一言一話 158

カイエ・デュ・シネマ1955年のベスト2

 

1.ロベルト・ロッセリーニ『イタリア旅行』 1953年 伊

2.カール・ドライヤー『奇跡』 1955年 デンマーク

3.ロバート・アルドリッチ『悪徳』 1955年 米

4.マックス・オフュルス歴史は女で作られる』 1955年 仏

5.アルフレッド・ヒッチコック『裏窓』 1954年 米

6.アレクサンドル・アストリュック『不運なめぐりあい』 1955年 仏

7.フェデリコ・フェリーニ『道』 1954年 伊

8.ジョセフ・L・マンキウィッツ『裸足の伯爵夫人』 1954年 米

9.ニコラス・レイ『大砂塵』 1954年 米

10.ロバート・アルドリッチキッスで殺せ!』 1955年 米

11.フアン・アントニオ・バルデム『恐怖の逢びき』 1954年 スペイン

12.アルフレッド・ヒッチコック泥棒成金』 1954年 米

13.ジュールス・ダッシン『男の争い』 1955年 仏

14.ハーバート・J・バイバーマン『地の塩』 1953年 米=メキシコ

15.Benito, Alazraki, Racies 1955年 メキシコ

16.ロバート・アルドリッチ『アパッチ』 1954年 米

17.ジャン・ルノワールフレンチ・カンカン』 1955年 仏

18.リチャード・ブルックス『暴力教室』 1955年 米

19.フェデリコ・フェリーニ『白い酋長』 1952年 伊

20.ジョルジュ・ルーキエ, Loudes et ses miracles 1955年 仏

 

ヒッチコックアルドリッチ、フェリーには優遇されています。アルドリッチの『悪徳』はどんな映画か思い浮かばない、見たかもしれないし、見てないかもしれず、知っているかもしれないし、知らないかもしれない。

 

レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 13

 十九世紀後半から二十世紀中盤にかけての実証主義が優勢な時期においては、マルクス主義の支配的な部分は、こうした事実上の還元を行なった。全般的に無視されていた言語理論において直接的にではなく、意識についての考察や、「イデオロギー」や「上部構造」のカテゴリーのもとにまとめられた実践的な言語活動を分析する際に慣習的に行なわれたのである。その上、こうした傾向は、言語の物理的側面についての重要な科学的研究に誤って結びつけられることによって補強されていた。この結びつきは物質としての言語を強調することと完全に合っていたが、「世界」と「我々がそれについて語る言語」との、或いは別の言い方をすれば、「現実」と「意識」との事実上の分離を含んでおり、言語の物質性は物理的なものとしてのみとらえられ――物理的属性の集合として――物質的活動性としてはとらえられなかった。事実、科学においては抽象化された身体能力と人間によるその実際の使用とは分けられるのが普通である。そこから生じる状況は、フォイエルバッハの第一「テーゼ」についての言及で、別の文脈ではあるが、マルクスによって十分に記述されている。

 

現在にまで至るあらゆる唯物論フォイエルバッハを含む)の主要な欠点は、我々の諸感覚を通じて把握される対象、現実を観想の対象(anschauung)という形でのみ理解し、主観的ではない感覚的な人間の活動実践として理解しなかったことにある。それゆえ、唯物論に対立する観念論によって活動は抽象的に考察されてきた――もちろんそれは、現実の感覚的活動については知ることがなかったのである。(『ドイツ・イデオロギー』)

 

 実際、これが言語に関する思考の状況である。ヴィーコとヘルダーによって強調された活動性については、ウィルヘルム・フォン・フンボルトによって著しく発展させられた。言語の起源という受け継がれた問題も注目すべき形で言い換えられた。もちろん、言語はある意味において進化の歴史のなかで発達してきたものであるが、事実上我々はそれについてなんら情報を持っていない。むしろ、活動性の本質を構成するものについて調査を行なえば、いつでも言語はそこに、研究に必須の対象に含まれているのを見る。言語は永続的な創造と再創造、力動的な現前と常に変わらぬ再生過程にあるものとして見られるべきである。しかし、再び、この強調は異なった方向に向かうことがあり得る。これは全体を、分割することのできない実践を強調することと論理的に結びつき、「実際の生の生産と再生産」に必然的な形式として「力動的な現前」と「常に変わらぬ再生過程」が考えられることとなる。フンボルトと特にその後継者によってなされたのは、この活動性の観念を本質的に観念論的な仕方で、疑似社会的な形式に投影したことである。「民族精神」や(非歴史的な)「集団意識」の抽象化に基づいた「国家」、或いはヘーゲルのような、物質的社会的実践とは切り離され、それに先行する自己創造的で、抽象的な創造の能力である「集団精神」、或いは、より説得力があるが、「創造的な主体性」として、意味の出発点として抽象化され定義される「個人」である。

