ケネス・バーク『歴史への姿勢』 61

... 語義学的な Lexicological

 

 ライップニッツは、哲学は現実には、定義の連続であると示唆した。法廷での慣習が思想家たちを刺激して、その大系を「議論」としてあらわさせるようにした。実際のところは、それは単に<相互に関係する用語の集合>である。本当の仕事は、そうした相互関係を明らかにして論じ、それを出来事の解釈に適用して関連性を検証することにある。こうした試みを観察する読者は、それが現実にうまく適用されているか自分自身で判断する。作者は、他人の記録(似たような働きをもつ用語によって組織化されている記録)を読むことによって主観性を避けようと努める。「転用可能性」を検証しようとする(他人の用語が自分の定式化のなかでも働くことができるかどうかはかる)。そして、自分の用語が出会う抵抗や受容を指針として、更なる共同性を得るのである。

 

 作家は法律家の摘要のような形で、用語を「搾取する」こともできる。弁護士がある「事件」を弁護するように、ある「原因」を支持するかもしれない。しかし、彼が「用語の定義」<そのもの>に関わっている限り、こうした手順は否定される(論理的説得力、つまり「強制されるもの」について「論争」するとして)。彼の主要な強調点は語義学的なものであり、定義の副産物として「結論に達する」に過ぎないのである(つまり、個別な論争についての「決定」はそれ自体、用語を定義するもう一つのやり方である)。

 

 用語は、「集団的な起源」以外にも、「転用可能性」の検証を受けるべきである。三つの異なった行動の「領域」に適用されるべきである。親密な関係性に適用されるべきである(個人の発達の異なった段階における発達の過程、個人的な交際)。公的な関係に適用されるべきである(過去と現在の歴史の過程に例証されるような)。芸術作品が組織化されるような集中の過程に適用されるべきである。

 

 例えば、「官僚化」を論じる際には、自身の生を官僚化するあり方、社会が官僚化されるあり方、芸術や創案の外在化と客観化が「官僚的な」体制となるあり方を見る必要がある。我々はこの転用可能性の三幅対を、あらゆる点において、正確な図式でもって描くほど完全な「効率化」には達しない。率直に言って、我々は本の最後に近づくまでは、自分のしていることを十分に自覚することはないだろう(詰まり、暗黙の内の方法をあからさまな方法論として言語化することはない)。過度に正確な図式化を最初から最後まで維持することは作者と読者の双方をうんざりさせることになるので、恐らくその方がいいのであろう。※

 

*1

 

 [ちなみに、この本を締めくくる辞書を書こうと決意したとき、我々はある「手がかり」に行き当たった。多くの場所で、引用符が好んで使われているのに不満を抱かれる読者もいることだろう。そのしるしは、言葉が隠喩的な意味合いで使われているという事実を示すものとして正当化される場合もある。しかし、他の多くの場合においては、通常の意味合いでその語を使っているように思われるのである。この反論は、過去においては、答えることができないものだったので、我々は多くの引用符を(常に不承不承ではあったが)取り除いたのである。

 

 しかし、この辞書を書き始めるやいなや、我々はこの引用符が何を意味しているのか理解した。その「魔術」(我々はこの語を恐らく読者が考えているのとはまったく反対の意味で使っている)を理解したのである。辞書が完成させるのに我々がすべきなのは、テキストを調べ、引用符を使って書いた語を定義することだけだとわかったからである。別の言葉で言えば、数年にわたってますます増加し、ページに散乱してきた引用符は、我々の辞書の「発端のあらわれ」だったのである。

 

 しかしながら、通常の意味合いで用いられたにしろ、「隠喩的拡張」によって新たな場に移されたにしろ、引用符のついた言葉をすべて定義する見通しを立てたとき、我々はすぐさま収穫逓減の法則に行き当たった。そこで、極めて重要だと考えられる用語を選んだのである。]

 

 ここで考えられている用語の定義が、「数学的論理」のシンボルによって意味との関連づけをしようとする試みにあらわれているような「永久運動の機械」という理想から人を自由にするというのが我々の信じるところ、或は少なくとも希望である。我々の用語は「中立的」ではないが、「道徳的」である。我々の「拡張」は、道徳的問題自体が、この複雑さの重なりあう「不完全な世界」で複雑になっているのに応じてなされているだけである。転用可能性の三幅対に他から借りたなかに含まれている集団的転用可能性の要素を足せば、最大限の適切さに達することができると我々は信じている。

 

 転用可能性を修正するもう一つの要素とは、「民衆批評」によって与えられるものである。「民衆批評」によって意味されているのは、科学的な用語によって想像可能な「抽象的速記法」と同じくらい「効率的な」近道であり、民衆が典型的で、繰り返し起こる状況、過程、戦略を名づけるために発達させ、或は借り受け、次々に使用してきたものである。そうした用語は、特に、政治、ビジネス、スポーツ、犯罪から発している。こうしたぶっきらぼうな批評の定式化は次のような命名、任意にあげれば、「蒸気ローラー[圧力をかける]」、「ギャングをつくる[ぐるになってやっつける]」、「営業衝動[たたき売り]」、「角をあらわす[おおぼらを吹いた後で失敗する]」にあらわれる。将来、こうした伝承により多くの注意を払うことになろう――教育と印刷が民衆の表現の<想像的な>側面に大きなダメージを与えたとすれば、「民衆の<批評>」には多大な豊かさを与えただろうからである。科学の、特に社会科学の凝りに凝った用語は、それをつくった者が気づいているかどうかはともかく、子供時代の伝承的な言葉づかいの「導き」に従ったものだとも思われる。

 

 確かに、口承の価値の変化のしやすさを考えると、「長期間にわたる投資」による検証は投げやりにし、「短期間にやりとり」される「売り買い」だけを探ろうとしてしまう。一週間のうちに「利益を生むものだけ荷下ろし」できると感じ、また「市場に好都合な」ニュースが「起きた」ときにだけ、信用できないとわかっている在庫に「投資」することができる。それゆえ、しっかり調べることなしにそれをとることはできない。「夜のうちになくなってしまう」ようなものについては、道徳の相場は高くつく。それゆえ、単なる見た目の美しさやくつろいだ気分を与えてくれるものを選んではならない。そうした性質は熱と同じように束の間のものである。我々はその<正確さ>によって選択しなければならない。もちろん、意味を与える物質的諸関係の全構造は「いつしか変わってしまう」こともあろう。そうなると、その価値は消滅する。物質的構造が変化する限り、その象徴の意味も変化する。しかし、新たな構造が古い構造と類似した側面を保持する以上、古い象徴の意味は無傷なままに残るのである。

 

 また、「純粋な」永続性と「純粋な」変化の間には、<急速に後退していく>ときに感じるようなノスタルジックな姿勢が認められないだろうか。エマニュエル・カントの文体を楽しむように、新聞の経済面の言葉づかいを楽しむことができるのではないだろうか。人間の行動の根源を名づけるのに彼らの選ぶ言葉には大きな類似性がありはしないだろうか。彼らの語彙は不自然博物館に展示される「詩の化石であり恐竜」ではないだろうか。そして、カントの「裁判官のような」言葉は、両者のあいだではより柔軟ではないだろうか。

 

 一般的には、我々の「三幅対の」語彙へ向けての計画は次のような形を取る。動機に関する宗教的な語彙を実際的美的過程の命名まで拡張する――動機に関する資本主義的語彙を宗教的美的過程の命名にまで拡張する――そして、動機に関する美的な語彙を宗教的実践的な過程の命名にまで拡張するのである。

 

 別の言葉で言えばこうである。宗教的なものは最もよく内密な事柄を示す(「家族の」メタファー)。資本主義は最もよく歴史的なものを示す(過去と現代の歴史における「抽象的」「非個人的な」要因)。美的なものは最もよく個人的な創造性のたかまりを含む社会的要素を示す。これら三つの語彙の絡み合いは、あらゆる行為の「統合的な」本性を強調する。語義学的な方法にとって「統合」は「よい」言葉であるが、「悪い」言葉を好む読者は「折衷的」と呼ぶこともできよう。

*1:※特に、芸術と社会との関係を論じる際、我々は「内蔵的」或は「模倣の」レベル(俳優としての身体)、「親密性」のレベル(個人的な関係性)、「抽象的な」レベル(我々の姿勢の「容器」となる概念的な材料で、それゆえ模倣的個人的組織化を含む)について語ることができただろう。

ケネス・バーク『歴史への姿勢』 60

... 合法性 Legality

 

 理論的に言えば、我々は習慣から始める。習慣の有効な規範化として法律を得る。法の抽象的な源は言葉のなかに含まれている。抽象は死んだメタファーだからである。死んだメタファーを混ぜ合わせることで抽象の上に抽象を重ねる。思想家は既に確立された用語法とのアナロジーに従って、慎重に新たな抽象を発明することで言語を導きさえする。ここに、「利用する」ことのできる源泉がある。習慣の権威が衰えに脅かされているときに(新たな習慣の侵略によって)、人はそれを利用する。法は「世俗的祈り」の一形式となる。(法は、通常、魔術的承認に近い神学的な法に始まる。しかしながら、ベンサムが明らかにしたように、「宮廷」が「教会」と同じような心理学的承認を与えるとき、裁判官<個人>が彼らだけの<共同的>アイデンティティだけで行為していると感じるようになる。

