD] 発売日: 2010/05/29 メディア: DVD 原作:カイ・ムンク 撮影:ヘニング・ベルツェン 音楽:ボウル・シーアベック 出演:ヘンリク・マルベルイ エミル・ハス・クリステンセン プレーベン・レーアド…
(その真の本性) 端的に言って、この創造物は怪物である。仕事のための作業仮説ではない。他のほとんどの怪物と同じく、それは実際には不能である。注意を答えから問題へとそらす、意味がなく有害なものである。 これは、我々の形而上学的な議論につきあっ…
(継起の知覚は無時間的なものではない。) この章を、継起の、あるいはその主要な特徴についての知覚を述べることで終わりたいと思う。この問題を形而上学的観点においてのみ触れ、心理学的な点については別の機会にとっておこうと思う。私の知る限りの最上…
(変化は我々のジレンマの新たな例であり、理解不可能である。) 変化の問題は運動のもとにあるが、変化が根底的なのではない。一と他の、差異と同一性の、属性と事物の、性質と関係のジレンマに戻されるだけである。なにものかがいかに他のものであり得るか…