ケネス・バーク「特殊詩学、一般言語」 5
V
詩人と批評家の関係という問題については(詩と詩学との関係に潜む問題でもある)、もともと私はまったく異なった分野からの引用でこのエッセイを始めようと考えていた、音楽についてのボエティウスの言である。(E・K・ランドの『中世の創設者』からものである。)ボエティウスは音楽家のなかから演奏者を除外する、というのは彼らは奴隷であり、命令に従っているだけだからだ。作曲者も、霊感を受けているだけだから除外され、ミューズだけがすべてに責任がある。そして批評家が存在する。「批評家が働かすのは理性と哲学であり、奏法とリズム、メロディーとその組み合わせの多様性について、つまり後に第二巻で扱うようなあらゆる事柄について精通しているがゆえに、彼らだけが真の音楽家なのだ。」
交渉の手始めとしてはいい地点だろう、というのも現代の批評家でこれほど多くを求める者はいないだろうからだ。私が要求するのは、オリジナルな詩を典拠の確かな直感として扱い、批評家はそれをそれに応じた諸原則や諸特質をもったある種の詩の性質に翻訳する、ということである。こうした手続きは、例えおのおの詩を、トマス哲学の天使のように、その種にあるただ一つのものとするだけに終わったとしても有益なものとなり得る。詩を詳しく調べることで、批評家はその諸原則を定式化できよう。その過程を逆転し、事後の予言のような形で、諸原則から詩が「導きだされた」、あるいは「派生した」と見ることで自分の定式を検証しもしよう。可能な限り、批評家の定式は詩学の言葉でなされよう。つまり、理想的には、何らかの理由によって批評家が一貫しない仕事をしているのではない限り、すべては詩学の言葉で説明可能であるべきだ。
しかし、この地点で、我々はこの話題で最初に考慮したことに連れ戻される。批評家が詩を詩学の言葉だけで完璧に論じようとするとき、詩が詩学の用語による分析だけでなく、言語一般の一例として、広範囲にわたる「象徴性」の一つとして分析されることを要求するような地点があると認めざるを得ない。別の言い方をすると、詩を純粋にある詩人の産物として論じようとすることは、結果的には、その詩がある市民の、納税者の、様々な社会的弱者の、身体的病者の、精神異常者の産物として分析せねばならなくなるような点を鋭く知らせることにもなる。
図式は誰にでも当てはまる。だが方法論的にそうなのである。
それでは我々はどこにたどり着いたのだろうか。ポオが自作の「大鴉」を書いたときのこと、特に叙情詩にとって「もっとも詩的な題材」は美しい女性の死だと書いた一節を出発点として、我々はそれが「由来する」のは詩学であるのか精神医学であるのかためらいがちに考えてきた。このことから、詩は一編の詩としても、あるいは言語一般の一例としても分析できるという事実を含む第一の問題に行き着いた。詩と批評家の関係に議論は進み、批評の問題として、批評家が詩的原理を定式化しても詩人を非難し法的に規制するようなことが避けられることを示唆した。この批評家の役割についての概念は、諸原理の論理的先行性が間違って時間的先行性に置き換えられがちだという考察に向かった。この区別はポオのエッセイを再解釈するのに有益で、重点をちょっと変えることで、それは批評家の理想的な手順を示したものとして扱うことができた。更に、詩に厳密に詩学の言葉で取り組もうとする厳正さには、より異なった、あるいはより広範囲にわたる用語が必要にされるときのある種の「動揺」を明らかにするのに役立ったのだった。