一言一話 80

 

羊と石

 

黄初平が金華山中で白石を叱して羊と為したと云ふ故事。(・・・)

  羊成石、石成羊  (羊ハ石ト成リ、石ハ羊ト成ル。

  即此可以喩滄桑  即チ此レ 以テ滄桑ニ喩フ可シ

  今朝有酒須盡觴  今朝 酒有リ 須ク觴ヲ盡ス可シ。)

    飲満座  (満座ニ飲マシム。)

確か「列仙伝」かなにかのなかに、宮廷に招じられた仙人が、仙術を見せるように言われて、石になるという話がある。

ケネス・バーク『動機の修辞学』 54

.. 殺害と不条理

 

 生け贄に関して。マックス・ブロートからの引用は、キルケゴールの読者が、神がアブラハムにイサクを生け贄に供えるよう命じたという聖書の物語をどのように解釈するかを示している。だが、聖書によれば、アブラハムが「刃物をとり、息子を屠ろうとした」とき、主の御使いが押しとどめ、こう言う。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 

 聖書の一挿話に関して神学理論を打ち立てるというのに、なぜその重要な部分を軽く扱うのだろうか。物語全体を取り上げても簡潔なものである。だが、それをもとに神学的教義をなしたキルケゴールは更に簡潔なものにしてしまったのである。主の御使いがアブラハムの手を止めたのは、アブラハムがイサクを生け贄にすることをいとわなかったのと同じくらい重要な物語の部分なのは確かではないだろうか。少なくとも、イサクはそう考えたに違いない。

 

 周知のように、この章は息子を生け贄にした父親の話ではなく、<代わりの犠牲を捧げることを許された>父親の話である。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」

 

 これは、イサクの殺害を命じた神の話なのだろうか、それとも、アブラハムに<生け贄をいとわないよう>命じる神の話なのだろうか。この点は物語そのものに明らかになっている。神が求めているのは殺害ではなく、そのしるしであることが語られている。しるしが得られたとき、神は息子を助けるよう命じる。「道徳と宗教の範疇」はここではうまく共存しているように思われる。宗教は、最も大切にしているものすら犠牲にするのをいとわない献身を要求する。そして、<種族道徳に最も厳密に従った結果>、アブラハムの息子がテストケースとして選ばれた。種族道徳に従えば、唯一の息子が最も貴重なものだからである。神のここでのやり方は、アリストテレスの『弁論術』にある「論点」の理論に完全に一致している。神はそのとき流通している「一般的意見」のなかで、最高の犠牲という原則について最も説得力のある対象を選んだ。「倫理の神学的な宙づり」など持ち込む必要はないのである。

 

 幸福の要素として、アリストテレスは子供にまつわる親の喜びをあげている。神は、不条理な行為としてではなく、良きアリストテレス主義者として、価値のある論点に働きかけている。結果として、物語に関する限り、アリストテレスならアブラハムの性格造形に使うであろう論点が正確に用いられ、<エートス>に満ちた効果を上げている。

 

 この点を独特なやり方で過度に特殊化するキルケゴール流の実存主義は、挿話を十分に普遍化していない。イメージとしての子殺し(<それ自体>としては、道徳的な罪であろう)にあまりに重点が置かれているが、最高の犠牲という観念(宗教的な敬虔さを示す)により重点が置かれるべきなのである。また、重要な動機づけの要素をすべて論じようとしない点にも誤りがあると思われる。心理主義的な歪曲は、少なくも神自身の動機の言明という重大な箇所を除くことで更に悪化する。歪曲と過度な特殊化の産物として、殺害の礼賛が神学的な意味合いをもつという偏った文学的帰結が一般化される。アブラハムが犠牲をいとわないという物語は、文学者たちによって、イサクの殺害の物語として大事にされる。

 

 ある道徳的命令に従おうとすることで、別の命令を破らざるを得ない場合がある。そうした葛藤には本質的に不条理なものはなにもない。未決定のまま止まるのでなければ、解決には新たなる行為、「跳躍」が必要なのは確かである。この段階に至るには、一原理から諸原理の原理へと向かわねばならないかもしれない(弁証法的秩序から究極的秩序へ)——そして、そうした「通約不可能性」が道徳から宗教への「跳躍」の場と呼ばれるかもしれない。

 

 キルケゴールの場合、性的に翻訳された位階原理をあらわしていた「王女」との個人的な関係が、究極的な弁証法的操作(議会の紛糾に見いだされる限定的なものとは異なる)を要求した。そして、想像力が赴く限り、その弁証法を殺害の神話的形象をあらわす挿話に印象的に還元したので、そのイメージが彼の弁証法の精神をあらわすようになったと言える。それゆえ、人間には闘争がつきものだと知っている読者は、殺害を尊ぶことが低次の道徳ではなく、高次の、宗教的でさえあるものと考えるよう促される。皮肉なことに、このイメージが弁証法そのものよりも強調されると、この教義はホロコーストに<向かい>こそすれ<離れ>はしない。個人的な葛藤が殺害によって解決されるなら、究極的には、戦場のなかで、虐殺のなかで平安を見いだす人間になる以外どうなり得よう。

 

 もう一つの重要な点で、キルケゴール的なまとめ方は割り引いて考える必要がある。弁証法を不条理によってまとめている点である。

 

 確かに、弁証法的操作には、劇的には「不条理」と呼ばれるような矛盾に我々を巻き込むところがある。だが、方法論をもって取り組めば、操作そのものは全く「合理的」だと言えよう。不条理というスローガンは容易に真実を半面の真実に変えてしまえる。それは、人間は生まれたときから死に始めていると冗談を言う者に幾分似ている。彼が言うように、あらゆる変化にはある種の死がある。しかし、またあらゆる変化にはある種の再生がある——こうした一面的な言葉はどう割り引くか知っている限りにおいて安全に使える。要するに、「弁証法」を始めると、不条理に行き当たることがあり得る。しかし、不条理から始めると、間近に否応なく弁証法とすれ違うことが続いても、その明確な姿を捉えられないことになりがちである。キルケゴール風の呪いのもと弁証法に近づいても常に道を踏み誤る危険がある。全く「合理的な」側面を新たに見つけるたびに(言葉の構成や分類の過程)、新たな不条理の領域にたどり着いたかのように考えるよう促されるのである。