 

 こうした様々な投影の影響は深く長きにわたっている。「国家」という抽象観念は言語の「語族」や個別な言語の受け継がれた特質について研究する主要な語源学と容易に結びつきうる。「個人」という抽象的観念は、ロマン主義の「芸術」と「文学」の概念において生じ、「心理学」の発達において主要な部分を占める、主要な主体的現実の強調と、そこに意味と創造性の「源」を見ようとする試みに容易に結びつきうる。

 

 かくして、こうした思考法に決定的な寄与をなし、通常、「反映」の隠喩のもとに、実証主義や客観的唯物論において定式化される固有な受動性という考えを決定的に矯正した活動としての言語という考え方は、今度は、特殊な活動性(必然的に社会的物質的であり、十全な意味で歴史的である)から「国家」、「精神」、「創造的個人」として範疇化される活動性の観念に還元されることになった。こうした範疇の一つである「個人」(特殊で、唯一無比な人間存在はもちろん疑うことはできないが、そうした存在がもつ共通の属性を「個人」或いは「主体」として一般化することは、既にして直接的な社会的な意味をもった社会的範疇である)客観的唯物論の主流においても顕著であることは意味深い。「客観的現実」という範疇から活動性、作りあげることが排除され、その代わりに観想する「主体」だけが残されるが、この主体はある場合には、客観的現実の観察において無視され――活動的な「主体」が中性的な「観察者」に取って代わられる――、ある場合、言語について或いは他の実践について語る必要があるときには、「間主観的な」関係としてあらわれ――言語が制定し確立する諸関係のなかにともにあるというよりも、異なった区別される個々人として互いに情報や「メッセージ」をやりとりするのである。言語は、本質的に活動によって構成されるという定義はここで決定的に失われてしまう。なにかを伝えたいときに個人によって取り上げられる道具、器具、媒体であり、そもそもの始めから互いの関係とコミュニケーションを可能にしただけでなく、実践的な意識をもたらし、活動的実践としての言語を有する能力とは異なるものとされるのである。

ブラッドリー『論理学』 20

§9.しかし、判断は、前の章で見たように、観念に限られるものでもなく、決してその総合に存するわけでもない。二つの観念が必要だというのはまったくの錯覚であり、二つ揃うまで判断を待つようでは我々は判断などまったくできなくなるだろう。繋辞が必要だというのもまったくの迷信である。判断は繋辞がなくとも、一つの観念しかなくとも存在することができる。

 

 最も単純な判断では、ある観念が知覚に与えられたものを指し示すものとされ、その性質の一つと同一とされる。その観念が主語としてあらわれる必要はなく、主語であったとしても、我々は文法上のあらわれと事実とを区別しなければならない。実際の主語であり、観念内容の本当の実体は現前する実在である。後に見るように、「これ」、「ここ」、「いま」が主語となるときには、知覚にあらわれる現実の事実が真の主語であり、これらの語句は真の主語に我々の注意を向ける役目をする。しかし、このことについては後の章に譲ろう。既に我々が認め、これからも確かめていこうとしているのは、あらゆる判断は現前のうちにあらわれる実在の属性として観念内容を述語とする、ということである。

 

 この観点から我々は議論に戻らなければならない。この基礎に立ち、我々が見てきた様々な判断を新たに調べ、その意味とさらには正当性を尋ねてみなければならない。定言判断を探求する上でのいくつかの難点は、既に消え去った。しかし、恐らくは手強いものが待ちかまえているに違いない。そして、もし我々が、あらゆる真理は最終的には実在に関して真なるものである、という結論にたどり着いたなら、その教義を不完全な形で主張しているのだと思わなくてもいいに違いあるまい。



