ケネス・バーク『動機の修辞学』 55

.. 秩序、秘密、殺害

 

 今日、不条理と殺害の神学的−美的礼賛と、心理学的−美的礼賛とを区別するのは困難である。例えば、心理学では「神はアブラハムに何を求めたのか」とは問わず、「アブラハムはなぜ息子を殺す『べき』だと考えたのか」と問う。かくして、「世代間の戦い」(敵対する階級としての父親と息子)を頭に置くと、宗教的モチーフは、精神分析的に、アブラハムがイサクを亡き者にしようとする「抑圧された欲望」の単なる「合理化」と解釈される。あるいは、心理学に人類学的なひねりを加え、「この、息子を殺す考えを心に抱く父親の物語には、父親と息子との変わることのない敵対関係がどう表現されているだろうか」と問われることもある。かくして、神の「命令」は忌まわしい子殺しの偽装された表現であり、アブラハムを代表とする「敬虔なる父親たち」はそれを社会的に受容できる形に翻訳したのである。

 

 しかし、ここでもまた、<殺害>を主要なモチーフとして強調することには反論できよう。このことは、先に我々が主張したように、精神分析が、しばしば、生贄という副産物を目的に変えることで狩猟熱を補強し、ファシストの虐殺や「リベラルな」殺人ミステリーと同じような殺人への「傾倒」としてしまうことと同様の例となろう。しかし、「実体の逆説」を通じて、文法的に見ると、動機づけは真に複雑な別の次元を獲得する。「文法的には」、父親と息子が<同質>である限り、愛する唯一の息子を「良心に従って」殺害しようとする父親の幻想には二つの要素が含まれている。従って、身代わりに「自ら死ぬ」ことで、父親は破滅と同時に救われもする。ある友人がこう言った。

 

 「ある時、ニューヨークの高層ビルに息子を連れて行って、眼下に広がる街をみせたことがある。高いところに上ると、私はいつも飛び降りることを空想したものだった。多くの人々がそうだと思う。飛び降りないとはわかっていても、『もし飛び降りたら』と考えてしまうものだ。生々しく想像されてむかつくときもあるほどだ。私もそんな感じをもったことはあるが、不安を抱くほどでもなかった。

 

 しかし、手すり越しに見えるよう息子を支えているとき、別の空想が強く襲いかかってきた。『この子を投げ落としたらどうだろう』という考えだ。自分が落ちる空想のときは穏やかにいられたが、この思いは容赦のない厳しさで迫ってきた。私は恥ずかしくなり、困惑した。子供を非常に愛していると思っていたからである。彼は私の生きる理由だと思っていた。私の腕に信頼してしがみついている息子を殺すことを私は考えている。おそれと恥ずかしさに襲われ、私は急いで通りに降りた。

 

 何週間も私は、息子に対して意識している感情とは正反対のこの忌まわしい子殺しの動機のことで頭を悩ませた。思いだしたのは、子供のとき、ウサギの父親は、母親が守らなければ最初の子供を食べてしまうと聞かされたことだった。『私も同じではないか』と思われた。最終的に考えついたのはこうである。

 

 私は他でもない自分自身と同じくらい密接に子供と同一化している。子供を投げ落とすことで、私は飛び降りると同時に飛び降りないことが可能になる。少なくとも、息子を身代わりにして自分は飛び降りないことで、自分だけが飛び降りる空想よりより強烈に落ちるときの感覚を持てるだろう。こうして、古くからの空想が、突然の抗しがたいばかりの新たな空想として、犯罪的な形で戻ってきたのである。」

 

 もちろん、空想では、単なる願望が殺害の形をとることがあり得る(軽い怒りを「殺してやりたいくらいだ」と表現する場合のように)。この意味では、殺害の空想は「できることなら、いますぐこの人物から自由になりたい」ということを劇的な形で述べているに過ぎないことが間々ある。(アンドレ・ジイドの周到な悪漢は、そうした短気さを悪魔的な規模にまで拡大している。)こうした条件の下では、人を撃ち殺すという空想は、スタヴローギンのように人を蹴ったり噛みついたりする空想とは本質的に異なっている。

 