 

 例えば、フランスの実存主義運動のことを考えてみよう。修辞学的に言うと、それは、ナチスの占領期間にうまく対応することができた。拘束下にあったフランスの知識人は、キルケゴール実存主義的な再活用によってある種の「純粋な」自由を手に入れることが許された。実存主義は、抵抗か協力かを不確定にしたまま留まる文学運動として検閲に直面することができた。フランス人は政治的には服従しているが、「実質的には」自由でいられるという弁証法的操作が与えられた。自己に向かう攻撃である「自殺」の自由が認められ、その純粋に個人的で深遠なる権威が神の如く賛美される。政治的な窮地が「宇宙論的な」言葉に翻訳されることで、運動は社会性をもった。

 

 しかし、ナチスの崩壊後、占領という特殊な社会状況は既になくなっている。実存主義の支持者たちは運動の幅を広げ、弁証法研究を一般化し、「普遍的な」劇に適用した。自殺は弁証法の特殊な事例として扱わねばならないのに(この書の冒頭で述べたように)、キルケゴール的なひねりに対応するように、弁証法が自殺に還元されるのである。

 

 究極的な犠牲は死ぬことを含む。死ぬことには、他人による、あるいは自らの手による殺害が含まれる。犠牲の要素が殺人の要素(あるいは最近の実存主義的変種では自殺)の背後に隠れるまで重点が移される。ここまでくると、事態は全く逆転する。平和のまさしく本質であった犠牲が、戦争の本質になり、犠牲のことを考える限り、大虐殺を思うときのように、決して平安は得られないのだと頭から信じ込もうとする。確かにここには不条理がある。そして、「弁証法的に」合理的段階を踏んで考えることが未熟さを軽減することになるのに、不条理賛美は結局は未熟さを是認している。

 

 多神論を信じている人間にとって、父である神が息子であるキリストを生け贄として差し出すことにはなんの問題もない。「一人の神」が他の神と(あるいはマニ教のように、同じくらい力のある悪の原理と)宇宙の支配を巡って戦っているなら、神が人類の罪を贖うため自分の息子を悪の王子に生け贄として差し出すのはごく「合理的な」ことである。しかしながら、究極的な語についての語にすべてをまとめあげるものと理解される弁証法的手順によって多神論が一神論に変化すると、犠牲を考えようとするときに新たな問題が生じる。一神論で考え始めると、論理的な「神秘」に行き当たることとなろう。というのも、狩りの文学的賛美や多様なファシズムのあらわれに見えるキリスト教的犠牲の逸脱は、すべての問題を軍事的言葉に単純化し、芸術愛好者のための「純粋な」殺害がある種の精神的な礼拝の対象にまでなるにしても、一神論では、多神論の場合よりも、犠牲の宇宙論的な言い換えを合理化することが困難だからである。

 

 弁証法的には、様々な解決を紡ぎ出すことができるし、それぞれの解決には付随する多様な妨げがある。本質的な「非合理性」などここには存在しない。理性(ロゴス)は少なくも言葉ではあり——弁証法は言葉を探る研究だからである。言葉の源泉を形式的に考えるとき、いかに言語的解決が生じ、いかにそれが言語的難点を生じさせるかが見て取れるのである。



 弁証法的に生じうる不条理の逆説のもう一つの点は、文法的な要素を含み、聖なるものと猥褻なものとが、どちらも「さわることを禁じられている」ために交換可能とされる。しきたりからくるヒンドゥー教の最下層の不浄さは、最上級の「絶対的な尊厳」と対応している。また、軽率な見方をして、ラテン語では犯罪者に「聖なる」を意味する語が当てられるのを見て、その「曖昧な」意味に「非合理性」の証拠を見て取ることも我々にはありがちである(祭壇の聖域が法律の及ばない場だということと関係している)。Kが学校の教師に城のことを尋ねたとき、教師は困惑して、子供たちがいることに注意を促し、フランス語で語った(社会的に禁じられたことを語れる「社会的身分」の言語として)。この出来事は、その性質において、役人のソルティニがアマリアに淫らな提案をした手紙を予示している。こうした「非合理的な曖昧さ」は本質的な不条理から生じたのだと考える必要はない。種と類とのごく普通の関係を劇的に表現したものとして文法的に説明できる。神聖なものと猥褻なものが、どちらも、他の事物や人物とは<区別される>ものなら、その<例外的な>性質は<類として>共通であり、それぞれがこの共通の要素を<種の>特異性であらわしているからである。

 

 禁じられたもの(聖なるものであろうと猥褻なものだろうと)は、経験の前言語的段階では姿が見えず、言語の第一段階において確立される幼児期の不思議な経験、排泄物のタブーと同一視できる。かくして、皮肉なことに、どちらもタブーの原理をあらわす高位と低位の修辞的な同一視において、「最上級の威厳の座」は密かに人間の臀部の意味をもつこともあり得る。ある友人が言った。

 

 「若いとき、王の『王たる高貴さ』はお尻にあり、臣下はそこに服従の意を示すのだと思っていた。位階の原理がなんなのか言うことはできないが、その根本はこの誤りにあらわれている」と。

 

 『ガリヴァー旅行記』の多くの挿話は、スイフトの病的なまでの遊戯性によって、王族にまつわる「聖なる」タブーと排泄物に関する「猥褻な」タブーとの象徴的なつながりを例証している。その同一視が最も顕著に、しかも風刺的な拒否によって遠回しにあらわされている部分は「ブロブディンナグ渡航記」の第六章冒頭近くにある。ガリヴァーはこう語る。

 