 

 法律的な決定による祈りの試みは、法律家の誠実さを命じ、法的な勧告によって望まれたものと得られるものとの「たるみを取る」よう奨励する者のように、職業と所有権との区別(階級闘争)によって特に活気づけられる。それゆえ、原理と現実との裂け目に橋を架ける法的虚構や司法による「解釈」が導入されることによって、決疑論的拡張への誘因が見られる。(法律制定による「世俗的祈り」の諸形式は、共有する本質の官僚化を背景にしている限り、充分<現実的>である。)

 

 法律に固有なものとして、自然主義がある(自然現象とのアナロジーが適用される「因果的」関係によって法廷に関わる知識が蓄積されていく)。そして、法がより高度に官僚化され、より「効率的」となり、特殊な利害を保護するために決疑論的に使用されるようになると、魔術的な承認の領域から出て、交通法規の領域に入ることになる(効率的な後ろ盾となるのは、権力や罰金による脅威しかない)

 

 法は、各集団がある側面を強調し、他の側面を無視することができるような複雑で、官僚化された思考体系を与えるので(修道院制度とのアナロジーを利用するか、新たな正当性を形成するに十分な強さを得るまで異端として無法の立場に止まるかとなる)、異端、セクト、分派にもまたそれによって独自の文化を得ることになる。

 

 合法性は、いかなる形においても、「生態学的均衡」とは異なる合理的孤立による「効率性」をつくりだす。かくして、我々の拡張した言葉の使い方によれば、ファラオがエジプトの生産性とその果実の間違った配分の仕方のたるみをとり、ピラミッド建設という「精神的投資」に過剰な労働力をつぎ込んだのは「合法性」に関わる問題である(ロックフェラーがラジオ・シティの建設によってたるみをのばしたのと同じように)。しかしながら、ピラミッドは、ある不動産での企画が他の不動産所有者を危険にさらすようには、(他のピラミッドにおける)同様の投資を危険にさらしはしなかった。

 

 ファラオの精神的投資(それは、<すべての>民衆が王を不死化する儀式を「支柱にして」共同性を確立したという意味において「集団的」なものだった)の「信仰の妨げ」となったのは別のことだったろう。ピラミッドに関わる非生産的な労働に、経済的に言って十人のうち<三人>を割くことができるとしても、ファラオは合法的に十人のうち<五人>をこの仕事に要求できたのである。(割合は適当なものにしている。)二人に誤って割り当てられたことからくる必然的な生産性の喪失は、全体としての民衆の生活基準を下げることで分配されねばならなかった(「社会化」)。「合法性」の要素は、今日では、生産力と販売力との割合にあらわれており、セールスマンの「精神性」はピラミッドにおいてそうであるように、生産体制からは精神性を取り除いている。テクノロジーの合法性が、効率的に生産性を増大することで、たるみを伸ばすのに役立っているのである。

情動の両価性ーー幸田文『猿のこしかけ』(昭和32年)

 

猿のこしかけ (講談社文芸文庫)

猿のこしかけ (講談社文芸文庫)

  • 作者:幸田 文
  • 発売日: 1999/08/10
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 『妲己のお百』は元々は講談の怪談噺で、七代目一龍斎貞山がよく演じていたものらしい。私が聞いたのは立川談志によるもので、川戸貞吉のライナー・ノーツによると、談志も滅多に舞台にのせることはなかったという。妲己のお百は池波正太郎の『鬼平犯科帳』に出てくるような凶悪な強盗団の一味で、ちょうど仕事と仕事の間で金に困っているとき、親切ごかしにある母娘に取り入り、目を患っている母親を療養のためと追いやり、その隙に娘を吉原に叩き売ってしまった。療養から帰ってきた母親にしばらくはあれこれと言い繕っていたが、娘に会わせろとうるさくてしょうがない。面倒だから殺してしまえと、盗賊仲間の秋田小僧の十吉に金を渡して始末を頼む。十吉は娘に会わせるからと母親を引っ張り出す。お百が住んでいるのは深川である。

 

古江町から水場の橋、霊岸の墓場を右に見て、たか橋から二つ目、おたけ蔵前をマッツグに、大川橋渡らず、右に切れた向島の土手でございます。

 

 

 そこまでくると漆黒の闇で人っ子一人いない。そこで十吉は母親を惨殺する。この部分を聞いていてなるほどと思ったのは、幸田文の次のような文章があったからである。

 

私は村生れの村育ちではたちまで村から出ないでゐたのだが、村は小さい工場とそこの職工さん、小商ひのうち、人足さん、さまざまの居職の職人さんたち、そしてさういう人たちに浸蝕されて取残されたやうに散在してゐる農家、ーーといつた編成であつた。(「三人のぢいさん」)

 

 

 幸田文幸田露伴の娘であり、露伴向島に住んでいたから、当然幸田文がここで村といっているのは向島のことなのだが、東京の下町にあまり詳しくない私は、村という言葉に引っ掛かりを感じていたのである。しかし、談志の噺を聞くことでなにか引っ掛かりが取れて、納得してしまった。芸の力というものだろう。

 

 『猿のこしかけ』は、昭和32年に10回にわたって『新潮』に連載されたエッセイだが、特に統一的なテーマがあるわけではなく、幼いときに村にいた三人のぢいさんのことから、三十歳代の半ばすぎ、離婚して再び父親と過ごすようになったとき、父親が死んで四十代半ばから執筆活動を始めた昭和23年からこのエッセイが書かれたあいだに起きたらしい最近のことまで、年月もまちまちである。

 

 女性が溌剌としていて然るべき三十歳代に離婚して実家に戻った時期のことを、幸田文は自分がこれまで生きてきたうちでも「平つたい期間」であり、「平伏してゐたつもり」だったといっているが、それはなにも意気沮喪して縮こまっていることを意味しているわけではなく、平たくなっているからにはもはや身を起こすしかない姿勢で、こんこんと湧き上がる力を溜めているにすぎない。だから、お茶の先生の看板を見たらどこでも入っていって、ただし相手側に迷惑をかけることなく、『南方録』がどう扱われているのか見てきてほしい、という露伴のはなはだ漠然とした要求にもさして拒むわけでもなく、ひょこひょこと出かけていく。しかも、幸田文は『南方録』など読んだことがないし、露伴もまた娘が読んだことがないことくらい察している。要求に応えられるかどうかは状況を感受する身体にかけられている。

 

 父親露伴に対する態度に典型的なように、幸田文はある意味直線的といってもいい、論理的で筋の通った議論をするのだが、それを動機づけもすれば、推進力ともなる情動が常に両価的なので奇妙なドライブがかかることになる。父親が相手なら離婚して戻ってきた引け目と、露伴の学問に対する劣等感が強ければ強いほど負けん気の強さが突き上げるある種わかりやすいものなのだが、例えば、本の題名にとられた「猿のこしかけ」に対する姿勢となると、一筋縄ではいかない。猿のこしかけとは木につくきのこであり、樹木が少なくなった東京では見ることもなくなってしまったが、「消えてしまつても惜しくはない、きたない菌である」と言いながら、子供の頃はよく見かけたもので、「しよぼしよぼ雨の降る日などはことに茶褐色にきたならしく、その上に空想の猿を置いたり鳥をとまらせたりして眺めてゐると、私は飽きなかつた。人形やおはじきとはまつたく別で、猿のこしかけは遠い山の中を感じさせた。」と、きたならしいことが必ずしも否定的な判断に結びつくわけではないことが示される。さらに、最近北海道で久しぶりに猿のこしかけを見た、案内してくれた人によると、あのきのこは材木屋泣かせで、あれがつくと上下五尺はボロボロで使い物にならない、どんないい木でも売りものにならなくなってしまう、ということを聞いて、「そんな悪いやつだつたのかと残念」に思うが、「それだからかへつてをかしくていいとも思ふ。」(あとがきにかへて)としめくくるのである。つまり、幸田文という人においては、情動に引っかかるものであればあるほど、その出来事やものは、それに比例して強い両価性を帯びていく。

ケネス・バーク『歴史への姿勢』 59

... 形象 Imagery

 

 キャロライン・スパージョンの『シェイクスピアの形象』を読む喜びについては既に述べた。確かに、詩にまつわる問題について我々の尊敬するM・D・ザベル氏はこの本について意見の保留を表明している。彼は形象の分析が幾分ぞんざいだとしている。この評価についてはより寛容な姿勢を主張したい所で、形象の分析が科学的な正確さに達することが可能かどうか疑わしいからである。微細で鋭い区別よりも一般的な方向性を定める助けとなるものである。

