ケネス・バーク「特殊詩学、一般言語」 6

VI

 

 この稿を終えるにあたって、一つのあり得べき誤解について注意しておくべきだろう。言語の四つの領域について述べたとき(論理的あるいは文法的、修辞的、詩的、倫理的)、私は無意識のうちに、詩的動機の領域が主要な動機づけの力からは外れているような印象を与えたかもしれない。

 

 まったく反対である。すでに見たように、詩的動機の本質はまさしく最初の引用、ポオが詩の「対象」を「至高性、あるいは完璧」においていることに示されている。実際、詩的動機づけは、各部分が他の部分と完璧な関係性を保っているような作品を生みだそうとするときにもっとも明らかなように、完全性の原理の筆頭にくるものだ。

 

 しかし、完全性の原理はあまり単純な意味にとるべきではない。完全な愚者、完全な悪党を語るときのように、アイロニカルな表現としても用いるべきだ。この意味において、世界が混乱に満ちている限りにおいて、完全性への動機づけは詩や詩学を超えて広がるだろう。一方それはユートピアの約束として、様々な範囲の理想を示す。他方において、それは何らかの理由によって完全な悪党、完全な敵、報復のための完全な犠牲者となり得るような人間を捜す傾向につながることもあろう。詩的動機がこのようなアイロニカルで多様なあらわれ方をする完全性と結びつくと、それはまさしく象徴性の根にあるということになる。

 

 この本のあとで、とりわけ考えてみたいのは、シンボル体系を用いる人間特有の剛勇が何らかの形での理想的犠牲者、完全なスケープゴートを捜そうとするのはどうしてかということだ。第五章の「コリオレナース、内紛の喜び」では、この観点から、シェイクスピアのグロテスクな犠牲の劇を分析し、この犠牲が観客によって模倣、あるいは象徴的演技として同情をもって参加されることで治癒的(下剤的、カタルシス的)効果を上げることを示そう。

 

 シェイクスピアと同じくギリシャ悲劇においても、完全な犠牲の原理(ある劇的状況にとって完璧な犠牲者)は純粋に模倣によって演じられた。理想的な詩的「完全性」あるいは「至高性」を巡ってつくられたポオの悲劇的叙情詩にも同様の特徴があり、それがもっとも簡潔にあらわされているのが「美しい女性の死は、間違いなく、世界のなかでもっとも詩的なものである」という一節だ。ローマの競技場はこの原理を、文字通りの犠牲として現実のものとしていた。我々の新しいメディアはその中間的な段階にあり、ローマの競技場のように故意に実際の犠牲者を祭り上げて我々を楽しませようとはしないが、少なくともドキュメンタリーでは、災害が現実の犠牲者を生みだしていることを我々に確かめさせる。そしてもちろん、キリスト教は完全な犠牲者である王の物語をもとに成り立っている。

 

 しかしながら、犠牲の原理を厳密に人間的な形に制限することは間違っているだろう。動物だけでなく、無機的な自然でさえもある状況下においては「完全な犠牲者」として役立ちうる。たとえば、「ブルドーザーのメンタリティ」をもつ技術者がいたとすると、大聖堂のように荘厳な巨木を破壊して地面をならしていくことができないなら幸福を感じられないだろう。そして、言葉もまたジェイムズ・ジョイスの後期の作品、あるいはルイス・キャロルの不思議の国のように切り刻むことによって「犠牲」たり得るのだ。

 

 カリフォルニアはサンタ・バーバラの「客観的」犠牲の「報告」をもってこの文章を終えよう。



炎の破局についての叫び

(物事をあるがまま、単なる肯定で見るために)

 

演奏をはじめよ————みんな同じことをすればいい

だがなにを。

 

夜のなか黙示録的な輝きと噴出をともなった

炎が峡谷のとなりで燃えあがっては治まり————

火山からの嘔吐物のように、灰が我々に降りかかる

 

空は燃え立つようで

乾ききったヴェスヴィオスの灰の雨が我々すべてを取り巻いている

 

山腹を赤く染める空にすべく

なされうることを君は理解するべきだ

 

