ケネス・バーク『動機の修辞学』 10

.. 額面通りの形象

 

 額面通りにとれば、形象は我々がその本分に従って反応するよう促す。かくして、「成長する」ことに必死な青年は、映画に教えられて、観念的あるいは想像上の大人の世界の最も注目に価する行動として残忍さや殺人の形象について深く考えることになる。十五歳になるまでに、彼は多くの兵士やガンマンが生涯に経験するより多くの暴力を「目撃する」。そして、彼はそのすべての形象に「参加し」、それを「共感のうえ再演」する。こう手ほどきされれば、彼が「成長する」ことを(つまり「変容」を)そうした過剰な形で考えてももっともだろう。自分を発達していく人間と自覚するにはある語彙が必要であり、残忍さや暴力のイメージは、面倒なモチーフを完全に外的なものとして罰し滅ぼすことで、自己を改良し力を与える簡単な処方とともにそうした語彙を与えてくれる。確かに、こうした形象が与える不吉な影響は、ことに現代の写真芸術の過剰な<自然主義>が、写真のもつ純粋に<芸術的な>あるいは<虚構の>性質を引きだす形式的仕掛けなしに、可能なかぎり暴力をそのままに呈示するのを見るときに予想される。写真という形式では、殺人ミステリーを撮影するのと「ドキュメンタリー」を撮影することの間に差異はない。こうした残忍性を、復讐や義憤という観点から正当化し、「高潔な」ものとする多くの仕掛けが与えうる悪影響についても我々は忘れるべきではない。

 

 ある種の考え方(しばしば精神分析的傾向をもつもの)が知らず知らずのうちにこうした不吉な趨勢を例証しようとするとき、我々に異論が生じる。復讐と虐殺を第一の動機として強調する(そして友好的、倫理的動機はより「本質的な」衝動を抑制するための都合のよい虚構の一種と見なす)彼らは現代のミリタリズムの<批判者>であるよりは<先駆者>に近いからである。そして、しばしば分析家たちは、「殺すこと」を本質的な動機とし、プロット上の形象を表面上のことだと解釈して、実際にはそう運命づけられてはいなくとも、ある作品を父親像を殺害する欲望に動機づけられていると多くの巧妙な手段で熱意をもって示そうとする。あるモチーフに「無意識の」父親殺しが含意されていることは、同時に、父親殺しを<唯一>のモチーフと証明することに等しいと彼らが仮定していることは明らかである。ある劇が父親殺しを表立って扱っているとき、本来父親殺しに関係のないなんらかの動機をあらわすために父親という象徴が選択され、父親に具体化されたのは「想像上の偶然」だと我々が見てとるなら、そうした解釈に不満を抱くのももっともだと感じられよう。しかし、こうした場合はともかく、父親殺しの形象が表立って現われないときにはこの異議は当てはまらず、解釈によって父親殺しの動機を駆り出さねばならない。なぜ、と問う者もいよう、なぜ父親殺しの形象が本質的で、根本的な究極的動機として受けとられねばならないのだろうか。もちろん、我々も同じように尋ねることができよう。なぜ殺人の形象なら<なんでも>、明示的に示されたときでさえ究極的なものとしてとらえられ、場面であれ人物であれ<なんらかの形象>に「先行し」、動機づけを特定し配置するための「便宜的な」事項ととられないのだろうか。

 

 つまり、我々が認めることができるのは、引用した挿話は、殺人、個人的憎悪、派閥争い、悪態、論争、議論、用語論争に属していて、それらはすべて我々が繰り返し強烈な形で出会うレトリックの諸相であり、というのも、レトリックとは<抜きんでて>争奪、攻撃と侮辱、口論、つまらない喧嘩、悪意と嘘、隠された悪意とそれを助ける嘘などの領域だからである。だが、我々の引用が悪意への傾向をもっていることを認めるにしても、そこには善意もまた苦もなく見いだすことができる。そして、見いだすべきでもある。というのも、レトリックはまた、自己犠牲的、福音的愛から、性愛での説得や、まったく「中立的な」<コミュニケーション>(愛が普遍化、脱性化、「技術化」され、綿密な批判的、哲学的吟味によらなければ本来のモチーフの痕が見分けられないようなコミュニケーションの領域)までをも含めて訴えるものだからである。