幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈55

禿いくらの春ぞかはゆき 野水

 

 禿はかぶろともかむろともいい、本来は髪がない意味で、髪振(振り乱した髪)という意味は間違っているだろう。髪を束ねないのを禿というのは、あるべきものがなく、冠もかぶっていないことからいうのだろう。『源平盛衰記』巻一に、「入道殿のはからいで、十四五、もしくは十六七の童の髪を首のまわりで切って、三百人召し抱えた」とある。またそのあとに、「入道殿の禿といえば京中でも較べるもののない高い身分のものだった」とある。このことから、髪を首のまわりまでにして切り、束ね結うことがないのを禿といい、またそうしたかむろ髪をしたものを禿といったことは明らかである。女性でも天和貞享のころはかむろ髪にしたものが多いことは、浮世絵などに見える。この句の禿は十三四の女の子である。「いくらの春ぞ」は幾年の春を重ねたのだろうということである。この禿は嫁入る人に付き添っていく童女だとも、輿入れする幼い姫が禿なのだとも、嫁入りする人を見にでてきた禿を嫁がほめたのだとも、諸説ある。かぶろ髪の姫君の輿入れするということはあまりに稀なので、前句の「いかめしく」というのにつけて、切り禿の美しい女童を新しくきた人物が召し連れていたのを見ていたものが、新しくきたひとの顔はよく見えないが禿の美しいのを見て、「いくらの春ぞかはゆき」というおもむきを述べたものだろう。幼い姫の輿入れというのは、「初花」という言葉に幻惑された解釈だろう。