 

 以前、スパージョン氏がこうした刺激的結論を出すに至った企図について我々は考えた。意気消沈のうちに我々が行き当たったのは、詩人の作品の用語索引ができあがっている場合には、言葉の使用法のあらゆる場合の共通する性質を探りだすことで、詩人の形象の付帯的意味が描きだせると言うことだった。(『反対陳述』Hermes Edition159ページ)しかしながら、我々のもくろみの内実はと言えば貧困だった。既につくられた用語索引を使って既に為された調査を利用することを提案するだけだった。スパージョン氏は新たに最初から始め、すべての劇についてイメージごとに分類していった。彼女が非常に適切に言っているように、その言葉づかいにおいて作家は「正体を現わす」からである。※

 

 

*1

 

 

 自分の提案に従って他から十分な搾取ができたとしても、我々にはスパージョン氏の達した驚くべき結果に行き着くことはできなかっただろう。彼女の方法によって、シェイクスピアが鍵、あるいは軸となるメタファーを使って劇をつくりあげ、それを劇中で様々な変奏(音楽における「同一テーマにおける変奏」のように)で繰り返していることが統計的に明らかにされた。例えば、『ロメオとジュリエット』は光のイメージで、『ハムレット』は潰瘍あるいは腫瘍、『リア王』は身体的拷問、『アテネのタイモン』は犬、等々である。『アンソニークレオパトラ』で荘厳さをだしている世界のイメージが、ローマ帝国主義の<地球>像に体現されている様を見ることもできる。また、彼女はシェイクスピアの日常的な形象と、ある種神々しく、書物臭のあるマーロウの形象とを対比することができた。

 

 シェイクスピアがこうした選択について部分的にでさえ意識的であり得たのかどうかは疑問がある。『コリオレーナス』のプロットはノースによるプルタルコスの翻訳から取られた――どちらの場合も力点は<身体>に関するアナロジーに向けられている。しかしながら、これは政治劇であり、どんな思想家といえども、「政治体制」を論じるときには、こうしたアナロジーに頼ることはごく自然である。それゆえ、シェイクスピアによる主導的イメージの選択が意図的な場合があった(「方法論」によって明確化される「方法」)という可能性を押しつけることはしない。

 

 恐らく、「使うのに便利」なこともあって、我々はスパージョン氏の著作に熱狂しすぎたのかもしれない。それを読めば、あらゆる論点において示唆される可能性を感じないではおれない。新たな研究の世界を繰り広げている。例えば、彼女は、シェイクスピアが戦争や地獄を描くとき、騒音と悪臭の形象に頼っていることに着目する。そこで、騒々しい悪臭に満ちた街に戻るたびに、「さて、これはどっちだ、戦争か地獄か」と自問することになるのである。

 

 また別の点で、彼女は静けさの形象に着目している。シェイクスピアは常に安息所という観念をもっていたという事実を彼女の研究は明らかにした。静けさは彼の心では平和と調和に結びついていた。このことを読んだとき、さほど重要ではないので題名を忘れてしまったかつて読んだポオの短編を突然に思い起こした。単純な二元論的形に組み立てられていた。物語の前半は孤独で無名の人物を描く(十九世紀に盛んに描かれた漠然とした「詩的旅行者」である)。彼は騒乱に満ちた風景を通り過ぎる。激しい風が吹きつけ、木はたわみ揺れている。数ページにわたって混乱に満ちた運動の主題が様々に繰り返される。身元の明らかでない登場人物はもどかしがる。この混乱が止むように叫んで命令する。すると突然、命令が従われる。完全な静けさが行きわたる。それからしばらく完全な静寂のテーマが変奏される。最終的に、詩人は恐怖のうちに逃げだす。

 

 シェイクスピアの形象とポオの形象との間には極めて重大な相違があると思われた。ポオは安息所をもっていない。動きも静止もどちらも不気味な意味合いをもっている。それゆえ、彼は酩酊と衰弱とを繰り返した。酩酊においては、彼は自分の血のうなりを耳の奥に聞いた。静けさというのが彼には考えられないものであったので、恐らくそれを求めたのである。静けさというのは<不動>である――不幸が常に彼を動き続けるよう強いていたため、シェイクスピアが波乱のときにさえ、いまここでの経験の背後で守っていた安息所はポウには死によって得ることを望むしかないものだった。

 

 我々にとって刺激的だったスパージョン氏のもう一つの指摘は、『シンベリン』が田舎の生活と、「売り買い、価値と交換、支払い、負債、勘定、労賃のテーマ」という二種類の形象を軸に構成されているというものである。そして、晩年における他の二つの偉大なロマンス『テンペスト』と『冬物語』を論じる所では、『テンペスト』が音の形象によって組み立てられており、「衝突しあう不協和音から始まり、澄み切った調和で終わる」ことに注目している。『冬物語』がより不明瞭なことは彼女も認める――しかし、ここでの形象がより微妙で、より「観念的」ではあるが、波の感覚、相互作用する自然法則によって組織化されていることを示す十分な根拠を提示している。彼女はこう書いている。

 

 「とりわけ、この中心的な想像的観念が完璧にかつ繊細にあらわれるのは、ペルディータの美しさと野性的で自然な優美さへの賛美によって感情の高まったフロリゼルが彼女の若々しい身体の動きを波の運動のように秩序づけられリズムのある詩として捉え、永久に彼女をこの大きな運動の一部に止め置こうとして、忘我のうちにこう叫ぶときである。

 

 あなたが踊るとき、私が望むのは

あなたが海の波であること

それより他のなにものでもない。」

 

 スパージョン氏がこの三つの劇について提示した可能性については、欄外の注釈をつけるくらいのことしかできないだろう。そのために、シェイクスピアの時代に働いていた歴史的過程の示す曲線と彼の書いたものが示す「曲線」とを関係づけることができよう。

 

 シェイクスピアの初期の劇は、その共同性においてもっぱら封建的だった。『ロミオとジュリエット』の争いの封建的な性質は明らかに見て取れる。封建主義は家族のメタファーによって捉えられ、この劇は家族間の争いを含んでいる。初期の劇にある優美さと洗練の理想は完全に<宮廷の>基準と結びついている。リリーにある誇飾体、シドニーの田園詩にある高慢な振る舞いは、道徳的倫理的価値としてカスティリオーネの『宮廷人の書』にイデオロギーの形で構成されている。

 

 次第に、新たな共同性の流入が感じられるようになってくる。マクベスのグロテスクな犯罪にあらわれる。フォルスタッフのグロテスクな相貌という形を取る。その発端は、「個人的な事業」の犠牲となって死んだメルカシオに見られるだろう。

 

 悲劇の時期は、それぞれに、危機を示している。新たな基準に対するシェイクスピアの感受性は想像力の根にまで達し始めた。深遠なる詩人として、彼は変化を深く感じ取ったのである。そこにはリアの(王としての封建的財産を失う)、オセローの(宮廷恋愛の「資格」が失われる)の混乱がある。※そして、『ハムレット』では相関するすべての問題があまりにも激しくなっているので、職人としてのシェイクスピアはほとんど覆い隠れんばかりになっている。劇は告白的な、エッセイに近いものとなる。劇の一部としての台詞ではなく、<一個人としての>シェイクスピアが語らねばならないことを語っている。

 

*2

 

 劇作家は道徳的な<確実性>を扱う。もし観客がある基準をもっているなら、劇作家はそうした基準を<演じる>登場人物によってそれを挑発し、刺激し、共感と反感とを操る。しかし、『ハムレット』は<不確実性>のなかにあり、シェイクスピアは本質的なアイデンティティ、劇作家としてのアイデンティティを失う危険にさらされている。新たな基準の勃興をあらわにすることは、職人として書く「権利」を奪い去られる恐れがある。彼の疑いは「心理学的失業状態」の可能性にまで達する――<そのあらゆる能力がところを得ていた>人間にとって、共有、正当化、訴えかけ、「世俗的祈り」の方法が完全に活かされていた者にとって、この所有権とアイデンティティの喪失への脅威は恐ろしいものだった。

 

 シェイクスピアは危機に出逢い、それを乗り越えた。『あらし』という題名にそのことはよくあらわされており、嵐は劇が始まると同時に終わる。劇は嵐の余波に関するものである。嵐は悲劇の時期にあった。この繊細な喜劇はモーツアルト的な調和があり、その後減退する。この曲線は音の形象によって「衝突しあう不協和音から始まり、澄み切った調和で終わる」によっても象徴化されている。※

 

*3

 

 この劇にはもう一つの象徴化の可能性が見て取れる。劇の最後で、魔術師プロスペローは無骨なカリバンを解放する。彼は追放されたために自由になる。こうした人物の解放によって、劇作家は自分の蓄えを交易に出しているのだと言える。彼は劇を進めるのにこうした頑迷な人物を必要とする。それゆえ、『ハムレット』の時期に予期されていたのとはまったく異なった意味合いではあるが、職業を捨てる用意をしていたと思われる。<そのときには>心理学的失業に脅かされていた。しかし、<いまは>仕事を完了している。危機を通り抜け、それを乗り越える仕事を成し遂げたのである。