§10.しかしながら、まず、定義をしておかなければならない。我々が使ってきた語句は、故意に曖昧なものだった。我々は、究極的な主語である実在、知覚の対象を、移ろいゆくあらわれと同一のものと考えるべきだろうか。それはあり得ないこと、そうした見方では諸事実について考えることはできないことを我々は見ることになろう。ここでは、この間違いに反対するための予備的議論をしよう。

 

 時間の系列にあらわれる主語、我々が観念を述語として帰する所の主語は実在でなければならない。もし実在であるなら、それは形容詞的なものではないに違いない。反対に、自律的で個的なものでなければならない。しかし、個別の現象、つかのまのあらわれは個的なものではなく、それゆえ我々が判断で使用する主語ではない。

一言一話 157

The 1950s

ジャック・リヴェット「ある革命についてのノート」(カイエ・デュ・シネマ54 1955年クリスマス号)

 

 

1955年のアメリカ映画

 

グリフィスの我々の存在を揺るがすような強襲ののち、アメリカ映画の第一時代は俳優たちに属していた。次に続くのがプロデューサーの時代だった。ここについに作家の時代が到来した、と主張することは懐疑的な冷笑を招き寄せるであろうことは私も十分に承知している。なにか学者らしい理論を提唱するつもりはない————四人の名前をあげるだけで充分だ。作家の時代とは次の映画作者たちに属している、すなわち、ニコラス・レイリチャード・ブルックスアンソニー・マンロバート・アルドリッチの四人であり、批評家たちは彼らのことを単に聞いたことがないか、あったとしても、ほとんどなんら本格的な注意を与えていない。なぜ四人なのか。ほかにつけ加えたくもあるのだが(たとえば、エドガー・ウルマー、ジョセフ・ロージーリチャード・フライシャーサミュエル・フラー、そして、次に来るべき有望な者としてジョシュア・ローガン、ガード・オズワルド、ダニエル・タラダッシュをあげることもできる)、現時点において、この四人がトップクラスにあることは議論の余地がない。

 

 

 

リチャード・ブルックスはあまり印象がありませぬ。

レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 12

 本質を構成するものとしての言語の観念は、常に、こうした還元の危険にさらされている。しかしながらそれは、孤立した独創的な語が観念論に向かう方向においてのみではなく、客観的唯物論実証主義においても、「世界」や「現実」や「社会現実」が、あらかじめ存在する規制として範疇化され、言語がそれに対する単なる反応に過ぎないかのようにとらえられるときに実際に起こっていることなのである。

 

 この一節において、マルクスエンゲルスが実際に言っていることは、同時性と全体性とを指している。「根本的な歴史的関係」は「契機」或いは「側面」として見て取られ、人間はそのとき「意識もまた有する」のである。その上、言語は物質的なものである。「空気や音の撹拌」は物理的な身体によって生みだされる。切り離すことのできる行為として考えられた「物質的生」の時間的先行などは問題にならない。人間特有の基本的物質生産は必要、新たな必要、人間による再生産という三つの局面において特徴づけられる――「もちろん、それは異なった三つの段階としてとらえられるものではなく・・・歴史の始まり、最初の人間から同時に存在するものであり、今日においても変わらずにある」。発達において人間に特有なものは第四の「局面」において表現され、その生産は当初から社会的関係でもあったのである。それは、必然的な要素として、始めから言語である実践的意識を含んでいた。

 

 かくして、発達という分解することのできない全体性における、主要な「本質」が強調される。しかし、この方向においては、全体的過程の諸局面の分析とした始まったものが哲学的或いは「自然な」カテゴリーへと発展していき、――単純な唯物論者は観念論の「言語」と「現実」との分離を、時間的順序を入れ替えるだけでそのまま保持する――まず最初に物質的社会生産があり(またと言うよりむしろ)次に言語があるという歴史的なカテゴリーへと向かう様子は容易に見て取れる。