ケネス・バーク「特殊詩学、一般言語」 4

IV

 

 「諸原則」という考えには顕著な逆説がある。ある種の詩に具現化されている諸原則は、批評家によっても、批評家の役割を演じている詩人によっても決して適切に定式化されたことはなかった(数多くの原始的な言語が、そこに内在する文法規則を明示される前に生きられ、死に絶えるように)。そして、ある批評家がある詩の種の諸原則を定式化するときはいつでも、必然的にそうした詩がすでに生みだされていないにしても、をあげて説明せざるを得ない。(時折、文学的宣言のような批評的幻想、力業があらわれる————しかし、そうした予言的身振りは、単に批評家が詩を書くための方法なのだ。)詩と詩学との関係を示す偉大な古典的例は、もちろん、アリストテレスギリシャ悲劇の分析であり、この形式が完成(あるいは「集結」)を迎え、それ以上発達しなくなってから行なわれた。

 

 だが、詩学の諸原則が詩がすでに生みだされたあとに定式化されるにしても、それら諸原則はそれが具体化されている詩に「先行する」ものとして扱うことができる。諸原則は「論理的に先行している」という意味において「先行」している。「諸原則」という言葉自体が、ラテン語の「第一」をあらわす言葉からきていることを銘記する必要がある。たとえば、聖書のラテン語版では創世記の初めの言葉「はじめに」はin principioである。この両義的な意味においては、詩人の実践が決定を含み、決定が諸原則を含むかぎりにおいて、その実作を内々のうちに導いている諸原則は、それらが具体化された詩よりも「論理的に先行」している。この意味において、詩学の諸原則はそれらを例証する詩に論理的に先行するものとして扱うことができ、アリストテレスギリシャ悲劇を詩学に還元し、言語が文法として規範化される場合のように、時間的に遅れて定式化されるにしてもそうなのだ

 

 こうした考察が、ポオのエッセイ「構成の哲学」についてもう一つ別の見方を与えてくれる。この例をできるだけ完全なものにするために、ポオが「大鴉」を実際どのように書いたのかについてエッセイに書かれていることは全くの嘘だとしよう。実際には、ポオが書いているような演繹的な方法に従う詩人がいたとしたら、ポオこそはそれにもっともふさわしい詩人であろう。というのも、「論理的な物語」(「黄金虫」のような)については、その多くがそうした方法によって組み立てられていることが明らかだからだ。そうした物語を組み立てるのにそれ以外の方法はないからである。著者は順序を逆にし、解決からはじめ、予定された解決から実際の物語では最初にくる問題を導きだし、解決がそれにふさわしい終結を向かえるようにする。「ポエトリー」の1961年10月に掲載されたこの問題についての論文で、私は次のようなアナロジーを用いた。

 

フーディーニは逃げるための諸条件を先に設置するのではない。むしろ、逃走できる仕掛けを思いつき、次にそうした逃走を可能にする正確な条件と制限を描きだす。つまり、大団円についてのアイデアからそこに至る複雑な状況のアイデアを導きだすのだ。

 

 

 

 こうしたことを心にとめておいて、たとえば、ポオが、最初は鸚鵡を使おうと思っていたのに、後にその個別な詩の規範からいえば「鸚鵡」よりよい言葉だと思われる「大鴉」をもってそれに代えたのではないと仮定しよう。そして、「最早ない」という繰り返しをエッセイで理由づけているような音の効果についての理論から選んだのではないとしてみよう。実際に起こったのは、すでに幾つかの関係づけが行なわれており、ポオがそれにしたがって詩を作り始めたのだとしよう。つまり、部屋でいまはなき恋人を思い悲しむなか不吉な大鴉が侵入する詩で、次のような強弱格と強弱弱格で物語られる。

 

Dumpty Dumpty Dumpty Dumpty—Dumpty Dumpty Dumpty

  Dumpty

Dumpty Dumpty Dumpty Dumpty—Dumpty Dumpty Dum

 

 

すなわち

 

嘗てもの寂しい真夜中に、人の忘れた古い科学を書きしるした、

数々の珍しい書物の上に眼を通し、心も弱く疲れはてて————

思わずもうとうととまどろみかけたその時に、ふと、こつこつと叩く音、

誰やらがそっとノックする音のよう、私の部屋のとをひびかせて。

       ただそれだけのこと、ほかにはない。

 

 

 このようなひとまとまりの考えが最初からすでに何らかの形で一緒くたになっており、彼に示唆されていたことは十分に考えられる。少なくとも、一般的に言って、幾つかの事柄がすでに一緒になっているゆえに詩人がそのテーマに赴くというのはありがちなことだ————そして、それらに行き渡っている無時間的な関係を展開し、順序よく明らかにする方法を彼は理解、あるいは漠然と感じ取っている。