我輩は王妃付き侍女に頼んで、王妃の梳毛をとっておいてもらうようにいっておいた。やがてだいぶ貯ったところで、我輩は例の友人の指物師、これがたいてい我輩の小さな仕事をするように命令を受けていたのだが、この男に相談して、ちょうどいま我輩の宿で使用しているのと同じ大きさの椅子枠二脚分を作らせ、凭りかかりおよび座席になるべき部分には、ごく細い錐でぐるっと小さな孔を開けてもらった。でこの孔にできるだけ丈夫な髪の毛をかがっていった。つまりあの英国などの籐椅子のこつだ。でき上ると、我輩はこれを王妃殿下に献上したが、王妃はまたちゃんと居室に飾っておいて、しばしば珍品として人に見せておられた。事実観るほどの人はみんなその精巧さに驚いていたようだった。王妃は我輩にこの椅子に坐れとおっしゃるのだが、これだけは我輩断然お断りしていった、いやしくも一度は陛下のお頭を飾ったこの貴いお髪の上に、物もあろうに我輩の身体でも最も失礼な部分を載せるなどとは、たとえ万死に当たりましょうともできませんと。(中野好夫訳)

 

 

 スイフトの用語法を内的に分析することで始めて分かることだが、この直後にも、もう一つの同一視がある。そこでガリヴァーは自分の「機械の才」について語っている。スイフトの風刺において「機械」という語は、読者にグロテスクに歪んだ精神分析であるスイフトのエッセイ「精神の機械的働き」を思い起こさせるだろうが、そこで彼は観念的熱狂を身体の隠れた部分と関係をもつものとして攻撃している。

 

 『ドイツ・イデオロギー』で、マルクスは、結局は「単一の聖なる頂点」にたどり着く観念論体系を論じ、同じような同一視を行っている。

 

 この「頭中心の体系」は多くの類似点をもつエジプトのピラミッド同様に古く、その首都が最近復活し、永遠の若さを保つプルシアの君主制のように新しい。理想主義的なダライ・ラマたちは、現実においては正反対な者たちと多くの共通点をもっている。彼らは、自分たちが生存するこの世界は自らの聖なる排泄物がなければ存続することができないと確信しているようである。この理想主義的な愚かさが実行に移されるやいなや、悪影響が明らかになる。そのインチキ、信心家ぶった偽善、阿諛追従の欺瞞。奇跡は、観念の王国から実践にかけられたロバだけが躓く橋である。

 

 

 

最後の文章は、同じ意味合いをもつもう一つの道筋を示している。つまり、観念論の教義では、精神の物質的あらわれは内的なものの外化に等しい。

 

 要約すると、「上へ」でも「下へ」でもどちらも「高さの原理」をあらわしているように、優雅な言葉でも、卑猥な言葉でも位階原理をあらわし得る。(この点は『チャタレイ夫人の恋人』と関連する。)こうして、両極が巡り会う。ある人間を非常に道徳的と言うか、非常に不道徳だと言うかは、どちらの場合も、少なくとも「この人間は道徳的見地からいって例外的だ」と言っている点では「同じ」であり——単に「非合理」に思われる「曖昧さ」の背後にも純粋に「文法的な」要素が存在するのである。

 

 退廃したブルジョア社会では、位階原理の倒錯したグロテスクな表現は(「テルシーテース主義」の変種とでも言おうか)、数年のうちに礼儀作法の行き渡る宮廷よりもより適しているだろう。カフカの場合、個人的に非常に低次元な反ユダヤ主義の「超越」に関わっていたので、「崇敬」にはバーレスクの要素がつけ加えられている。啓蒙的な知識人として、二重にそれを軽蔑できたのだが、実際にはその「魔力」は保持されていた。利害に関わり、現実に昇進の条件だったこともある。

 

 また、ブルジョア社会のいい加減な身分が不敬を誘うこともある。「魔術」的な見地からすると、「商人」は不条理であり、というのも高価な品々を「畏怖の対象」ではなく、「常に正しい」買い手を「喜ばす目的」で、<追従>として展示しているからである(最上級の流行店では、商人と得意客とが共謀して「質の悪い」客を排除することで幻影を復元しようとしているが)。同じ問題は、ばかげた製品を売って富を築いた事業家にもより拡大された形でつきまとう。古代の詩的な船荷と現代の没趣味な船荷との不釣り合いを対照的に示したメースフィールドのソネットの魅力は、ブルジョアジーに対する「貴族的な」判断から来ている。それゆえ、彼は爵位を持つにふさわしいのである。

 

 ある友人がこう言った。「恋のためにぼんやりとふさぎ込んでいた高校生の時期、毎日幾度となく常ならぬ迷いや窮屈さを感じることがあった。というのも、遠くから畏れをもって崇めていた好きな女の子の父親は、水洗便所をつくっていた。健全な市民である彼は、琺瑯の便器に自分の名をつけるほど商品に誇りをもっていた。うちのトイレにもその見事な製品があったので、私は愛するものの名を冒涜せざるを得ないわけだった。便器が王様とか、雅とか小さな宝石とかもっと非個人的な商品名だったらと、どれだけ願ったかしれない。」

 

 不条理<経由で>位階を表現するに至るもう一つの誘因として、「人種的な優越性」が絡んでいる限り、金銭による「質」の検証は魔力を損なうという事実がある。「劣った」人種が「優れた」人種の多くよりも財政的には豊かだということもあり得る。資本主義のように、金銭的な規範が動機づけの基本となる社会では、「優れた」人種のすべてが豊かで、「劣った」人種のすべてが貧しければ、「人種差別の」魔力は手つかずのまま残される。同じように、黒人が白人と同じ収益能力を示せば、南部における「白人優位」の魔術は損なわれる。恐らくそれが、賃金と労働のダブル・スタンダードを支えている「修辞的な」動機である。(リチャード・ライトの自伝、『ブラック・ボーイ』を読むと、こうした「秩序」がどれほど悪意をもって徹底的に行われるか見て取れる。)一地域としては国の歳入の僅かを占めるに過ぎず、「北部の搾取」を訴えさえしているものの、南部は魔術的な理由のために賃金を抑えているのである。黒人の賃金を低く抑えていれば、「北部から来た外部の組合組織者」が圧力を加えない限り、賃金基準を一般的に低く抑えることができる。不合理や不条理への意図的な称讃は、こうした状態の認識を曖昧にし、その言及にさえある種の悪趣味や文学的な粗雑さが示されている。しかし、同じ不条理から発する「弁証法的な」方法は「合理的」であり得るのである。

