ケネス・バーク『動機の修辞学』 6

.. 変容のイメージ化

 

 もう一つのやっかいの種を加えることで、事態を明確化できる要素をつけ加えることにもなる。今度は、同じ「歴史の曲線」に属するコールリッジの「宗教的瞑想」からである。

 

     彼の巨大な一族には

無傷のものを傷つけるカインは存在せず(その狙い澄ました一撃も

勝利を叫ぶ殺人者を盲目な自殺者にするだけ)。

 

 

この発言は、殺人と自殺が交換可能で、それぞれがそれぞれの仕方で同じモチーフのイメージとなる地点を示唆している。引用個所は、<教義的な>詩からのもので、(会話体詩と呼んだものの一つ「正しさについての講話」semoni propriora)他の三つの詩と類似しているところはまったくない。しかし、他の詩のように動機づけを複雑にする劇的な変容を欠いているにせよ、行き過ぎた効率化によって「主意」に還元するようなことは避けるべきで、というのも、ここには少なくとも、通常は互いに相反すると考えられているものを交換可能なモチーフに変える弁証法やイロニーがあるからである。実際、ここでの語は等価値で、「盲目な自殺者を勝利を叫ぶ殺人者にするだけ」と逆方向に読むことも可能なのである。かくして、殺人の形象によって自殺を象徴化した詩だとも、自殺の形象によって殺人を象徴化した詩だとも考えることができる。そして、ここまで来たなら、考察を完成するためにもう一歩進む必要がある。正確に一方か他方かというのではなく、曖昧に両者を含むことができるようなモチーフ、<二つの選択の共通の土壌となりうるようなモチーフ>を探す必要がある。

 

 双方の関係の土壌となるに足る関係は、同時に、それらを「越える」ものとなるだろう。例えば、敵対関係にある競争者同士が戦いに加わることを許す戦場は、その土地の状況が偶然一方に利することがあるかもしれないが、党派を「越え」、彼らの動機に関して「上位」に、「中立」にある。戦争の<諸原則>そのものは好戦的でなく、最終的には物理学と弁証法の普遍的原則に還元される。同様に、ある詩人の殺人や自殺の形象への同一化は、どちらか一方に与するというのではなく、「中立な」見地から、単に<一般的な変容>についての関心から発している。

 

 弁証法の資源をかくも広く考えると、もちろん、我々は特定のイメージについての悪意などは無視してしまう。ある特殊な変容を分析しなければならないときには、これは非常にまずいことである。しかし、一般的な変容を考えるときには、多くの異なった種類のイメージが同じ働きをできる点を強調できる。人には好む形象があり、上昇への道と下降への道、あるいは横断や帰還の、流浪と帰郷の、曲がりくねったものと真っ直ぐなもの、出ていくことに後戻りすること、内へ向かう運動と外へ向かう運動、あるいは季節の変化、あるいは昼と夜、暖かさと冷たさ、肯定と否定、失うことと見いだすこと、緩めることと縛ることといった多様な対立物があり、それらは単に静的に対立しているのではなく、現実の詩的な文脈のなかでは、通常、一方のモチーフ<から>他方のモチーフ<への>展開をあらわす。思いつくままに選んだこれらの関係は、一般的な変容の過程において特定され特殊化される異なったイメージの組を示唆している。

 

 例えば、『ヘンリー・アダムズの教育』は個人的イメージから非個人的なイメージへの転換によって起こる儀式的変容を例証している。「父親を捜し求める」(つまり、新たな動機づけの原則との同一化を求めること)という研究者の生活は、アダムズ一家の一員として、自身の十八世紀的な性格を捨て去り、彼が自分で解釈するところの現代の歴史の諸条件に自身を適応させることになろう。かくして、儀式的変容はまたある意味で一種の自己犠牲である。しかし、アーノルドのエンペドクレスのように、母胎である火山のなかに飛び込むかわりに、アダムズは歴史の流れに身を委ねる方法を考えだし、非個人的な力に同一化することになる(彼の同一化による変容はかくして脱個人化の儀式である)。すなわち、アダムズの「歴史の加速の法則」は、象徴的観点から考えると、学説や「教育的」用語のために表現が間接的にはなっているが、<下降のイメージ化>以外のなにものでもない。著作の性質上制限はあるが、加速する速度で落下する物体と厳密に対応する「法則」を最終的に表明するとき、それは、マシュー・アーノルドがエンペドクレスの自殺で表現した宇宙的深淵への跳躍をそれなりの仕方で表現しているのである。

 

 変容の過程を具体化するために用いることのできるイメージの範囲は詩人それぞれの想像力と創意による限界があるだけである。しかし、生存の性格上、幾つかのイメージが偏愛されることがあり——とりわけ偏愛されるのが、当然のことながら、生と死、その変形である生れること、再生すること、死ぬこと、殺すこと、殺されることである。では、ある詩人が、生と死の形象を用いた関係を選んで、ある特殊な変容の形象に同一化しようとしていると仮定しよう。自分のなかにある悪の痕跡の変容を象徴化した詩を書こうとしている詩人を考えることは容易にできる。この詩において彼が同一化するのは、悪が刻印されてはいるが、命をかけて、儀式的にその痕跡を変容しようとする人物である。(すなわち、この虚構の人物がなにか顕著な悪徳をもっていて、その悪徳に対する判決として自らを滅ぼすなら、こうした自殺の形象は詩人が自身の悪徳を除く、あるいは悪徳と同一化した上で死の尊厳によってそれを浄化する儀式的手段たり得るのである。)あるいは、別の詩人だったら、この悪徳を「外部の敵」に想像的に割り当て、その敵を想像的に滅ぼすことによって同じ変容を象徴化するかもしれない。第三の詩人は、自身をこの悪徳をもつ人物とし、それを討ち滅ぼす敵を想像するかもしれない。文体の上でこの変容がどのようなものだろうと(賞賛によるのか、浄化によるのか、殉教によるのか、等々)、悪の痕跡は、こと独創的な詩人に関する限り、まったくそれに「異質な」原則によって「滅ぼされる」ようなことはない。争いはある動機の別の動機との争いによって象徴化されることが多いが、<どちらの>原則も詩人を強く特徴づけているものである。(例えば、以前『歴史への姿勢』で論じたが、『カテドラルの殺人』で象徴化されているT・S・エリオットの批評的「自己」と詩人的「自己」との間の「殺人的なまでの」関係を考えてみよ)同様に、ある原則が母親、父親、子供、専制君主、王に体現されており、それらの見かけのもとに儀式的な変容が行われるとき、我々はそれぞれ、母親殺し、父親殺し、子供殺し、君主殺し、王殺しを得ることにもなろう。ナチスは、すべてのユダヤ人を選ばれた人間として<変容させ>、その「科学的」変形である大量虐殺を行った。精神分析家が頻繁に調査結果として提示する、家族の誰かを敵対のためか、挫折した愛あるいは愛の裏返しとして殺そうとする「無意識の」欲望は、間違ったところが強調されている。誰かを「殺したいという欲望」は、その人間が<あらわしている><原則を変容しようとする>欲望だと分析したほうがより正確である。