 

 残りの二つのロマンスも同じパターンをしている。『シンベリン』では二つの勝利が象徴化されている。第一に、田舎の形象と新たな通商の形象とを織り合わせることで、彼は自分自身のために封建的世界と商業の世界とを「統合する」。ヘンリー・フォードは「農場でフォードの車を育てる」という計画を発展させることで、農場での子供時代と工場での大人になってからの経験を統合したが、シェイクスピアも自身のやり方で同じことをした。自分の劇に通商の形象を織り込むことによって、新たな共同性を受け入れるために必要な懐の深さを検証したのである。※

 

 

*4

 

 

 『冬物語』はその題名からして沈静の意味合いを証明している。作者の劇的哲学は、あらゆる精神的運動と身体的運動とが精妙に混じり合う幾分汎神論的な「普遍的な波動」において完成する。

 

 読者も気づかれるだろうが、シンボリズムに入り込むことなしに形象を論じ続けることはできない。詩人の形象は象徴の類似性によって、たがいに関連をもって組織化される。我々は考え始めるやいなや、対象のイメージからそのシンボリズムに移るのであり、イメージそのものだけではなく、その諸関係の文脈のなかでの働きを考えることになるのである。そこで、素直に、形象から公然たるシンボリズムの議論に移ることにしよう。

 

 もしある人間が山を登るのに、山登りに関心があるわけではなく、純粋にどこかにたどり着くために、最短の道として登るなら、シンボリズムを探る必要はない。しかし、なぜそこに行きたいのかと論じ始めると、シンボリズムの問題に入り込む。その目的の概念には人間関係の文脈が含まれているからである。彼の目的は「社会的」である。それ自体で独立したなにかではなく、多くの関係の一つの働きである。つまり、象徴的だと言える。結局、ある行為というのは、人間がまさしくそうすることに関心をもってしたことだからである。――その行為は「象徴的」行為である。その人間の「アイデンティティ」に関わりをもつ。

 

 1914年に戦争行為が始まる<前に>、フランス軍隊の計画を記した『プルタルコス歌曲』という本を読んだことがある。その計画は「ユートピア的」で、高度に<象徴的な>ものだった。戦争アカデミーは、ヴァレリーが尊重するソネットの規則と非常によく似たやり方で軍事行動を繰り広げたのである。フランスのアカデミーの天才はその戦争計画にあらわれていた。戦術の全体系は、戦争がテニスやチェスと同じく決まったルールをもったゲームであり、どちらの側もそのルールを守るかのように組み立てられていた。(この仮定はあからさまに表現されてはいない。そう言明されたら、疑義が投げかけられただろう。戦闘が規則によって組織化されていた初期の騎士道からの「獣道」として、暗黙のうちにのこり続けていたのである。)

 

 戦闘行為が始まったとき、フランスの軍事アカデミーは象徴的戦略を実行に移し始めた。ドイツの側面攻撃を準備して一部隊を動かした。自陣への側面攻撃を防ぐために一部隊を後に残した。ドイツも同じようにした。二つの軍隊が北フランスを過ぎ、海に至るまでこの過程は続いた。戦略的な軍事行動によって、フットボールのV字型戦形のようになると、二つの軍事的リボンが「形なく」繰り延べられたようになった。状況の「現実」が新たな必要を生む。戦争計画のユートピア的シンボリズムは、それを官僚化し、「この不完全な世界」の現実の必要に「完璧に」合わせるように命令が下されることによって変更された。封建主義の軍事行動では、二つの戦隊が向かい合い、意図したわけではない「消耗戦」が続くのである(「獣道」のような「目立った場所」を取ったり取られたりが続く)。

 

 この本から我々の目的のために引き出せる教訓は、戦争計画でさえ、それが実際に試される<前には>、象徴的要素を示すということである。

 

 例えば、アメリカの軍隊は、一人一人に車と弾薬とが配給され、それが最小単位となって働くといわれている。もしこの情報が間違っているにしても、それを認める<べきではない>。こうした軍事計画は「象徴的に完璧」に思えるからである。我々の個人主義と工業化と規格化が一つになってこれほど正確に象徴化されている例を他には想像できないであろう。(1955年の付記。日本人の第二次世界大戦における自爆計画との顕著な象徴的差異を見よ。)

 

 実際、この可能性は、新たなロシアの戦略に含まれる象徴的要素について考えさせることになる。敵前戦の<背後に>飛び降りられるようパラシュート部隊が訓練されているという戦略である。実際に検証が為されて、この戦略がいいかどうかはわかることになろう。しかし、実際の困難な状況がその正しさや失敗を証明するにしても、この戦略そのものがマルクス主義哲学の奇妙な戯画を示唆している可能性は残るのである。共産主義者は、もしロシアに対する戦争が起こっても、<敵前戦の背後で戦いを>試みることができるに違いないと信じている。

 

 戦略家たちは、まったく異なった意味合いをもつ戦争計画のなかでこの姿勢を象徴化している。彼らは真にマルクス主義的な意味において、「前線背後での戦い」を例証しているわけではない。それらはマルクス主義の歪曲である。しかし、「国家共産主義の戦争」というパラドックスが、現実の状況にあるもう一つのパラドックスに内在している。つまり、共産主義は、世界で同時に確立することは<できない>という事実である。これは生の「現実」がマルクスの歴史的形態学(必然的に、検証の前に書かれたものである)の「理想的シンボリズム」に導入されるときの手に負えない部分である。

 

 要約すると、戦争計画のような実際的なものでさえ、その象徴的要素を探ることができる(全世界的な物質の官僚化の十分な検証がなされる際には、多大なる変化が必要とされるだろう)。

 

 シンボリズムのもう一つの例。「古参のボルシェヴィキ」の裁判と処刑に続き、新聞がスターリンに関する「ジョーク」をのせ始めたのは印象深かった。スターリンは愉快な男の典型というわけではない――それゆえ、連続性の裂目にあらわになるものがあるという我々の主張に従えば、この「不連続的な」冗談にこそシンボリズムの可能性がある。ロシアで行きわたっている話によれば、スターリン自身は死んでいる。最終的に彼自身が登場し、手真似でこの噂を「肯定した」というのである。ここには彼のいつもの役割にある意味深いものがありはしないだろうか。古くからの仲間が彼に敵対し処刑されたとき、彼の「アイデンティティ」のある部分が実際に死んで<しまった>と言えないだろうか。そして、彼は自身のなかのこの部分的な死を、噂を「おどけて」肯定することによって象徴化したのではないだろうか。

 

 しかしながら、一般的な話としては我々に同意してくれようとする読者でも、我々がこの本のどこにも象徴的要素の完全な図式化を提示していないことには憤慨するかもしれない。我々の基本原理は、あらゆるシンボリズムは儀式的な命名アイデンティティの変化として扱うことができるという主張にある(人間は確立された共同性の役割に自らを合わせるか、新たな共同性が必然的に強いる役割の変化を受け入れる)。図式化できるとしたら次のようになる。

 

 一般的に、こうした変化の、或は「浄化」の儀式は三種類の形象に集中する。氷による浄化、炎による浄化、腐敗による浄化である。「氷」は去勢と冷感症を強調する傾向にある。(険しい山、冬、北極探検、個人或は世界の寒さによる死。それゆえ、『アンクルトムの小屋』でエリザが子供とともに<氷の上を乗り越える>ことと、オデッツの「贖罪の」劇である『失楽園』で主人公が氷の下に溺れていると訴えることとの相違に注目すべきである。)火による浄化、「火刑法廷」は恐らく「近親相姦の不安」を示唆する。(太陽に迎え入れられ、同時に焼きつくされるある種の神秘家の「太陽による死」の夢のように。太陽はもともとは女性であり、ドイツ語の「Frau Sonne」に残っているように、豊穣の女神であった。火の女性的な性格は、ワーグナーのオペラで、ジークフリートが花嫁を火の輪から助けだすところにもあらわれている。こうした意味合いはアースキン・コールドウェルの物語にも守られており、そこでは火と母と地とが一緒になっている。)腐敗による贖罪は様々な形の芽を出す種に象徴化されており、汚物や腐敗の新たな緑が発するのである。しばしばそれは同性愛の意味合いをもつように思われる(アンドレ・ジイドの小説のように)。また、山と穴という二つの観点の象徴化が認められる(橋、渡ること、旅行、飛ぶことと混じり合うこともある)。山は近親相姦的な要素を含んでいる(母としての山であり、攻撃者に対する象徴的罰である冷淡さを伴っている)。穴もまた同様である(子宮と「下水」の両義性があり、後者もまた「腐敗による浄化」の構成要素となる傾向がある)。