 

 また、資本主義経済で定期的に起こるように、経済に「危機」(「判断」)がつきものである限り、合理的な啓蒙主義は、それを「神の行為」ではなく人間の過失とし、支配階級を疑うので、秩序に対する「崇拝」よりは「冒涜」への誘因のほうが多く存在する。そして、「冒涜」はすぐに「非合理的」な過剰を招き寄せる。

 

 また、威厳が金銭的な優位によって証明されるなら、ごく典型的な会社では、より高い地位にあるものが一般の労働者よりも「恐ろしいほどの」収入を得る「魔術的」必要があろう。「権威」が他の手段によって守られるかどうかは疑わしい。「幸福の追求」は、成功と失敗につきものの際限のない要求に応える「より多くの魔術」を追求することに変わり、競争にさほど関わってはいない下役でも、あおられ刺激されるのである。動機は「貪欲さ」ではない。そう願いたいくらいで、というのも、貪欲は満腹し、いやされ、飽き飽きすることがあり得るからである。しかし、社会的領域で「より多くの崇拝」を求めること、神聖探求の無意識の戯画、ごく「普通」になったこうした幻影には終わりがあり得ない。神を敬うことで神を探す努力はもう十分になされたかもしれない。だが、人間が、「不条理」礼賛において共感し、教義とする社会的幻影や「崇敬」によって「神を探求」する努力には際限がないに違いない。

ブラッドリー『仮象と実在』 175

[この測りをもって比較的に真である方向に進む。]

 

 間違った現象が真理に移入しうるという原則については、すでに誤りについての章で議論を進めた。その方法は、すでに見たように、補足と再配列からなる。しかし、ここで以前の議論を繰り返すつもりはない。全体的な誤りとは、ある内容を実在に帰するが、再配分と融合を試みても同化されないことを意味するだろう。そうした極端な事例は可能ではないように思える。ある誤りが全体的でありうるとすれば、それが真理に転じたとき、その特殊な性質が消え去り、その事実上の姿が破壊されることでしかないだろう。しかしそれは、より低い真理においても生じることを認めねばならない。端的に言って、形而上学においては、真理と虚偽との厳密で完全な区別などありえないのである。どんな主張においても、問題となるのは、それを究極的な真理に移入するとしたら、主張のうちのどれだけが残るかということにある。こうした形容をされる特殊な性質を形づくるすべてのなかで、もし生き残るとしたら、どれだけのものが生き残るのか。そして、すでに見たように、それぞれの事例において残る量は、実在と真理の程度を決める。

一言一話 79

 

大酒の会

 

江戸初期慶安の頃江戸に大酒戦が行はれた。一方の大将は地黄坊樽次とて大塚(後の鶏声が窪であると云ふ)に住み、一方の大将は大蛇丸底深とて川崎の大師河原に住んでゐた。慶安元年秋の頃樽次は門下の酒徒を引連れて大師河原に乗込み、底深の一門と飲競べして底深を屈服せしめた。此の顛末を戦記物語風に戯作したのが「水鳥記」(三水に酉の意)三巻で、樽次の自作だと云われてゐる。京伝の「近世奇跡考」巻五などによると、樽次は本名を伊原城(一に茨城に作る)春朔とて酒井候に仕へた儒医で、寛文十一年四月七日に卒し、駒込千駄木妙林寺に葬られ、法名を信善院日宗と号した。然るに没後其の門下の酒徒であつた小石川戸崎町祥雲寺の住持が寺内に彼の為に碑を立て、法名を酒徳院酔翁樽枕居士と題して其の辞世二首を刻した。其の一に曰ふ、

   南無三宝あまたの樽を飲みほして、身は空き樽に帰る古里

と。

酒を飲まなくなって久しいので、さしずめ私なら、

    南無三方あまたの樽を飲み残し身はたぷたぷで帰る場所なし

ケネス・バーク『動機の修辞学』 53

.. 弁証法的叙情詩」(キルケゴールの『恐れとおののき』)

 

 一昔前のデパートには、支払所と個々の売り場とのあいだを走る小さな運搬台があった。(いまでも時折見かけるが、ほとんど空圧式の送菅に取って代わられている。)それらは急発進し、それぞれの角で素早く曲がり(キルケゴールの跳躍のように)——天井を越えてジグザグに進み、どこかこちらからは見られない部屋に突然消えると、そこで受け取られ、調べられ、適当な手続きを経たあと、もとの場所に送り返される。直進しては突然に曲がるその様子は魅力的なものだった——信心深い子供は、それを見て、天に知らせをもたらし、すぐさま答えを得て戻ってくる使者のようにも感じたのだった。カプセルが送風菅で送られるのを見たり、それが再び戻って落ちるのを聞くといまでも同じような考えがよぎることがある——もっとも、地獄の会計課とやりとりのように思われるのだが。

 

 とにかく、有限が無限の流出に変容するキルケゴール的な弁証法を考えるとき、中心と辺境との交通を担う小さな使者のことが思い起こされる。弁証法はあるものを取り上げ、なにかを抽出し、別のものにして送り返すことだからである。しかしながら、変化は単に元々の総計からなにかを引いたり、抽象するものではない。ある注目に値する要素がつけ加えられもするのである。この種の変化が再生であり、変容である。

 