 バニヤンは明らかに、彼を悩ませるそうした「プロテスタント的」強迫観念の多くに大いに自責の念を感じていた(社会的位階の犠牲者である債務者は、社会的崇敬の問題が、キリスト教徒の最終的な宗教的位階づけによって超越され、貧富の差が救いと地獄落ちとに変わり、天国への最後の一歩が地獄行きへの最後の一歩によって目立つものとなるまで、敬虔に社会的優位者の判決に服しており、悪魔がそそのかすかのような意図せざる反乱の誘いに悩まされる)。

 

 ある条件のもとでは、殺害の空想は、一般化されており「禁句」ではないが、特殊な使われかたをすると忌まわしいものとなる「殺害」という語そのものと同じくらい「不道徳」になりうる。良心で禁じている個々人の場合でさえ、空想が「非個人的な」殺害の行為に近づくことが可能性として常にある。それは「無意識」の「噴出」というよりはむしろ「合理的」働きによる。良心がある行為を<普遍化する>ものである限り(行為を最も一般的な観点から考える)、個人的要素の普遍化は一種の非個人化だからである。(このことは、神的な<登場人物>の犠牲は容易に受け入れる観客が、知ったばかりのごく普通の好ましい人物に降りかかる「不幸な結末」には憤る理由を部分的には説明するかもしれない。)

 

 ごくつまらない身体の器官を指す「四文字語」が「不作法」で、「猥褻」とされ、人間の生命に関わる語が、その行為は不朽の戒律によって禁じられているというのに、「中立的な」語だというのは注目に値しないだろうか。個人としては生涯誰をも傷つけず、動物への態度でさえ博愛主義を崩さない平和を愛好する人間が、徴兵されるや国のために殺しの専門家として仕える理由は神だけが知っている。どんな混乱があり、それがどんな奇妙な凶暴さで露わになるのかも神のみが知る事柄である。しかし、ヘミングウェイの伝統におけるように、殺害が「献身的」である場合、身体的な不潔さの排除と殺害の排除との関係が、動機についてなんらかの手がかりを与えてくれるかもしれない。象徴的にいうと、殺害は身体に関わるタブーを超越する「純粋な」「肛門的行為」の一種と言えるからである。(肛門−排泄物は、生を与える口腔的−食物とは対照的に死に関わっている。)「献身的な」殺害とは、かくして、子供が排泄をしつけられるときに生じた心的問題を解決するものかもしれない。

 

 ちなみに、この考えに従えば、軍国主義者が最終的に徴兵の軍事訓練を成功させ、市民を真に献身的な軍人にするには、排泄物で汚すというほとんど神話的な恐怖を子供にしみこませ、早くから大いに罰を与えることを熱心に主張しなければならない。幼児の段階で、タブーを確固として確立する過度の罰則を与えることにより、命令に心底から良心をもって従い、献身的に喜んで戦うローマ・ストア派的な軍隊を得ることができ、帝国建設者は、結果的に、「アメリカの世紀」を迎える「荘厳なる責任を受ける」ことになろう。

 

 また、このことは、なぜ今日の宗教家の多くが、国際親善より軍事拡大に熱心なのかを示している。象徴的に言うと、「卑猥な」タブーを超越するには、軍事的規律のほうが「より純粋な」献身であり、平和外交は「より不潔」なのである。というのも、今日、真の平和は敵からの「汚染」の危険がある弁証法によってのみ得られるからである。そうした弁証法では、敵の声を排除するのではなく、それが十分に表現され、最終的な秩序で活動の場を与える方法が慎重に探られる。しかし、弁証法的に推奨されるのが今までの状態の「死」と新たなる「生誕」であるとき、人間は、それ以上の弁証法的展開は不道徳なものだと信じ、より単純な自殺と軍隊による殺人を好むようなのである。。

 

 ヴェブレンの観点から考えると、狩猟礼賛と社会的位階とのあいだに早くからある関係を見て取れる。上流階級の者だけが狩りをすることができた。下層階級にできるのは密猟だけである。狩りは単に特権のしるしではなく、<秩序>原理に対する崇敬であった。(我々は「法と秩序」を「家と家庭」、「日々と時間」などのような冗長な表現だと考えがちだが、秩序は規制だけではなく、<位階>を指している。真の「新たな秩序」とは新たな<社会的階梯>である。)

 