 

 たまたまネーサンとチャールズの両レンズコフ二よる「ミシン技師の幼年期」の一節が書き抜かれたものがここにあるが、それが我々の目的にはほぼ完璧に近い。まずそのすべてを引用し、次にそれぞれの段階を分析しよう。

 

 「私が家に入ったとき、彼女[仲良しの母親]は『こっちに来てストーブのそばで暖まりなさい』と言った。彼女の夫は怒った目つきで私を見やり、賛美歌を歌い続けた――私の父や他の人がするように悲しげにではなく。そして、『我が助けとなりし丘に眼を向けしとき』というところまでくると、同じように眼を上げるのだったが、売り物のウイスキーの樽を見るだけだった。」

 

 「私が家に入ったとき、彼女は『こっちに来てストーブのそばで暖まりなさい』と言った」。これは「私は仲良しの共同体に参加したと思えるほど十分に彼と同一化した。彼の共同体(家)に入ることによってアイデンティティを変えたとき、この共同体の母親シンボルは『私のそばに来て(私を連想させる暖かなストーブ)繁栄を感じなさい』と言った」と等しい。

 

 「彼女の夫は怒った目つきで私を見やり、賛美歌を歌い続けた――私の父や他の人がするように悲しげにではなく」。これは、「この新たなアイデンティティに伴う父親シンボルは母親シンボルのように共有できるものを与えてはくれない。母親シンボルとの関係は象徴的な近親相姦だった。父親シンボルの方は、より<広い>共同体、宗教的共同体との関係によって、<自身の>アイデンティティを主張している。しかし、彼の穏やかな言葉は態度によって裏切られる。彼は共同体の<悪い>成員である。彼は同一化しようとする私の試みを冷ややかに迎えるのである」と等しい。

 

「『我が助けとなりし丘に眼を向けしとき』というところまでくると、同じように眼を上げるのだったが、売り物のウイスキーの樽を見るだけだった」。これは、「私の新たなアイデンティティの父親シンボルが自分のアイデンティティを主張し、「繁栄をもたらす<我が>母親の神秘を、罪を感じる懇願の眼で見るときに」という語句にくるが、彼は実際には<懇願>ではなく、粗暴で図々しいまなざしを向けるのである。それに不思議はない。彼は彼女を娼婦に仕立てたからである。彼女の腹は樽として戯画化され――売りに出される。まさしくそれは<アルコール>から生じる純粋に物質的な種類のスピリットである。それを売ることで、利益による純粋に<量的な>検証を経ることによって、彼は宗教の金銭による戯画化に達する」と等しい。※

 

 

*5

 

 要約すると、証拠となるものを見てみるに、子供は仲良しの「共同体」に同一化する際に、自分のアイデンティティを携えていく意図はなかった。ちなみに、「共同体」の意味には三つの段階が認められる。グレンウェイ・ウェスコットの『眼の林檎』で、主人公が母親に「お前の体は神殿だよ」と教えられるときには<個人主義的な>共同体が象徴化されているように思える。身体から家にまで拡大することで、共同体の親密な意味合いが強調される。カミングスの『巨大な部屋』やジェイムズ・ダーリーが『季節のかけら』で共産主義を家にたとえる場合である。『狭い家』のイーブリン・スコットはもはや家という次元を保持できなくなっているが、それでもそうした共同性によって考えようとしている。さらに、「都市」とのアナロジーによって共同体を考えようとする傾向がある。より近くから観察すると、この都市には、「死者の都市」という響きのあることが明らかになる。ある意味で、より「抽象的な」「都市」という枠組み(共同体に宗教的、或は歴史的広がりを与える)に同一化するためには、自閉的で親密な枠組みをもつ個人が「死」ななければならない限り、こうした要素は避けられないように思われる。

 

 我々はこれを精神分析的な「倒錯」に厳密に当てはめることはしないし、もしそれだけの意味として捉えると我々の目的には不満なものとなるだろう。我々は象徴的行為の存在を、それが権威シンボルと関係する<社会的行動>を生みだす限りにおいて認めようとしている。個人主義的な心理学は常に象徴的行為に誤った力点を置いていると我々は信ずる。個人主義的共同性とは、非社会性のことではなく、治療の基本は社会化である。

 

 例えば、個人的な「死の衝動」と完全に社会化された死の衝動とは非常に大きい質的な相違がある。個人的なものは自殺という表現をとるが、社会的なものの論理的表現としては、生への、有用であることへの、身体的精神的連続性を子孫に残そうとすることへの強い欲望である。個人主義的心理学者も言葉の上では同じことを認めるだろう。しかし、通常、彼らは「社会人」としてではなく、「個人」として救われたいと望む人間に雇われているので、実践においてはそれを否定する方に進むのである。共同性による昇華或は「超越」はある種良性の「幻影」に等しいものとなる――アイデンティティを純粋に個人主義的に定義すると、「共同的アイデンティティ」は、合理性における踏み外し、<自己>欺瞞となってしまうからである。それゆえ、「愚かである」ことを望み、共同的な同一化を無意識のうちに選ぶ「素朴さ」を「羨み」ながらも、自身の「啓蒙」を喜ぶことになるに違いない。

 

 確かに、個人は存在<する>。各人間は唯一無比の経験の組み合わせであり、状況の唯一無比の集まりであり、たがいに支え合い勝つ争い合う「集団的我々」の唯一無比の集合体である。しかし、彼は自分の独自性を無冠の王様のものとして扱う代わりに、自分の唯一無比な組み合わせと社会的パターンとの関係における社会的パターンとの間に象徴的な橋を架けねばならないのである。社会の官僚的な体制を利用することによって、個人の役割を形成し、実行する。そうするためには、純粋でユートピア的な戦争計画が客観的要因の障害に出会ったときいったん死に再生したのと同じように、「死に」、そして「再生」しなければならないのである。心理学者がこうした必然的な修正を<単に>「死の衝動」やサディズムのマゾヒスティックな抑圧と取るなら、彼の洞察は洞察よりは誤解に近いものとなろう。出来事をあまりに限定的な共同性のもとに捉えているからである(火のついた家に飛び込むA氏の姿を見て、その行為をすぐさま「死の衝動」によって説明するのだが、実際にはA氏は自分の生活のために必要なものを持ちだそうとしていただけだという場合のように)。間違った力点の置き方(なにも強調しないよりまだ悪い)は、個人主義的心理学の議論の<あらゆる点において>社会的共同性を織り込むことによってのみ正すことができる。こうした織り込みは単に「個人」と「社会」とを対立させることで成し遂げられるものでは<ない>(十九世紀の「有機体」と「環境」との平板な区別においてのように)。※

 

*6

 

 個人主義的心理学者は共有にほとんど注意を払わない。臨床的に認められる「原罪」を治療しようとはしない。人は「喪失を社会化」することで「負担を共同の利益」としなければならない(金銭のやりとりにおいて戯画化されるように)。そして、こうした社会化の模倣は信仰告白に限定されるものではなく――実践的な領域において官僚的に完成されねばならないのである。

*1:

こうした批評の仕方がどのように進めば、詩人、そして哲学者さえもその正当性を感じるようになるだろうか。例えば、ある思想家がある観点を支持し、それを「列聖調査審問」の方法として支持したなら、彼は自分の観点にある「悪魔的」要素をあらわしていると言えないだろうか。あるいは、ある哲学者が、その長い著作を終えるにあたり、自分の考え方を取るものこそ「真の君主」だと興奮気味に語ったとすれば、その動機の「本質」に独裁者の待望が潜んでいることをあらわにしていないだろうか。

 将来の作家たちにとって、「メタファーに注意」という標語は、地下鉄の雑踏での「足元に注意」と同じ意味をもつものになりうる。あるいは、別の言葉で言えば、形象を検査することは、問題を探る方法として、生理学で体温や体重、血圧を測るのと最も近いかもしれない。

 新たな種類の「矯正的偽善」が生まれる可能性さえあり、ある種の形象が他のものよりより「健康」(あるいは道徳的に優秀)だと決定した作家が、注意深くそうした形象を開拓するよう<自らを導き>、表現の無意識の文法になることもある。(1955年の付記。「新たな事態?ボワローの次の句を見よ。Que votre ame et vos moeurs,peintes dans vos ouvrages,/N'offrent de vous que de nobles images」また、文体を引き締めるために板の上に寝たイエーツを思い起こしてもいい。)

 それでどうなるだろうか。こうした選択は「世俗的祈りによる性格設定」に役立つことができるだろうか。「正しい」形象を模倣することが、まっすぐの姿勢と元気な歩みとしっかりした握手が、「呪文」として働き、人間を精力的な人間へと変えるように、詩人をつくりかえるのだろうか。あるいはパスカルが求めたように(そしてある程度は成功したが)聖水を使うことで信仰に到達するのだろうか。