乾ききった斜面は燃え立つように優しく

至極微かな手触りを生みだしている

————揺らめく炎

 

より晦渋な問題のなかには

蛇たちや燃え立つ鹿に侵入された

国境を数えること

 

一事が万事をなすごとく

火炎が放火によるならば

哀れな願いは爆発とともに終わりとなったに違いない

代理人が代わってくれているのを知ったとき

この奇妙な生き物になにが起きるか

 

私の倹約精神は踏みにじられた(休止)

空全体を吹き渡る災厄には

壮麗さがあったことは認めよう(休止)

その限りにおいて私は

燃え立つものの近縁なのだ

 

囓りつけ

こそこそと

元気づけるために病的なことから

すべて始めることを私は恐れる

むしろここでは

想像力の欠如から始めよう

我々のうちの誰かが

こんな状況で一本のマッチを落とすと

なにがなにを生みだすのか

あらかじめ見て取ることもできない

スーパーマーケットで箱買いできるものの

どれだけ熱心に試みても

火ひとつ起こせないような馬鹿者を除き(休止)

 

古き良きごく普通のDummheitのようであり

常に我々とともにある

人間の最悪の敵

(休止、もし可能なら)

 

           (野火のように山に広がり高くつく火事についての考察)

 

 



注解

 

 後出のエッセイ「神話、詩、哲学」はこの主題を別の角度から論じている。そこでは、古代ギリシャの「戦闘の神話」を時間的地理的起源によって説明するやり方が、純粋に詩的「諸原理」からの「派生」による説明と対照されている。「論理的」先行と「時間的」先行の相違(その中間にプラトン的な原型がある)についての完全な形については『宗教の修辞学』の「創世記最初の三章」の部分を特に参照のこと。

 

 「方法論的考察」に関して、我々の戦術は次のようにすべきだ。

 詩学の諸規則を方法の理論と同じくらい厳密にするには次のようにすることになろう。それに従い、二つのよい結果が続くことになろう。第一に、詩としての詩の研究はできる限り正確なものとなろう。(たとえば、現在文学のテクスト分析として分類されている密接な分析の多くは、文学的種としての作品の明示的な定義において弱いがゆえに、詩学の要求に完全に応えてはいない。)第二に、こうした厳密な規則そのものが、象徴的行為である詩の十全な性質を人文学的にも探求しようとすれば、詩学のみで作品を研究することが十分でないことをわからせる助けとなるからだ。

 

 方法を目指すには、三つのまったく異なる手順を混同してはならない。(1)ある作品について言える、それ自体において考えられることだけを言うこと。(2)著者、その時代などとの関連においてその作品について言えることをすべて言うこと。(3)第一の検証を経ることが(詩としての作品に内在するものを論ずること)第二の観察(著者や背景といった非詩的な諸要素との可能な関連性を考慮すること)にもつながること。実際には、第一の種類の批評として通っている多くのものが第二種の批評を密かに持ち込んでいる。しかし、「無法な」要素というものは、しばしば散発的で非組織的であるために探索を逃れることがある。あるいはその性質の存在が単に否認されることで著者、読者の双方から隠されていることもあり得る(フォークナーについてのブルックスの著作にお馴染みなものだ)。テキストについての真に人文主義的な考察は、両方の分析が主題の許すかぎりできるだけ体系的になされるときに初めて可能となる。

 

 こうした用法上の状況に正確に対応できていないために、文学の文学批評の過程は、偉大なテキストは彼らが教えられるだけのことを教えているのだという巧妙な主張によって導かれているかのようなのだ。できる限りマルクス主義とは異なった種類の批評を得ようとする試みによって誤りは更に大きなものとなることもあると私は疑ってもいる。つまり、マルクス主義が文学作品とそれが生じてくる非文学的な文脈との関係に大きな関心を抱いているので、フォーマリスムは、そうした考察が詩学(あるいはより一般的には美学)という特殊な領域から除外されるばかりでなく、テキストについてのそうした考察はいかなる状況においても議論にそぐわない問題として完全に排除されるべきだという正反対の要求をあげるのである。

