ブラッドリー『仮象と実在』 37

      (事物の同一性についての日常的な混乱。)

 

 この問題は、単に巧妙に考案された抽象ではなく、実際的な場面においても姿を見せる。ある対象が本当に同じものかと問われたとき、答えるのが不可能なときがしばしばある。人工的につくられたものが、部分的に作り直されるような場合、そうした疑問は意味するところをより明確にしなければ無意味である。あなたは、あなたが考えているのがどの地点で、どの側面から見ているのかを言わなければならない。というのは、同一性の問題は常に性格の同一の問題の周辺を経巡っており、そのことに一般的な形で答えられない理由は、事物の本質であるこの一般的な性格をあなたが知らないからである。これは物質的な存在に関するばかりではなく、我々は有機体を、その要素がすべて異なっているにもかかわらず、同一であるという。それは、事物がそうであるように、形、大きさ、色、存在理由が常に同一ではない。実際、事物の同一性の一般的な性質は、まず、その存在にいかなる決定的な裂け目をも避けることと、異なった事物では異なる性質の同一性に存しているように思われる。ある事物では--文字通り、我々はどんな性格がその同一性にあるのか知らないので--同一性が守られているか尋ねられても我々には頼りになるものがない。もしごく普通の考えにある価値を例証するようなものをあげるとすると、多分、ジョン・カトラー卿の絹の靴下があげられるだろう。それは絹の繊維がなくなるまで繕うことができるが、それが同じ古い靴下なのか、繕った新しいものなのか意見が一致することはあり得ないだろう。簡単に言うと、事物の同一性は、あなたがとる観点次第なのである。その観点によっては、しばしば単なる偶然の観念であり、必然的に思われるにしても、それは観念にとどまる。あるいは、それは一つの性格で、あなたが取り上げるいかなる事実をも越えた外側にある。そうであっても、事物がいかにして実在となりうるかを見て取るのは容易なことではない。そして、この限りにおいて、事物は単なる仮象であることが理解される。