 いずれにしろ、東洋の神秘家が静かな息をすることによって静寂の境地に入るように、客観と主観の間には照応があり、適切な客観的姿勢を取ることで、望む主観的状態に<導く>ことができるのは間違いがない。ポオの物語の客観的な恐怖の描写が読者にも恐怖を呼び起こすことができるなら、どうして詩人が形象を<意図的に>特殊化することで、「自身を越える」(あるいは少なくともそう試みる)のが不可能なことがあろう。

 また、<定められた>形象が、時代の要請と厳しく争いあう傾向のあることも見て取ることができる(静穏な呼吸法を完全なものにしたというのに、周囲の世界は恐怖と怒りで息切れがしている場合のように)。だが、喜劇役者の無責任な物まねを見る我々の楽しみは、まさしく、彼らが世界の出来事の重みに無遠慮に敵対する祈りを完成<させる>ことにあるのではなかろうか。

 勃興する「権力-知識」の哲学に直面したシェイクスピアの恐怖が、祈り(宗教的遺産の世俗化)を脅かされることから来ていることを我々は信じる。言葉は「言葉、言葉、言葉」となる恐れがある。スタイルは「単なるスタイル」になるだろう。彼がかくも完全に発達させてきた資質が疑問に付されることは、彼のアイデンティティが分解させられることだった。ニチャード二世は、ハムレットによって完成された役割の最初の形であると思われる。リチャードにおいて、彼は王の領域に移すことによってスタイルを荘厳化した(祈りによって出来事を押さえつけようとする王の試みは、すべて、すぐさま客観的状況において逆の働きに行き当たる)。リチャードが真の王となるのは王を退こうとするときだけだというのも注目する価値のあることである(到来したブルジョア的な取得の道徳性によって脅かされる教会的な「貧しき者の繁栄」とのシェイクスピアの親和性があらわれている)。

*2:ウォルター・ヒューストンのオセローの解釈を論じるにあたり、ジョゼフ・ウッド・クラッチが劇の「中心的なモチーフ」として強調した「デズデモナにおいてオセローが『その心を蓄える』という事実」は我々の目的に役に立つ。つまり、彼女は「彼の生における信仰のシンボル」であり、「単なる一女性以上のもの」である。「彼女の喪失」は「彼女を失うということ以外のすべてを失うことである」。そこで、シェイクスピアの寄る辺のなさについての深い知識が、簡潔で深みのある表現「オセローの支配は去った」においてなされるのである。

*3:歴史はシェイクスピアにとって教訓やプロパガンダの一種である。それらは封建主義から国家主義的思考への転換を操作する。

*4:

この点について、読者にはこう問う権利があろう。この観察は、著者が、解釈の目的のためとはいえ、最後まで商業主義的な用語を保持していることとどう折り合いをつけるのだろうか。率直に言って、我々はそれをある種「風変わり」な点において好んでいる。それは我々を満たしているが、理論上では低く見積もろうとする傾向のために、「距離の情念」とでも言えるものを帯び始めている。恐らく、変わりゆくギリシャホメロスの古拙さを好んだように、我々はそれに文体的な「防腐処理」を施そうとしているのだろう。

 更に、複雑な産業の上に成り立つことで洗練されていった社会では、必然的に商業的な交換のシンボリズムが持ち越されねばならないことも我々は感じている。ブルジョア思想が「人間喜劇」についての我々の理解を形づくる際にその寄与を捨て去ってしまうのは「文化的破壊行為」と言えるだろう。

*5:

マルクス主義者とフロイトはとの論争は、しばしば、政治的でもありながら同時に前政治的広がりをもつ親シンボルの両義性から発している。

 例えば、ルイ・アラゴンの『バーゼルの鐘』は「二種類の女性誌か存在しない」ことを語っている。第一の、エロティックでふしだらな女性は頽廃した資本主義に結びついている。小説の最後になって、彼はもう一種類の女性、年を取ったクララ・ゼトキンの姿であらわされる「共産主義的母親」とでも言うべきものを見いだす。(始まりと結論の間には移行期があり、そこでは以前にはふしだらであった女性が政治的目的のために禁欲的に生活する。)興味深いのは、批評家や小説家自身によってさえ気づかれていることだが、クララ・ゼトキンが登場した瞬間、小説の連続性が決定的に途切れてしまうことにある。それまでの叙述の形式は放棄され、虚構の<外側の>人格である著者が前に出るのである。我々は次のことをアラゴンデカダンスの伝統によって取引を学んだ結果によるものだとする。つまり、数百ページにわたって主題を完璧に保つことである。しかし、クララ・ゼトキンに言及するや、彼は自分の方法を捨て去らねばならなかった。新たな「政治的」アイデンティティが前面に出て、古くからの「美的な」アイデンティティに取って代わることになった。娼婦の場所に母親がくる。それに従ってアクセントの場所も変わる。

 

*6:個人主義的心理学者が、心理学的出来事を位置づける枠組みとして、<残忍な>共同性を考えたがるというのも見て取ることができる。看守の厳しさは、正反対の観点から、「優しさの抑圧」として論じたとしても充分合理的である。交易の官僚的な必然は最終的には過酷さをつくりあげるものであること、そして、そうした必然性への抵抗もまたそれをより過酷なものとすることに終わることは認められる。しかし、最近の心理学者は、むしろ、厳しさを「規範」とし、優しさや愛情を単に「残忍さの抑圧」と考えている。残忍な番人は親切なものよりも「真実に近く」、親切なものはそのもともとの性格を「抑圧」しねじられることで優しく見えているに過ぎない。もしどちらかを「本質」として選択<しなければならない>としたら、残忍さを抑圧された優しさとするか優しさを抑圧された残忍さと定義するか決めねばならないとしたら、どうしてより縁起の悪い方を選ぶのだろうか。こうした選択において、心理学者は、勃興する残忍性の崇拝(疎外に対する怒りを伴った)に貢献しているように思われる。

断片蒐集 53 自己意識と原罪

thomas aitizer,The Genesis of God

統合された「私」というのは、ユートピアでしかない。分裂した私も病的になると厄介だろうが、もともと私には充填されることのない穴が空いている。

ナルシシズムユートピア的「私」 神と罪との関係

アウグスティヌスは神の「我」が一つの純粋な或いは単一の「我」であり、そこでは意志と存在の、あるいは行動と意志との合一があることを知っていただろう。それは我々の二分化された「私」とはまったく異なるものであり、というのも、神の意志が彼の存在と一つであるのに、我々の意志は我々の存在、我々の真の本質的な存在に向けられているのであり、それは我々が自らの個的存在の唯一の源泉であり、著者であろうとするからである。それは原罪の源にある自負であるが、そのような自己−中心的な意志は「存在」はせず、むしろそれは現実の実体化された無なのである。この実体化された無は我々にとって内的な現実であり、自己意識の最も十全な瞬間、自ら意志する瞬間、つまり、我々が内的な深みの力に気づく瞬間に我々にとって最も現実的なものになる。しかしそれらの深みは究極的には空虚な深みであり、それがある現実的無の、罪の現実性である現実的な無の実体化であるがゆえに空虚なのである。ネオプラトニストとして、アウグスティヌスは悪が幻影であることを知っていただろう。しかし、パウロ的なキリスト教徒として、彼は罪が全く堕落した意志であること、たとえその意志が形而上学的に存在の喪失、或いは不在であるにしても、内的には、それは完全な現前、罪の完全な現前であることを知っていた。

 

ケネス・バーク『歴史への姿勢』 58

... 同一性、同一化 Identity,Identification

 

 我々が関わってきたすべての事柄は同一性の問題に行き着く。ブルジョア自然主義の最も素朴なあらわれは、「個人」と「環境」を鈍感に区別し、自動的に、個人の「アイデンティティ」を私的な、彼のみに固有なものとする考えにある。ブルジョア心理学者がこの考えの間違いを発見し始めたときも、アイデンティティの集団的側面というのは、病理学や幻影として考えることができると完全に信じていた。つまり、彼らは正確にも、アイデンティティは個人的なものでは<なく>、人間は自分以外のあらゆるものに「同一化する」ことを発見したのだが、この傾向を「治療」しようとしたのである。

 

 それが「治療」しがたいのは、単純なことで、<正常>だからである。分析による暴露で、悲惨な同一化の事例を挙げて同一化からの離脱を助けることもできる(例えば、ヒトラーに同一化するごく普通のドイツ人の傾向は、ヒトラーが今度は悪意のある経済関係を取ったために、悲惨な意味合いをもった)。しかし、同一化を取り去るだけでは十分ではない。間違った同一化の結果として、戦いに死んだ人間は、なんら同一化する対象のないものよりいい。自分がしていることをどう<考えようと>、精神分析家は<代わりの同一化>を密かに持ち込むことによってのみ患者の間違った同一化を「治療する」のである。(例えば、患者が「精神分析科学の組織」に同一化することもしばしばである)。

 