 

 いずれにしろ、詩人の手順についてのポオの考察が完全な嘘だと仮定したとしても、詩とその構成の諸原則の関係づけについて、彼のエッセイが批評家が従うべき理想的な手順に非常に近づいていると言いたい。唯一の難点は、言語の包括的な本性に関して、事例を正確に定式化してはいないことにある。

 

 ポオが生きていた時代は、極度に歴史主義的な強調がなされており(とりわけダーウィンの世紀であった)、それが彼の問題の述べ方にも悪い誘惑として働いている。十九世紀には(それに今日でも我々がいまだこの世紀の残り物のうちに生活している限りにおいては)、自発的なものは常に時間的に先行する本質、あるいは論理的優先権として扱われるのが常であった。かくして、表現の歴史主義的なスタイルから、詩と詩的原理の実際の関係が実は時間的ではないにしても、それを疑似時間的、あるいは疑似叙述的なものとして述べざるを得なかった。構成の原理が論理的先行性として「第一にくる」。そうした定式は、時間的順序という意味で最初にくるかもしれないしこないかもしれない、どちらかと言えばこない方が多いだろう。この世紀においてもっとも典型的な用語上の誘惑に負けたポオは、彼の指導原理のすべてを時間的優先性のもとに示したのだ。第一に、彼はこの決断をした、次にこれを、その次にこれをと時間順に従う。「あらゆる人間は死ぬ、ソクラテスは人間である、それゆえソクラテスは死ぬ」と続く三段論法のようなものであっても、我々は前提を昨日に、第二前提を今日に、結論を明日に位置づけようとする。

 

 私が歴史について何ら不公平な態度をとろうとしているわけでないことはここで申し述べておこう。私に関する限り、歴史の現実性や重要性を否定することは明らかにばかげたことである。そして私は、もしテキストをそれが生じた時代のことを考慮して解釈しないなら、それら個々の一節の意味をの多くを生き生きと読み解けないだろうというクローチェの忠告に強く賛意を表するものである。多くの例において、もし我々がある文章が生じた際の歴史のことをしならないなら、結果的に我々は「前の文字が消え残る羊皮紙」をつくりあげることになる、というクローチェの独創的な考えを熱意をもって支持したい。つまり、我々はそれ以前のテキストの上にそれ以後のテクストを書き加えるのであり、それによって以前のテキストの意味を見て取ることが困難になる。ここで私が支持しようとする理論には何らえこひいきなところはない。我々の研究対象に十分な光を投げかけるには、あらゆる種類の取り組み方が必要なのだ。かくして、ある特殊な適用の仕方による「歴史主義」を批評するからといって、歴史主義の原理そのものをなしにしようとしているのではない。私が主張しているのは、派生について時間的、あるいは叙述的に考えることが、この特殊な問題については間違っているということだけなのだ。

 

 そして、もし我々がポオの詩作の手順を正しく斟酌するなら、批評家の義務が明らかになろう(詩学の観点から見た)。というのも、批評家はある個別の詩の流派を研究した後に諸原則を打ち立てることができ、詩を、あたかも明示され定式化された特殊な方法に従って書かれたかのように見ることで、原則との関連性を指摘できるからだ。

 

 枚数の関係で少ししか触れられないが、見事な例をあげることができる。J・W・マッケイルの『今日の世界におけるヴェルギリウスの意味』のなかの一節である。そこで著者は、『アエイネス』の本性について、その詩が何であるかではなく、何であるべきかを強調している(あたかも、批評家たちの意味づけとともに、その詩が現在も書き続けられているように)。だが、彼は『アエイネス』が実際にどんな種類の詩であるかを正確に「位置づけている」。その方法をもっとも端的に示す箇所をあげてみよう。

 

 この作品は国民的詩であらねばならない。・・・ローマとイタリアの活発な相互関係を確立し正当化しなければならない。・・・ローマや新しい国とギリシャ文明とを結びつけねばならない。・・・前景にローマとカルタゴとの歴史的抗争をうまく描きこまねばならない。・・・英雄たちの偉業を賞賛せねばならない。・・・愛と冒険という二つの主要な領域においてロマン的精神の表現を見いださねばならない。・・・新たな政治体制を称揚せねばならない。

 

 

 こうした十二の「特殊化」は詩の遙かあとに書かれたものだが、あたかも詩の以前に定式化されていたように、批評家の命令に詩がいまだ答え続けているかのようにあらわされている。この方法によって、批評家は詩の性質を明確に指摘する。だが彼はこの定式によって、詩人を「法的に拘束している」と非難されることはなかろう。これこそ、ポオのエッセイがつかみかけたたぐいの「先行」であり、不必要な時間的順序に従った提示によって失われたものである。