ケネス・バーク『動機の修辞学』 11

.. 同一化

 

 我々は『闘士サムソン』が「利用」したもののなかから、神の敵を殲滅するために自らの身を滅ぼした盲目の巨人への詩人の同一化について考えた。そして、ピューリタンイスラエル人、王党派とペリシテ人の同一視を認め、そうした同一視はある種の儀式的な歴史記述であり、そこで詩人は聖書の物語を暗にほのめかすことで、「実質的に」一度は打ち負かされた彼の党派の勝利を予言することができる。我々はより複雑な種類の同一化に行きついた。ここで、詩人は一つのモチーフを拡大あるいは完成させ、悲劇的に純化された、或は超越的なものとして呈示している。死の形象はモチーフを<究極的な>ものに還元し、劇において、事物の本性をその種に固有の成就、成熟、理想的達成によって分類する「エンテレケイア」に対応している。

 

 この観点から見るとき、殺害(自己の殺害であれた人の殺害であれ)の形象は同一化一般の特殊な例に過ぎないと考えるべきである。別の言い方をすると、殺害の形象は変容の一つの特殊な例であり、変容は<同一化>の観念と形象を含む。すなわち、なにものかを<殺す>ことはそれを<変える>ことであり、変化の前後の性質について述べることはそれに<同一化する>ことである。

 

 多分、我々がここで行っていることを手っ取り早く明確にするには、これらのつくりだす違いを示すのがいいだろう。悲劇詩人が殺害をモチーフとするとき、「彼らは本質的には殺人者だ」と推論できるかもしれない。あるいは、「彼らは本質的に同一化する者だ」と推論するかもしれない。同一化一般のもちうる関係は殺害のもちうる関係よりも範囲が広い。我々はレトリックをより広い範囲のものに帰し、より狭い方はその一つの種とすることを提案する。我々が殺害の挿話から始めたのは、悪態、議論、論争、用語論争がレトリックのある側面だと公言されているからである。しかし、弁証法的仕掛け(より高度な普遍性に転換するための)を利用することで、この形象をしっかりと視野に留めながらもその狭い含意を乗り越えることが可能になった。修辞学的表現に特徴的なモチーフに争い、憎悪、党派争いがあることは決して否定する必要はない。それらが人間関係のなかで強い力を及ぼし、偏在していることから眼をそむける必要はない。そうした争いへの誘惑が、人間関係を条件づける制度にどれだけ強く根ざしたものであるか、常に油断なく見張ることもできる。だが、同時に、我々はそれを越えた同一化一般の原則を見ることができ、そのことは愛による同一化もまた修辞的表現に特徴的なものであることによって正当化される。我々はざっくばらんであったほうがいい、納得させるにはいたらないかもしれないが、少なくとも、この本のもう一つの重要な目的には役立とう。それは術語の戦略的供給源をあらわにすることにある。ざっくばらんとはこういうことである。言葉の選択によって、我々は「戦争」を「<平和の特殊例>」として扱うこともできる——それ自体において重要なモチーフ、<本質的な>現実ではなく、単なる<派生的>状態、<誤用>としてである。