 ヘレニズムが終わりに近づき、国家の混乱が高まって、誠実な人間には皇帝との同一化が不可能になると(ストア派がそうであったように)、「教育のある」多くの者は、あらゆる同一化を避けようとして弱体化した。共通の同一化を避けようとすることで、自動的に自分を失ってしまった(結果として、無気力、空虚、退屈、疎外が生じた)。キリスト教福音主義は共通のアイデンティティとなる新たな概念を導入することで状況に活動的に対応した。重要な社会的長所があって、それは普及した。同様に、皇帝と教会を含むロシアの崩壊は、共通のアイデンティティへの欲求不満をもたらし、代わりにマルクス主義の「プロレタリアート集団」がもたらされた。

 

 所謂「私」というものは、部分的には争いあう「集合的な我々」の唯一無比の組み合わせである。(ハロルド・ラスキの社会的「多元論」についての論考を参照)。そうした多様な集団的アイデンティティがうまく働くこともある。互いに争い合い、道徳的な混乱をもたらすこともある。

 

 アメリカでは、従事する仕事に同一化することが<自然>である。それは生得権であり、それを否定する限り、虚弱化し、疎外される。会社が「腐敗した支配者」となる限り、唯一の救いは別の集団に自らを<同一化する>ことである。この別の集団を確立しようとする戦いは、「一つの巨大な同盟」のための戦いと呼ばれる。「労働組合主義」、「農民や労働者の」政党などが生まれる。

 

 金融組合への忠誠は、債務が一方的である限り、損なわれる。完全な組合のアイデンティティは双方的でなければならない。親玉は手下の忠節を必要とする--代わりに手下の安全を保証する。様々な保証体制によって、巨大金融組合はこうした双方的な関係を確立しようとしている。それゆえ、労働者を<会社>の代わりに<政府>に同一化させようとする<連邦的>な保証には抵抗する。こうした問題が、政党はできる限り各企業とうまく同盟していきたいにも<関わらず>、「企業」と「政府」のあいだで争いが起こる根拠を示している。企業そのものが互いに争っているために、彼らの忠誠は完全なものではあり得ない(いかにそう願ったとしても)。それゆえ、政党があらゆる点で同一化できるような「単一の企業組合」など存在しないのである。「産業界」が所有者と労働者との双方的な関係を確立するのに必要なことを<望みもせず>、<可能ともしない>ならば、アイデンティティの混乱は続くに違いない。

 

 我々は家族の集団的アイデンティティもここに含めるべきであり、封建制での所有権はそれによって厳密に定められている。『リチャード二世』において、ボリングブロークがヒアフォード家の者として行なった追放の誓いはランカスター家の一人として良心をもって破ることができる。

 

私は追放された、ヒアフォードとして追放された

  だが帰ってきた、ランカスターとして帰ってきた。

 

 

この「祈りに満ちた」仕掛け(異なった「本質」を個人的に手に入れる)によって、彼は王によって個人的にかけられた魔術的な拘束を避けることができた。現代の財政的に共同なアイデンティティによって与えられる便宜に似たところがある(そこで、個人は<再編入>によってそれまでの役割にある限界を「超越する」ことができる)。

 

 「社説にある我々」に「共同的アイデンティティ」が明瞭に見て取れる。編集者はその<制度>内での地位を曖昧に指し示すことで記事を選択し拒み、コメントを書く。(彼はまた、もちろん、そうした地位の特権を「利用する」こともすぐに学び、「編集者たち」の同意が得られなかったと率直に言って記事の掲載を拒むのだが、編集者の多くが彼の代理であることには言及しない。)仕事上の手紙での「我々」もその一種であり、書き手は深く考えることもなく<共同の>役割の上で発言している。

 

 共同的アイデンティティの葛藤を示す最も単純な例は、英雄が「愛と義務とのあいだに引き裂かれる」古い物語のうちに見いだされる。「義務」というのは、より大きな共同的集団(教会、国家、党派)との同一化を手っ取り早く示したものである。「愛」は「最小の共同性」、二人の関係を示している。疎遠(離婚において最大限になる)は、「集団的作業」では<なく>、十九世紀の小説家たちによって称揚された「両性間の戦争」(孤独という「共通の敵」に対抗するために「敵対者」同士が手を結ぶ戦争)である限りにおいて、二人の関係を特徴づける。

 

 要約すると、同一化そのものは異常なことではない。また、「科学的に」排除できるようなものではない。集団的、社会的役割への参加は別の形で得ることはできない。実際、「同一化」というのは、ほとんど<社会性の働き>を示す以外のなにものでもないのである。ある場合には、「<悪しき>同一化」を意味する言葉として使用することもある(支配的な権威のシンボルに同一化するが、その支配的シンボルが今度は明らかに反社会的な動きに同一化するような場合)。

 

 同一化が傲慢を支える巧妙な手段となることもある。それによって、謙虚な人間が最も不埒な「自慢話」に耽ることができる。ある集団に同一化し(教会、ギルド、会社、支部、政党、チーム、大学、都市、国家、等々)、その集団を無闇に褒めそやすことによって自分自身を持ち上げるのである。その集団の「分け前に与っている」のであるから、「相場を操作して」全体としての価値を上げることで、持ち株の価値を高めるのである。その最も単純な例としては、音楽愛好家が騒々しくある作曲家を持ち上げ、作曲家の達成を「身代わりになって分かちもとう」とすることがある。こうした同一化は競争相手との争いに酷使されている店員にも見られるものであり、あるデパートの売り子は、向かいのデパートの商品について軽蔑した態度を取るのである(こうした姿勢は、会社のトップが「外部からの扇動者や組合の組織者の干渉」に対して「会社への忠誠心」を「うまく利用する」ことで取らせるものである)。

 

 「身代わりとなる自慢」の働きは、「叙事詩的英雄主義」や「婉曲的な」動機の語彙に通じている。英雄が伝説によって形づくられ、不適切で釣り合わない細部が切り捨てられ、最も「神的な」性質だけが強調されると、個人による「密かな自慢」(英雄との同一化による)は誇大妄想的になる必要はなくなる。実際、それはむしろ謙虚な方向に向かうだろう。伝説的英雄は、定義上、<超人>だからである。彼は創始者である。後継者が<弱められた形でしかもつ>ことができなかった特徴を持っている。例えば、真に宗教的な人間は「キリストと同じくらい善であろう」という野心はもっていない。キリストの完璧性において彼が分かちもつのは、まさしくそうした野心から自由にしてくれるような要因である。人間の限界内で可能な限りにおいて英雄と近づこうとする。

 

 英雄主義は、「神性の」強調が世俗的なものに移るやいなやその謙虚な性質を失う。世俗的英雄とは、定義上、競うことができ、勝ることさえできる英雄である。それゆえ、英雄主義の理想が世俗化される限りにおいて、喜劇への転換が伴わなければならないと主張するのである。個人的英雄は集団的なものに取って代わられる(この集団に関わり、その伝統を補強する限りにおいて、同じ性質をもつ)。かくして、教会がビザンチンの超然とした姿勢を失うのに応じて、<集団的組織化>にあった<考え方>に強調を置いた「喜劇的」枠組みに向かったのである。「誰でもがそれを読み解釈することができる」よう、聖書の世俗的な言葉への翻訳が最初に提案されたとき、聖職者たちは憤慨した。聖書を解釈する資格のある者などおらず、解釈は集団によって正されねばならないと主張した。さしあたって問題になっていることを見れば、聖職者たちの言っていることは正しい。(もちろん、人々がこの集団的解釈を「奪い取り」、「新たな出発」のための再解釈に用いる場合は除外している。再解釈を支持する者は、楔を打ち込むために必然的に個人的たらざるを得ないので、明らかに疑わしい原理を掲げることで「窮地に追い込まれる」こととなった。)

 

 アイデンティティは、社会構造が「集団的な我々」の葛藤を呼び起こさざるを得ない限りにおいて、「アイデンティティの変化」を含んでいる。こうした必然から、芸術において、様々な再生の儀式化がある。アイデンティティの変化は「隅々を見まわす」一つの方法である。二度目に生まれることは一人の人間でありながら別の人間になることで、連続性と同時に二重性を得ることだからである。そうしたアイデンティティの変化は誰にでも起こる。特に共同性について几帳面に自己形成する人間は、新たな共同性への転換において、いままでのカテゴリーを激しく変える必要があるために鋭くそのことを感じる。※

 

 

*1

 

 

 この共同性の転換から(ある場合は激しく、より微妙な場合もある)、「遠近法」が引きだされる。ある意味で、あらゆる遠近法は「不調和による遠近法」である。というのも、それは「二つの角度から一度に見る」ことによって得られるからである(一眼カメラが平坦なのに対し、立体カメラが二つの異なった焦点をもち、それを合わせることで深みをだすように)。変化は方向の感覚を与える。そこで「予言」が生まれる。トーマス・マンはヨゼフの小説でこの過程を最も「効率的に」象徴化した。

 

