ブラッドリー『仮象と実在』 131
...[I.直接的経験によっては私の自己が唯一の実体であるという結論は得られない。]
まず、彼らの訴えかける経験が直接的なものだとしてみよう。第九章で見たように、単なる「所与」がこの訴えかけを支えるには二重の失敗がある。一方では十分ではなく、他方では多すぎる。それは自己とともに非自己をもたらし、その過剰によって独我論を破壊する。しかし、他方において、自己ということで、対象を所有する、自らの状態を保持する実体を意味するなら、直接的経験はいかなる自己をももたらしはしない。独我論は、この側面から見ると、欠陥によって滅び去る。しかし、この議論を発展させる前に、それ自体で十分反論となることを述べておこう。
現象がその形容詞として属する存在である私の自己は、直接的経験によって与えられると想定されている。しかし、この贈物は、明らかに錯覚である。そうした経験はこの瞬間を越えた実在を我々にもたらすことはできない。現在を越えて自己の直接的な開示を伝えられるような能力など存在しない(第十章)。そして、もし独我論がその真の事物を経験に見いだすならば、その事物は単なる「これ」に限定される。しかし、ここまでは我々は既に考察し、実際的ではなく、全体的懐疑論に陥るに足る根拠以上にないとして独我論を論破した。反論の別の点へと移ろう。
直接的経験は単なる「これ」を超越することができない。しかし、あるがままの我々に与えられるものでは、独我論が基づく自己として十分ではない。我々は常に多すぎるか少なすぎるものを得る。というのも、主体と対象という区別、分け方は少しも本来的ではなく、その意味において《所与》ではない。それゆえ、自己はなんの限定もなしに与えられることはあり得ない(同章)。この点だけ述べて次に移ろう。我々が一般的に元々ある感情の様態を考えることができる限り、主体とはまったく関わりのないある状態を証拠立て有する(同章)。もしそうした感じが単に主体-実在の形容詞的役割なら、この性格は推論されねばならないもので、与えられたものではない。しかし、我々はこうした議論の余地のある立場に身を置く必要はない。対象と主体との区別は直接にあらわれると認めよう――それでも我々はいまだ独我論に一歩を踏みだしてさえいない。というも、主体と対象とは今度は相互関係としてあらわれることになろう。それは一つの事実の二つの側面であるか、(お望みなら)ある関係をもつ二つの事物となろう。このことから、二つのうちの一つだけが実在で、与えられた全体の残りが単なるその属性だと直接的に結論されることはほぼあり得ない。それは反省や推論の結果であり、最初に事実の半分を絶対的なものとし、残りの半分をその形容に転じたのである。その半分が対象であれ主体であれ、唯物論に赴くのであれ、「観念論」と呼ばれるものに行くのであれ、本質的にその過程は同一である。どちらの場合も等しく悪循環のうちにある。結論は断じて経験によってあらわれるものでは《ない》。最後に、恐らく言う必要もないだろうが、もう一つの点について述べておこう。我々は既に(第九章)、自己と非自己との境界をめぐる広く行き渡った多大なる混乱を見た。それらはどちらか一方だけに割り当てられるものではないようだった。もしそうなら、独我論が想定するような経験を退けるもう一つの理由があることになる。もし自己が実在で、他のすべてがその形容なら、我々はそれに付随する境界の不確実性について煩わされることもないし、少なすぎるか多すぎるかの恒常的なためらいもほとんど説明できないことになる。
ここまで我々が見てきたことは、端的に言うとこうである。我々は自己とその状態を実在の直接的経験としてもっているのではない。もしそうした結論に達するなら、間接的に、推論の仮定を通じてそこにたどり着いたに違いない。経験は「これ-私のもの」を与える。「これ」の形容としての「私のもの」や、「私のもの」に依存し属する「これ」を与えるのでもない。さしあたりそうだとしておいても、独我論の支えとしてはまだ十分ではない。経験は必要とされる性格をもたらすものであり、それはある現前に存在するものと同一ではなく、況んや存在の彼方にあるものでもない。我々がいま立っている立場は次のように言える。もし独我論が証明されるなら、それは直接的経験を超越しなければならない。次に問われるのは、(a)第一に、こうした超越は可能であるのか、(b)次に、それは独我論に対して助けとなり得るか、である。我々の達する結論は一言で言いあらわすことができる。どちらも可能であり、それには与えられたものを超越する必要がある。しかし、この同じ超越は、我々を全体としての宇宙にまで連れ去る。我々の私的な自己は論理が正当化しうるような休息所ではない。