トマス・ド・クインシー『自叙伝』

 しかしながら、じっとしているのが不可能だった兄は、残りの生涯をかけて悲劇の開拓に一心不乱に取り組むつもりだと宣言した。即座に仕事に取りかかった。すぐさま「スルタン・セリム」の第一幕ができあがった。しかし、すぐに表題が、韻律を無視して、より獰猛で、髭だらけのターバン姿に似合うと考えられる「スルタン・アムラス」に変更された。我々が個室席を買ってオペラを鑑賞する紳士淑女のように席にくつろいでいることは兄の意図するところではなかった。兄が言うには、我々すべてがオールを漕ぐ必要があった。悲劇を演じるのは我々だった。実際、我々は沢山のオールを漕ぐことになった。沢山の役柄があり、少なくとも四役、未来の海軍将校候補生は六役を演じた。この小さないたずら者の将校君(1)は、スルタン・アムラスに多大な懊悩を与え、第一幕でその六役がばらばらになるよう(つまり、一度に一役の登場になるよう)強いられたのだった。実際、スルタンは、他の面では礼儀正しいが、少々血なまぐさかった。弓の弦や円げつ刀で人数を減らすことから仕事を始め、第一場の終わりにはほとんど登場人物は生き残っていなかった。スルタン・アムラスは具合の悪い立場に追い込まれた。作品は始まったばかりなのに、スルタン以外ほとんど残っていないのである。第二幕のために作者は、デウカリオンとピュラーと同じことを、まったく新たな世代を創造しなければならなかった。この若い世代は、そうあるべきなのにもかかわらず、第一幕の先祖たちに起こったことからなんの教訓も受けていないのは明らかだった。哀れなスルタンが第二幕を通じて全員の処刑をせざるを得ないのだから、彼らはまったく邪悪な存在だったのだと結論しないわけにはいかない。青銅の時代には鉄の時代が続く。悲劇が進むに従い、見通しはますます悲観的になっていった。しかし、ここで作者は躊躇し始める。大虐殺の本能に抗しがたいことを感じる。それは正しいことなのだろうか。早々に首を切られたからといって、そもそもどの悪党が法廷で判決を逆転することができよう。結果は悲惨なものだった。すべての場景に新たな登場人物がいて、新たなプロットが必要となった。人々は古くからの行動を引き継ぐこともできないし、地所のように先祖の動機を受け継ぐこともできないのである。事実、五種類の作物がそれぞれ異なった悲劇から刈り取られねば成らず、結局のところ、一つの劇に五本の悲劇が含まれることになったのである。

 

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*1:(1)「将校君」:————混乱を避けるのと、将来を見越して私は彼をこう呼ぶ。この時期に海軍で奉公するには若すぎる。後に、長年の間努め、海軍にあるあらゆる種類の船、あらゆる種類の仕事を体験することになる。一度、まだ少年と言っていい頃、海賊に捕えられ、一緒に航海させられたこともある。冒険に満ちた経歴の最後には、大西洋の底に長きにわたり横たわることになる。