段階一:ヨゼフの自己満足的な、夢見がちでふさぎ込んだ様子。

段階二:移行期、穴に投げ込まれる。

段階三:新たな社会的アイデンティティ、「予言する」能力。

 

 こうした予言が集団的な批評によってなされるのでなければ、世俗的英雄をつくりだす危険があることは明らかである。マン自身は、議論の余地をしっかりと守ることによって、個人的に予言者となる誘惑を避けた優れた例である。そして、そのことをしっかりと守り、伝説的なアイデンティティの精妙さを考えることで、完成された「集団的批評」を経た既にある役割との類推によって個人が自分の役割を推し量る可能性を示唆している(伝説の修正過程によって聖書の登場人物が形づくられていくにあたっては、関係のない人物は単に<忘れられる>ことによって排除された。伝説によってできあがった役割は「診断され、創造され、修正された」最終的形である)。

 

 大雑把に言えば、人間は次のような<根拠地>をもとに人間の目的を目指す論理に「同一化する」と言える。つまり、神、自然、共同体(住まい、ギルド、人種等々)、功利性(資本主義、素朴実用主義)、歴史である。<自己>に頼り、ナルシシズムには避けられぬ罰を受けることもある。※

 

 

*2

 

 

 あるいは、次のように問題の領域を分けることもできる。

 

 トーテム的な自己同一化。部族との個人的な関係。小さな原始的共同体で従属が与えられ強いられる魔術的方法。呪術師などによる操作。

 

 カトリック-封建的思考におけるように、「家族的」遠近法がより広い共同性、眼に見えない政治組織によって使われる場合。親密な関係でないものが、親密な関係であるかのように扱われる。聖職者による操作。

 

 議会的。委任された権威への転換。「法廷」的な関係を「家族的」に扱うことの廃棄。しかしながら、通常、多くの親密な関係性はそのまま保持される。政治家による操作。

 

 移行的。主に歴史的目的という考えに基づく(ブルジョア議会的なものは「利益」や「功利性」との連携によって合理化される)。ブルジョアの公的な場における所謂「協力関係」に潜む闘争の明確化に関わる。権威シンボルへの忠誠の姿勢を変えようとするだろう。プロパガンダ(「非公式的な大人向けの教育者」)。

 

 社会体制に潜む経済的不均衡を取り除き、新たな共同的枠組みを確立することで、機会の普遍化を目指す。「立案者たち」による共同作業。理想。喜劇的自己意識。「新カトリック主義」。自由主義の<方法論>によって修正されたイデオロギーの均質化。

 

 ロシアでは、革命の同時性がないことによって、政治<そのもの>とは関係ない様々な問題が持ち上がっている。例えば、ドイツの再軍備化を主張する狂信者はロシアに資本主義の激しい矛盾を課している。というのも、多大な人力と、莫大な資源の浪費が非生産的な仕事、つまり、軍隊の訓練と装備に必要とされるからである。平和の諸基準から判断すると(社会主義経済を判断する適切な検証法)、軍備への莫大な支出は資本主義経済の金利生活者に与えられる「不労所得」とまさしく同じものである。軍隊が戦闘に向けて訓練されねばならず、数百万人がその装備に従事しなければならない限り、建設の事業は抑圧されてしまう。そして、ロシアはヒトラーに蹂躙されるままである以外の選択はないので、軍隊(平和時の生産基準に関する限り金利生活者であり「有閑階級」として<機能する>)をつくり続けざるを得ない。

 

 このことには「精神的な」対応物が欠けているわけではない。「世俗的英雄」という婉曲語法は軍事行動の(そして、軍事行動の準備の)統合的側面である。軍隊がかくも必要とされる所では、とりわけ<威厳のある>ものでなければならない。代理人である「立案者」(喜劇的な共同性に従事する)の代わりに、権威の容器である魔術師的-英雄的存在(喜劇的状況より「優れる」)を得る。

 

 もう一つの矛盾が生じる。平和をつくりだすために充分合理的な線に沿って共同事業に従事していた者たちは、戦争に向かう集団に同一化しなければならない。こうしたパラドックスは真の社会主義的発達の論理を避けがたく歪めてしまうに違いない。我々が尋ねるべきは、こうした歪みをほくそ笑んで見ている者たちが、諸問題が別の手段で取り扱えるようになるまで待っていられるかどうかである。一億六千万の人間からなる事態を調整する方法は、一組の私的な個人を調整する方法ほど融通のきくものではない。一組の個人に切りつめた場合でさえ、手に負えない問題が考えられるのである。

*1:

妻と自分を「ミイラ」、「社会的生活における死人」と表現した男の手紙を見たことがある。子供のなかったこの「共同単位」に新たに子供が生まれ、それに応じて両親にもアイデンティティの再確立の必要が生じた(変化は恐らく男性の方が大きかった、というのも、彼の過去のシンボリズムは「世俗的修道院生活」の強い痕跡を示していたからである)。また、「私の本がまさしくこの秋に、最後のセミコロンで書き終わり--生みだされた」という場合もある。その仕事は数年にわたって取り組んでいたものであり、その完成は彼にとっては大きなアイデンティティの再確立を必要とさせるものだった。「ほとんどなにもせず、誰とも会わず、読書も少なく、ほとんど考えもしなかった」としても不思議ではない。

 また、『ニューヨーク・タイムズ』の1936年12月29日号にはハーバードのH・S・レオナードとH・N・グッドマンが進める新たな「個人計算法」のニュースがのっている。

 「この新たな定式の実際的な適用は現在のところまだ特に価値のあるものではないが、更なる適用が可能だと哲学者は言っている。ハーバートの彼らによって考案された新たな記号と等式を用いることで、論理学者は、幾人かの個人からなる虚構の「全体」をつくりだすことで個人や対象間の関係を記述することができる、と彼らは説明する。

 ジョン、ジェイムズ、アーサーが同じ下宿の仲間だとしよう、と彼らは言う。ジョンとジェイムズ、ジョンとアーサーの関係を数学的に記述する代わりに、レオナードおよびグッドマン博士の方法は、哲学者や数学者に、アーサーとジェイムズを単一の単位と考えることでジョンとアーサーとジェイムズの関係をあらわすことを可能にする。

 数学的に、ある男性の生涯における二人の女性を、あるいは女性の生涯における二人の男性をひとまとめの単位とすることで、新たな哲学的概念が生まれ、『永遠の三角形』を表現することが可能になる、とレオナード博士はつけ加えた。」

 この論理学者たちは、彼らの用語法で、我々が考えているのと同じアイデンティティパラドックスを考えているのではなかろうか。

*2:

自己との同一化と呼ばれるものは、しばしば単にアイデンティティの曖昧さを示している。アイデンティティの曖昧さは、しばしば旅によって象徴化される(実際の移動の場合もあるし、旅行書をあさる場合もある)。我々が言っているのは、いつも移動し、異国で生活するような旅行者のことである。原始的な部族のなかで観察者として生活する人類学者は、通常、彼らとの関係において非常にはっきりとしたアイデンティティをもっている。「学術的集団の一員」として、彼は見物人の役割を保っており、彼が研究している人々がしばしば彼の権威に頼ることで、次第に彼の科学と彼らの生活習慣とが統合されていくことになる(この過程は尊敬と共感があるほど容易になる)。

 近しい知りあいを紹介するときに名前を失念した覚えのある者は、こうした突然の物忘れはアイデンティティについての鋭敏な感受性を示していると自ら慰めることができよう。紹介する瞬間、紹介される者との関係を変え、(状況に合わせて)彼らを見知らぬ者としてみてしまったのである。名前はアイデンティティと密接に関係しているので、紹介する個人について個人的態度を変えることで、名前を掴み損ねてしまったというわけである。

断片蒐集 52 始まりと終わりの神秘

thomas aitizer,The Genesis of God

創世記と黙示録が揃っているというのは、考えてみると不思議な宗教である。生きているあらゆる人間が物語の登場人物たり得るわけである。

ヘーゲルマルクスキルケゴール

 マルクスキルケゴールヘーゲル体系の真の継承者であろう。マルクスは純粋理性を純粋に物質的な土壌の暗黒の神秘に移し換えることによってそれを転倒し、キルケゴールは純粋理性を絶対的に超越的な神という、これも暗黒の神秘に移し換えることで転倒する。彼らそれぞれのヘーゲル的思考の転倒はヘーゲル的方法と純粋否定の運動の絶対的な転倒であり、たとえそうした転倒がヘーゲル的土壌と離れては成り立たないものであり、この土壌から離れるならば消滅がまぬがれないにしても、それにもかかわらずこの転倒はその土壌を無効にするのであり、それは、彼らの転倒は我々の時代においてそれ自身の解体にまで達するからである。この経緯は、純粋な思考の終わりであるのかもしれず、もしこの終わりが黙示であるなら、それ自体、緒言の黙示が転倒を約束されていたという究極的な神秘であり、その究極的な神秘は同時に創世の究極的な神秘である。