 それでは、キルケゴールの「弁証法的叙情詩」、『おそれとおののき』の「運動」で送り出され、戻ってくるのはなんであろうか。まず始めに、単純な行動主義的観点からすると、キルケゴールがある少女の気持ちをもてあそんだことを我々は知っている。結婚をあきらめたと彼が告げたとき、彼女は懇願した。そして(英訳に付したウォルター・ローリーの序文から引用すると)、「レギーネを自分に対する愛着から自由にし、『引き離す』ために、S.Kは冷酷になり、自分を彼女の愛情をもてあそんだ悪党だと信じさせるしかないと感じた」。傍で見ている者も同じような印象を受ける。キルケゴールは自ら疑惑に苦しめられ、残りの非常に多産な生涯を、プロテスタントのうちでも最も独創的な弁証法によって、自分の無実を主張することに費やしたのだった。

 

 『おそれとおののき』を読むと、彼が送り出し変化させるべきものとは女たらしで、「悪党」としての自画像である。それは抽象化され、「無限の断念を行う騎士」に変化して戻ってくる。あるいはそれは、意味が加工される<中間地点>に過ぎないのだろうか。いずれにしろ、さらなるやりとりの結果、女たらしは完全に作り替えられ、その場所には、永遠の反復のうちで女性を崇拝する信仰の騎士がいる。それは無限の流出であるが、あらゆる事物に本質を注ぎこみ、単一の光のもと照らし、世界の偶然的なばらばらの事実を、皮肉にも不条理と呼ばれている超越的な単一の原理のもと従えようとする神の化身、聖霊としてもたらされる。この変容は、「通約できないもの」を越える「跳躍」とも言える。

 

 その背後には、ネオ・プラトン主義者の標準的パターンがある。つまり、我々は日常的な偶然性の世界から始めることができる(そこには少々疑わしくはあるが、女たらしも含まれる)。そこから始めて、無限の一者に達するまで登りつめていく。かく純粋化されたあとは、ビジネスとゴシップの世界へ戻るべく降り始めるのである。そのようにして帰ってきたものを見ると、純化された形式には、動機づけの全く異なった用語法が必要とされることがわかる。初期の条件と較べると、極めて重要な「跳躍」がある。「通約不可能な」なにかが介在している。この新たな段階では、根源的かつ精神的である新たな弁証法的操作が呼び起こされ、自らに適用されるだけでなく、自然、人間、神を含めたあらゆる事物にまで拡張されることになる。少なくとも、この用語法は、キルケゴールレギーネの関係を正当化するには十分超越的なものである。しかし、こうした目的に適う超越を作り上げる過程で、キルケゴールはあらゆる有限存在に適用できるような原理に行き当たった。ごく自然な弁証法の道筋によって得られる「無限」の原理である。「有限」内での一般化しか得られないときに、唯一正当な弁証法的対、或いは対抗する語となるのは「無限」である。

 

 それだけで包括的な弁証法には十分である。抽象的な過程を具体化する寓話やイメージもある。第一に、鍵となるアナロジーとして、キルケゴールレギーネをもてあそんだことと、アブラハムがイサクを殺そうとしたことの対応がある。

 

 しかし、聖書で語られるこの物語は、この目的には全く役に立たない。キルケゴールが「悪党のように」振る舞ったという非常に重要な点で対応するものがないからである。聖書は、アブラハムがイサクのためを思ってイサクに嘘をついたとは言っていない。しかしながら、高度に心理学主義的な世紀の人間であるキルケゴールは、アブラハムのための「心理学」を即興的に作り上げる。そして、<聖書の物語ではなく、この即興的な心理学が>彼の振る舞いを正当化する上での最も重要な問題を解決する助けとなるのである。それに平行して、レギーネの愛情をもてあそんだ悪党としてのキルケゴール像に対応するものが聖書の聖なる物語に設定される。

 

 恐らく、ここでは、聖書の物語の「敷衍」と「心理学化」とを区別するべきだろう。物語が例証している本質を読者により差し迫って感じさせようとするとき、物語を敷衍することもあり得よう。鈍い想像力を揺り動かすために、だれも誤解できないほどの長さにわたってアブラハムの息子への愛を詳細に解くこともあり得る。既にそこにある本質が修辞的に敷衍されているわけであって、新たな本質がつけ加えられているのではない。しかしながら、叙述の「心理学化」で、キルケゴールは新たな本質をつけ加える——まさしくそれが、「悪党」として明らかな振る舞いを超越するための動機として彼が必要としたものである。

 

 もちろん、我々はジイド風の巧妙な奇想のことを言っているのであり、それは聖書の物語には見いだされないものである。

 

 アブラハムはモリアの山を登った、イサクには父のこころがわからなかった。そのとき一瞬、アブラハムはイサクから面をそむけた。しかしイサクがふたたびアブラハムを見たときには、父の顔はすっかり変っていた。そのまなざしはけわしく、その面差はものすごかった。彼はイサクの胸をとらえ、彼を地上に投げつけていった。「ばか者め、わしがおまえの父であるとでも思っているのか?わしは偶像崇拝者なのだ。これが神の命令だとでも思っているのか?そうじゃない、わしの慰みなのだ。」するとイサクはふるえながら、不安のうちにさけんだ。「天にいます神さま、わたしをあわれんでください。アブラハムの神さま、わたしをあわれんでください。地上にはわたくしは父をもちません、ですから、あなたがわたくしの父になってください!」しかし、アブラハムは静かにひとりでつぶやいた。「天にいます主よ!わたくしはあなたに感謝いたします。イサクがあなたへの信仰を失うようなことになるよりは、わたくしを人でなしだと思ってくれるほうがましでございます。」(桝田啓三郎訳)

 

 

 聖書の物語へのこの付加が聖書解釈についてなにかを我々に教えてくれるとするなら、教訓は、結局、宗教は嘘を認めるということであるように思える。しかし、それはいいとしよう。キルケゴールが聖書に純粋に個人的な付加を行ったと認めるだけで十分である。彼は既にある本質を敷衍しただけではない、新たな本質をつけ加えたのである。この本質がつけ加えられなければ、聖書の物語は彼の求めるものには足りなかっただろう。

 