 

 マルクス主義には多くの欠点があり、そのもっとも明らかな例はマルクス主義についての批評が貧弱であることだ。しかし、イギリスの経済学とフランスの政治学を生みだしたドイツ哲学と同様、それにはまた多くの長所がある。それを完全に捨て去ることは知性の大きな犠牲のもとでしかあり得ない(この犠牲を我々の同僚の多くは喜んでしようとしているように見えるのだが)。

 

 詩学によるテキストの研究は、作品をあたかも作者不明のものとして(作者の人間性への言及に関する限り)扱うべきだという考えに私は与するが、同じく、象徴的行動一般についての問題も問われるべきであること、そうした問題への解答は、それについての情報が入手可能である限りは、作品と作者、および作者を巡る環境との関係を含むべきであることを私は主張するだろう。

 

 ちなみに、詩学が著者の人間性を除外視して作品を考慮すべきだと言うとき、作品がそれ自体においてある種の「人間性」を明らかにしているとは論じられないと言おうとしてるのではない

 

 認められること。作品をそれがエッセイであるか、物語か、頌歌か、バラードかなどと分類化し、決定しようとすることにいらいらする者もいるかもしれない。そうしたレッテル貼りは、十分な定義とそれに対応した規則の裏づけがなければ価値あるものとはならない――そうした批判的正確さの要求は、少なくとも原則として、多種多様な形式的(あるいは形式などない!)実験が歓迎されている現代の状況では特に、いらだたしいものとなり得る。(芸術における実験的態度あるいは「方法主義」は、現在の科学とそれに特徴的なテクノロジー的精神病質の反映であるかもしれない。)

 

 だが、ある形式を定義することに失敗することにおいて、実際にはアリストテレス以降の衒学家たちが、ギリシャ悲劇と叙事詩アリストテレスが見いだした規則を、そうした検証によって判断すべきではない作品に慎重に当てはめようとして犯したような批判的過ちに陥り得るということは皮肉な事実である。たとえば、叙事詩と見せかけだけの叙事詩とを正確に区別することに失敗するとは、ジョイスの『ユリシーズ』の批評基準を『イリアード』にのみ正当なものとする結果をもたらすこともあり得る。この点において、その種類とその種類に固有の規則でもって作品を考えることに失敗するとは、結果的に、アリストテレスが述べたような企図がない形式に彼の『詩学』の基準を自動的に当てはめてしまうプロクルステスの寝床のようなことになりかねない。(同じような誤謬は、『セールスマンの死』のような戯曲が「真の」悲劇であるかどうか論じる場合にもあらわれるもので、悲劇という言葉を古代アテネの戯曲にのみ使うとすれば、それはまったく悲劇ではないことになる。)

 

 かくして、現代の諸形式についてのよい定義というものが通常得難いものであるにしても(そうした経緯をけちけちと書き綴るような批評も考えられる)、批評家が認めたがる二つのこと、理想には届いていないと言うこととそうした努力に煩わされるべきではないという主張には顕著な相違がある。懺悔を叫ぶ真の信者と別の宗派にいるスティーブン・ディーダラスのように、誇りをもって礼拝などいらぬと宣言する頑なな罪人には顕著な相違がある。

 

 現代の良い批評の多くは、詩的カテゴリーを定義することには関わらないクローチェ流美学の印のもとにある。だが、最終的な分析において、批評家はその作品が正確にどんな種類のものであるか特定することなしに、作品の中核をつかむことはできないのだ。確かに、批評家の観察は、定義への言及がなくとも言わず語らずのうちに正しいこともあり得る。しかしたとえそうであっても、それは批評家のごまかしでしかない。というのも、彼の仕事は結局のところ物事を明らかにすることにあるのだから。

 

 エッセイの最期にある暴力の「ニュース」、詩の形で「報告された」ものは、1964年の秋、この文章が最初に発表されたときより前、サンタ・バーバラのカリフォルニア大学の聴衆にはよく知られていた悲惨な山火事のことである。