ブラッドリー『仮象と実在』 132

...[II.しかし、我々ははたして直接的経験を超越できるだろうか。この私こそが「唯一無二」ではないか。いいや、それは「排他的」ではなく、我々は超越することを余儀なくされる。]

 

 まず我々は、直接的経験の限界に留まることができるのかどうか、調べてみるべきである。さて、なにが直接我々に与えられて《いる》のか指摘するのは容易ではなかろう。なにが「これ」には組み込まれ《ない》のか、或はともかくも、超越によってそこへと変化しないのか、示すことは困難だろう。過去に限って言っても、現前の正確な限界は非常に困難なことがあり得る。現在において大目に見ても、理想的な結果を得ることは、不可能であることが少なく見積もってもしばしばはある。しかし、私はこのことを根拠に反論しようとは思わない。ここでは直接的経験と間接的経験との区別を認めることで満足である。問題は、実在が直接的経験を越えることが可能であるかどうかである。この瞬間実際に感じていることを別にして、なにかが存在するということに正当性はあるだろうか。他方において、実在を直接的現前と同一視することは可能であろうか。

 

 既に見たように、この同一視は不可能である。そして、単なる「これ」の範囲に留まろうとする試みは希望がない。内容の自己矛盾、自らの限界を超える「なに」との連続性が一度に問題を解決する。我々は変化の強い衝撃を下されてたじろぐ必要はない。精神の全活動は、単なる「これ」からの解放を含んでいる。その内容を実在と主張することはすぐに我々を矛盾へと巻込む。しかし、この点にこれ以上拘るのは有益ではなかろう。現前に留まることは擁護できるものでもなければ、可能でもない。我々は必然性により、論理によりそれを超越することを余儀なくされる(第十五章、十九章)。

 

 しかし、この超越が我々をどこに連れていくのか問う前に、以前(第十九章)に気づいていた疑問を扱おう。感じられるものの《唯一無二》を根拠とした反論があり得る。「これ-私のもの」としてあらわれる実在は唯一無二で排他的なものだと主張される。それゆえ、それを述するものがなにを要求しようが、主語となるものの範囲を超えることは可能ではない。つまり、永久に現前の限界から出る希望がないままとなろう。この論点を調べてみよう。

 

 第一に、「唯一無二」という言葉は取り除いた方が便利である。というのも、それは(既に見たように)一つの系列における存在の観念と、他の要素に対する否定的関係とを導き入れてしまうようだからである。そうした関係が「これ」の本質にあるとするなら、そのとき「これ」はより大きな統一の一部となる。

 

 反論は次のようによりうまく言い直すことができる。「すべての実在は与えられたものの制限のうちにあらねばならない。というのも、いかにその内容が現前を越えることを望むにしろ、その内容を実在の述語とするときには、常に主体の「これ-私のもの」或は「いま-感じられているもの」に戻らざるを得ないからである。実在は現前のなかにのみあらわれ、どこにでも発見できるものではないように思われる。しかし、他方において、現前は「これ」として感じられねばならない。どんな場合でも「これ」は、実在と取ろうとするなら、「いま-私のもの」でもあると思える。もしそれらがあれの間接的な述語でもなく、形容詞として広がるものでないなら、そのときそれらは直接的に《所与》としてあることになる。しかし、もしそうなら、それらはそのまま区別と特徴となる。それゆえ、以前のように「これ-私のもの」を手にするが、そこには特殊な内的項目が増加している。そして、我々はいまだ一つの現前の内部に留まっており、同時に二つの現前を有することは不可能に思われる。」

 

 さて、これに答えるに当って、実在を見いだすには、感覚へと向わねばならないことは私も認める。実在はそこにあらわれるものであり、すべての述語の主語である。そして、別の事実に向うには、「私のもの」である「これ」の外に出て、そこから離れることは疑問の余地がないように思われる。しかし、そこまでは認めるにしても、それ以上の帰結を私は拒否する。私は、実在の感覚が《私の》感じに閉じ込められ限定されることを否定する。というのも、それは付加によって自らの限界を超えて広がることがあり得るからである。それはそのままの形で確かなものとして留まることもあるが、より大きなものに吸収されることもあり得る。変化において我々は「いま」を有し、そこには「そのとき」もまた含まれる。また、私のもののなかには多様な特徴が存在し、正反対の側面から見るなら、それは私の直接的経験と共にあるかもしれない。あれと広範囲に渡る現前する全体とに対立はない。「私のもの」はより充実した全体性へ包摂されることを排除するものではない。隣接した直接的な経験以上のものがあり得て、それは私の私的な感じで《ある》が、それ以上《でも》ある。さて、すべての内容が最終的に属さねばならない実在は、既に見たように、直接的で包括的な経験である。この実在は私の感じのなかに存在し、また私の感じである。それゆえ、その限りにおいて、私が感じるものがすべてを包含する宇宙《である》。しかし、この宇宙がそれ以上のものであることを否定するようになったとき、私は真理を誤謬へと変える。感じ「以上のもの」、「いま私のもの」の拡張が存在する。この全体は《私の》「これ」を肯定しかつ否定する。この拡張は不可と共に「これ」を維持し、「これ」を限定的なものとして吸収し越えて広がる。私の「私のもの」は、すべての「私のもの」を含む巨大な「私のもの」の一特徴となる。

 

 さて、もし「これ」のなかで吸収に抵抗しうるなにかが見いだされるなら――支えや保持によって我が身が失われることを拒否できるようななにかが――反論は擁護しうるかもしれない。しかし、第十九章で見たように、そうした特性は存在しない。私の「これ」の境界を越えていけないこと、その広がりに従属し還元される直接的経験を持てないことは私の単なる不完全性である。私はすべての窓が透明となり、すべての窓が消え去るように窓を押し広げることはできないのであるから、そのことで私の窓枠の厳密さを主張してみても仕方がない。というのも、この窓枠は実在における存在ではなく、我々の無能力をあらわしているに過ぎないからである(第十九章)。この例えが惨めなばかりに不正確であること、無思慮な反論を呼び起こすかもしれないことは私も気づいている。しかし、それでもこの例えで続けてみよう。実在とはある瞬間、この窓を通り私の感覚に直接に入ってくるもの《である》。そして、それはまた繰りかえしになるが、唯一の実在《である》。しかし、我々は最初の「である」を「以外の何ものでもない」に、第二の「である」を「そのすべてである」としてはならない。包括的な清明さのなかで、透明さの限界が消え去ることについては反論はない。内容の抗することのできない先導について行くことによって、我々は単にそれを余儀なくされるだけでなく、正当化されもする。