 キルケゴールは最終的にこう言う、「ここに私の神学的弁証法のもととなる聖書の挿話がある」と。しかし、実際に行ったことを見れば、こう言うべきだった、「私の神学的弁証法をできるだけ説得力のある方法で提示したいと思う。想像力をかき立てるために、個人的な挿話、私自身の創案した話から始めよう。権威づけのために、聖書によるものだとしておく。夕食後の会話で、語り手が自分が言いたいことの例となり、聞き手にも好意的に結論を受け入れてもらえるような機知に富んだ物語で始めるように、私も都合のいいように物語を変えることになるでしょう」と。

 

 しかしながら、疑問が多い面もあるが、また別の面では極端な誠実さがあらわれてもいる。キルケゴールは聖書の心理学化を一種の寓話で行っているからである。それは、物語を補強し、同じことを語ろうとしている。しかし、それは元々の物語以上に(アブラハムがイサクを生け贄にすること)彼自身に潜む動機に深く潜り込むことにならないだろうか。

 

 子供を乳離れさせようと思うとき、母親はその乳房を黒く染める。子供に飲ませてはならないのに乳房に魅力を残しておくのは、まことに残酷なことであろう。乳房を黒く染めれば、子供は乳房が変わったのだと思う、しかも母は同じ母であり、母のまなざしはいつものように愛情にみちてやさしい。子供を乳離れさせるためにこれ以上の恐ろしい手段を必要としないものは幸いなるかな!(同上)

 

 

 

 乳離れのテーマは幾度か繰り返されるが、胸を黒く塗ること(女たらしの「悪党的な」要素に対応するだろう)は抜け落ちる。母性的な愛と別離の悲しみというモチーフが言及されるだけである。別の言葉で言えば、まさしくそのために物語が導入されたと思われる当の要素が抜け落ちてしまうのである。だが、それなしでは、彼が申し開きをしている行為は説明されないままに止まる。

 

 胸を黒く塗ることが除外された部分は次のような具合である。「子供が大きくなって乳離れさせようとおもうとき、母は処女のようにその乳房をかくす。すると子供はもはや母をもたなくなる。・・・子を乳離れさせようと思うとき、母と子がおたがいにだんだんと離ればなれになっていくことを思い、母の心も悲しまずにはいない。はじめは母の心臓の下でいこい、しかしやがてのちには母の胸に抱かれて安らっていた子が、もはやそのようには母の近くにいなくなることを思って、母の心もいたむのである。・・・子を乳離れさせようと思うとき、子が飢え死にをしないように、母はいっそう滋養に富んだ食べ物を用意する。いっそう滋養にとんだ食べ物を用意する者は幸いなるかな!」巧妙な「跳躍」がここにもある。女たらしの疑問の残る説明で始まり、超越的な滋養物への言及で終わっているのだが、弁解がましい部分はなく、代わりに教化され教化することへの約束がある。

 

 この控えめな副次的な例によって我々は、キルケゴールレギーネとの関係についての動機に、より近づくことが可能になるのではないだろうか。アブラハムとイサクの物語(加えて、極めて重要な心理学的即興)は問題を形式的にあらわした。乳離れする子供の姿は、非公式な、内緒ごととして論じられている。内省の天才によって書かれた本は本質的に自伝であるから、この例はでたらめに選ばれたのではなく、モチーフをあらわす本質的で明晰な表現だと見なしうる。少なくとも、編者が『日記』から引用するもう一つの例があって、キルケゴールは「この謎を解き明かす者は私の生涯をも解き明かす」と言っている。そこで彼は二つのテーマを著作でよりも完全な形で絡み合わせ、こう結論する。

 

 子供が乳離れしなければならないとき、母親は乳房を黒く塗るが、その眼は愛情深く子供に注がれている。子供は、乳房は変わってしまったが、母親はもとのままだと信じる。なぜ母親は乳房を黒く塗るのだろうか。なぜなら、と彼女は言う、子供が乳離れしなければならないときに、乳房がおいしそうに見えるのは恥ずべきことだからである、と。——乳房は母親の一部に過ぎないのだから、この葛藤は容易に解決される。<自分自身>を黒く塗り、悪魔がどんな姿か見るために地獄に行く必要のない者、そうしたより恐ろしい葛藤を経験しない者は幸せであり、そうした葛藤を経た者だけがしかるべく身を染め、それによって神との関係で他人を救うことが可能になる。アブラハムの葛藤もそうしたものだったろう。

 

 

 自分自身にされたことを他人にもするという考えには何らおかしなところはない。キルケゴールが離乳期に多大な不安を経験<した>なら、立場を逆転し、離乳する立場に自らをなぞらえて考えるのになんの難点もなかろう。

 

 ただ想定しておくべきなのは、キルケゴールは書くことすべてが本質に関わりそれを表現している作家なので、彼自身言うように、この挿話をその思想の中心と見る必要があるということである。そこにあるものを見据え、他のイメージではなく離乳のイメージを選択したということ、離乳のイメージは他のイメージよりも彼の基本的なモチーフにより近いことを見る必要がある。また、離乳の経験そのものが目立った重要性をもっていたためにそうなったことも想定される。

 

 しかしながら、我々は離乳の経験からキルケゴールの考えのパターンを引き出そうとしているわけではない。心理学者なら、ここで多くの関連を指摘できるだろう。口は食物摂取と言葉を発することどちらにも使われるので、栄養摂取の障害は、キルケゴール的な跳躍によっておしゃべり熱に変わるとも考えられる。そうした逆転も想像に難くない。しかし、同じような正当性をもって、因果関係を逆に辿り、離乳時に大多数の者とは異なった段階にキルケゴールがいたとも考えられる。この子供は既に離乳の瞬間が来ることを予期していたかもしれない。生まれつきおしゃべりであるなら、離乳期において、多くの子供たちよりも「口唇意識」が高いかもしれない。そして、青年期になって、母性的女性とエロティックな女性との区別にこの乳離れの問題を結びつけることができたのかもしれない。(少なくとも、母親の胸を「処女のような」と言うことには、レギーネを「王女」と見る「騎士的な」見方と同じモチーフがある。愛情はあるが超然とした様子がどちらにも含まれている。)

 

 だが、我々に必要なのは、言語的モチーフがレギーネに対する振る舞いをどう説明するかだけにある。というのも、この「信仰の騎士」が無限において求愛するなら、永遠に、際限のない反復において求愛することになろう。そこにあるのは、ソクラテス的な性愛の、弁証法家のモチーフであろう(『文法』中、プラトンの『パイドロス』を扱った箇所で考えたような)。しかし、永久に求愛し続けるとしたら、求愛の相手は喜んでそれに応じるだけではなく、しつこいくらいに応じることとなり、良質の弁証家たるもの、「内的検証」によって、必要な距離を保つ感情的実際的な状況を作り上げることで自身の内部に抵抗をもうけねばならない。まず第一に、ある種のおびえから、必要とあらば「悪党」のように振る舞うこともあろう。誠実な個人主義者として、動機の純粋性を保つ必要があるからである。もし女性が彼を拒まないなら、煮え切らない態度さえ喜んで受け入れるなら、彼は冷淡にならねばならない。あくまでも女性が愛情をもって迫って、どうにもならない場合、彼は彼女を辱める。彼は「悪党」になる。

 

 しかしながら、彼が彼女から離れ、彼女が他人と結婚すると、両者共に非常に正しい場所を得、彼は再び自分に必要な目的の状況を手に入れる。永遠の名において、つまり、際限のない反復において求愛できるのである。ジレンマは解決された。堅固な道徳的、法的根拠によって二人の結びつきは不可能である。それゆえ、再び安全に彼は彼女の騎士になることができる。騎士的な振る舞いで自分の行った辱めの埋め合わせをするために、心理学的に聖書を修正できる。すべてがあるべき姿になった——彼女の結婚が「客観的相関物」となって、彼の主観的な「内的検証」と合致し(シェリング的な「主観と客観の同一化」が行われた偉大なる世紀だった)、彼は無限、通約不可能、不条理のもと、不可能を成し遂げる信仰によって彼女に求愛することができる。キルケゴールは信仰の正当なる根拠を不可能性にもっていた——というのも、結婚の実現不可能こそが「王女」に求愛する「信仰の騎士」たることを許すからである。「沈黙のヨハンネス」が遠くから「王女」を愛する騎士的な「恋慕者」として次のように言えるのも不思議はない、即ち「至福に満ちた愛の歓喜が全神経を巡るにもかかわらず、魂は毒の酒杯を飲み干し、それが血液のすべてに染み渡っていくのを感じる男のように厳粛である——この瞬間こそ生と死が一つになっているからである」と。

 

 いま我々が論じたいのはキルケゴールが聖書を心理学的に敷衍することで招いた、間違った力点の帰結である。弁証法に関する限り、そこに真のキルケゴール的跳躍があると思われる。というのも、そこにつけ加えた言葉以上のものを引き出すことができないのは弁証法的な事実だからである。それをもとにして、神学者たちは聖書の「啓示」を信仰の根拠と主張する。技術的に言うと、聖書を「啓示」として議論の根拠にすることで、神学の弁証家たちは「普遍的な」権威に立脚することができるが、私的、個人的関わりはそうした意味を明らかにすることとは相容れない。その権威が実在するかどうかをここで決める必要はない。既に言ったように、キルケゴールは聖書に含まれているものを単に引き出そうとしているわけではないからである。むしろ、聖書に<戦略的につけ加える>ことから始めている。テキストの単なる敷衍からテキストの心理学化に転じたとき、跳躍を動機づけるような物語が必要であるから、<彼自身が物語に跳躍を加えたのである>。それによって、巧妙なジイド的転倒に非常によく似た生成原理を手にしたのである(後にニーチェが、完全に世俗的な逆説で歯切れよく述べた価値の転倒を神学的な用語でいち早く行ったものと言える)。

 

 あるいは、次のようにも言える。神への信仰においては、拒否したいことを不条理にも受け入れるのが真実なら、なぜアブラハムは、実存主義的不条理によって神は宗教と道徳との明らかな裂け目を処理しようとしたのだと確信をもつことがなかったのだろうか。あるいは、実際にそうなったように、父親は試練にあうと同時に息子を守ることも可能なのだと、なぜ神の全能への信仰を持つことができなかったのだろうか。キルケゴールが修正した挿話がレギーネとの関係におけるキルケゴールの振る舞いを正当化するなら、なぜイサクに対するアブラハムの行為に同じような確信が認められないのだろうか。あるいは、そこには、古い律法から新しい律法へ、更には不条理な律法へのもう一つの跳躍があるのだろうか(十九世紀の個人主義的な心理学主義が繁栄するまで明らかにならなかった)。

 

 両方の路をとることはできない。不条理への信仰によって、キルケゴールが有限性において(無限と混じり合ってはいるが)レギーネを再び得るとを知っているのが正しいなら、同じように、生け贄にしようと真剣に息子を殺す準備をしていたまさにそのときに、アブラハムは息子を再び得るだろうと知っていたことになる。この場合、アブラハムの確信は道徳と宗教との明らかな齟齬を取り除くことになろう。一方、イサクの復帰がアブラハムにとって完全な驚きであるなら、イサクを進んで生け贄に捧げようとするアブラハムの行為は、キルケゴールが「信仰により、不条理の力で私は彼女を得るだろう」という高揚した逆説に従ってレギーネを進んでもてあそんだ場合ほど力強い信仰を示してはいないことになる。そして、これは実存主義的な不条理の埒外にある類の不条理に思える。

 

 こうした難点から脱出する唯一の道は、彼の弁証法をメタレトリックとして弁証法的に説明することにあろう(際限のない求愛によって、彼は永久に彼女を得ると同時に永久に手に入れず、放棄と前進が一つの姿勢に混在している)。技術的に言えば、これは有限のなかに無限を導き入れるものとして歓迎される——相反するものが調停され、「人間の理性よりも高次な」不条理がもたらされるからである。

 

 レギーネをもてあそんだこととその後生涯にわたって彼女に求愛し続けたことが「無限」の領域にある諸動機を含んでいると言うとき、キルケゴールが本質的に正しいことは我々も信じる。「純粋な誘惑」は絶対的であり、いかなる誘惑的な行為にも論理的に先行するからである。それは言語の本質である。包括的な称号の称号が「神−語」であるように、純粋な誘惑は求愛を祈りに、目的のない祈り、それ自身のための祈り、崇拝の、絶対的賛美としての祈りに変えるだろう。我々が試みたように、そうした諸動機は完全に世俗的な弁証法によって考えることもできる。しかし、たとえそうだとしても、少なくともプラトン主義的な弁証法に関して言えば、抽象的で普遍化されているので、技法的に「神的な」側面をもっているであろう。

ブラッドリー『仮象と実在』 174

[基準とはなにか。本質的に関連する二つの特徴を持っている。]

 

 真理と実在の完全性というのは最終的には同じ性格を持っている。それは明確で自律的な個物である。第二十章で私は個物であることが何を意味するのか示そうとした。その議論の主要な点を読者が思い起こしてくれたものとして、私は個物があらわれる二つのあり方を指摘しよう。真理は内的な調和のしるし、あるいはまた、拡張とすべてを包括するしるしを示していなければならない。これら二つの性格は同じ原理の別の側面である。第一に、全体がその内部に衝突する部分をもつことになるから、矛盾するものは食い違いをもつことになる。すでに見たように、調和を見いだす方法は、そうした齟齬をより広い配列に再配分することにある。しかし、第二に、調和は制限や限定と両立不可能である。というのも、全体を包括しないものは、その本質において内的に一致しない部分がなければならないからである。反省してみれば、その理由は明白である。ある全体に存在するものは外的な関係をもっている。それ自身の性質の内部に包括し得ないものはなんであっても、全体によって関連づけられ、外的な関係をもっていなければならない。そうした付帯的な関係は、一方においてそれ自身の外部にあるが、他方においては、それはありえない。というのも、関係は双方が影響し、項とならなければならないからである。それゆえ、有限なものの内的な本質は、それを限定する関係であり、そうではない。それゆえ、その本性は救いようもなく相関的であり、つまりそれ自らを越え、再びその核に異質なつながりを持ち込むのである。かくして、外側から限定されることは、原則的に、内部を分裂させることである。そして、要素が小さくなればなるほど、本質の散乱は広範囲にわたるものとなり――本質の消散が深く完全なものとなり、内的分裂という呼称を支えることになる(1)。しかし、反対に、要素の拡張は、内的な実体に外的な関係を持ち込むものであるから、調和を増加させるだろう。成長によって、要素はより一層それ自らに本性を含む首尾一貫した個的なものとなる。そしてその形は、より一層食い違いを包括する全体となり、それらを体系的なものに還元する。かくして、実際的には(後に見ることになるが)ある程度別なものなのだが、拡張と調和という二つの側面は、原則として一つのものである。いまのところ、それらを別個に使うことで満足しなければならない。

 

*1

 

 それゆえ、多かれ少なかれ真であり、多かれ少なかれ実在であるものは、その間にあるより小さいものであれより大きいものであれによって、全体を包括するもの、あるいは自律的なものから隔てられている。二つの現象が与えられたとき、より広範囲の、より調和に満ちたものがより実在である。それは単一の、すべてを包括する個物により近しい。別の言葉で言えば、その不完全さを治すにはより小さな変更をしなければならないことになる。絶対に移入されたときにより少ない再配列と付加しか必要としない真理と事実は、より実在で真に近い。これが我々が実在と真理の程度というときに意味していることである。実在のより多くの性格を保持していることと、内部により大きな実在を含んでいることとは同じことの二様の表現である。

*1:(1)物質的粒子の散乱について語ることはパラドックスであるように思える。し かし、それではないものを持ち込むことなしに、それがなんであるかを述べるよう 努めてみよう。もちろん、その散乱は感じられることはない。しかし、問題は、自 己の異質化がいかなる感情あるいはいかなる自己にとってもあまりに極端なもので あるために存在できないことにある。

一言一話 78

 

二つのレアリスム

 今、読んだばかりの古いテクスト(スタンダールの伝える聖職者の生活の一挿話)に命名された食物が登場する。牛乳、タルティーヌ、シャンティイのクリーム・チーズ、バールのジャム、マルトのオレンジ、いちごの砂糖漬け。これもまた純粋な表象の快楽(この場合、食通の読者にだけ感じられる)だろうか。しかし、私は牛乳も、甘い食物もそれほど好きではない。私はこうした食事の細部にはほとんどついていけない。おそらく<<表象>>という語の別の意味に結びついているのだが、別の場合もある。議論の中で、ある人が相手にあることを<表象する>時、彼は現実の<最後の状態>、現実の中の手に負えないものを挙げるだけである。同様に、小説家は、おそらく、食物を引用し、命名し、告知する時(告知し得るものとして扱う時)、読者に、物質の最後の状態、物質の中にあって、乗り越えられないもの、遠ざけられないものを押しつけるのである(先程挙げた、<マルクス主義、観念論>、等々といった名前の場合はきっと違う)。<まさにそれだ!>この叫びは知性の閃きとして理解すべきでなく、命名行為の、想像力の限界そのものとして理解すべきである。要するに、二つのレアリスムが存在するのだろう。第一のレアリスムは<<現実のもの>>を解読する(証明されるが、見られない)。第二のレアリスムは<<現実>>を語る(見られるが、証明されない)。この二つのレアリスムを混ぜることのできる小説は、<<現実のもの>>の了解可能なものに、<<現実>>の幻影的な尻尾をつけ加えるのである。今日のレストランと同じように、一七九一年にも、<<ラム酒入りオレンジサラダ>>を食べていたのかという驚き。歴史的に了解可能なものの誘惑と、物(オレンジ、ラム酒)があくまで<そこにあろう>とするしたたかさ。

リアリズムはもっとも幻覚的なものとなり得る。