 「森の王」は純粋に「普遍的な」魔術が起源である可能性がある。司祭は表面的には「上流」階級のしるしであるにしても、少なくとも、研究されているのが「原始的な階級心理学」というよりはむしろ、「原始的な」心理学一般であることから『金枝篇』のそうした解釈が読み取れる。いずれにしろ、「森の王」が起源において社会的特権と関わりがないとしても、ロビン・フッドの伝説を見れば、初期の魔術崇拝がいかに社会的位階の原理と絡み合っているかは認められる。ロビン・フッドは魔術的な森の神、ロベール・デ・ボアが<政治化された>ものだからである(「普遍的な」神話が「地位を巡る」目的に変えられている)。この博愛的な密猟者はノルマン人の侵略に抵抗したサクソン人の、<支配>階級に抵抗する<臣下>の階級の伝説的な英雄だった。

 

 要約しよう。所有をめぐる争いにおいて、殺戮の準備をする者は、あらゆる手を使って、人間の思考の最も深い文法的、修辞的、象徴的手段をこの目的のために操作する。現実に眼を閉じないで操作できる限り、それは殺害への献身を完成させようと働く詐術的な考え方を分析する試みとも関連する。聖職者は人間の改善一般に真剣な関心を払っているが、そのなかの最も良心的な者でさえ宗教的動機について主に二種類の欺瞞を感じている。社会的崇敬と宗教的崇敬を取り違える汚らわしい誤りがある。この汚らわしさはもう一つの汚らわしさと絡み合っており、神の神秘が密かに「悪魔的三位一体」の「神秘」と、身体の排泄機能と混じり合うのである。

 

 第一の欺瞞は容易に認めることができる。どんな信徒でも「排他的」である限り、そうした要素は間違いなく存在する。そう言うことはどこにでも存在すると了解することである。第二の欺瞞はより認めにくいが、平和による解決より軍事的な解決を好む「良心」にその究極的なあらわれがある。恐らく、二つの欺瞞は、多くの秘密が集まっている私的な領域で「神秘」に合流する。神聖さ、練られている計画、陰謀、幼児期と夢、内密な部分とその働き、秘蔵された富などの秘密。人間関係の研究は、こうした相互関係を見て取り、組織的な批判方法によって明らかにするよう努めねばならない。

 

 かくして、我々は何にでも挑戦し、即興もいとわず、他分野から借り、そこから発展させ、あるテキストを他の注釈として弁証法的に使用し、図式化し続けねばならない。新たな逸脱へのきっかけを捕らえ、脱線から図式化へ戻り、さらなる理解には緊張と細心の注意を払い、変形によって非常に単純な挿話の埋め合わせをする。

 

 秩序、秘密、殺害。修辞学の本性、修辞学と弁証法との関係、両者の人間関係一般への適用を研究することは、これら三つの動機を経巡ることにある。その説に従う者にとって、キルケゴールの魅力は、彼の不条理(秘密を示す彼の言葉)礼賛が深いところで他の二つ、秩序と殺害を含んでいることにある。どの地点から出発したとしても、いずれは広大な弁証法的可能性のネットワークを見いだすことになるが、その場合、弁証法全体をその出発点から見ることになりがちであり、保守的に秩序に隷属するか、病的なまで秘密にとりつかれるか、好戦的になるまでに殺害に毒されてしまう。弁証法の全体(「現実」)がいかにこうした修辞的強調の靄に隠され続けているか、我々は考えねばならない。動機の修辞学の標的はそこにあろう。

 

 我々は位階については十分に考えてきた(秩序、ラヴジョイが「存在の大いなる連鎖」と呼ぶ、中世において宇宙論化された階梯)。それが秘密を含むことを示そうとしてきた(「共謀による」秘密が私的な秘密に及ぶ限り、象徴に属する問題に導かれる)。そしていま、我々の注意は殺害に向かうことになった。そこで、弁証法を通じて殺害に取り組むことと、殺害を通じて弁証法に取り組むことの重要な相違を示そうとしているのである。

 

 磔刑という証拠の前では、三位一体が殺害を含んで成り立って<いる>ことは否定できない。しかし、殺害だけを賛美し取り上げるべきではない。むしろ、三位一体は注目に値する、荘厳な経験に共に参加することから生じたと考えられる。例えば、かつて、原始魔術の修辞学に基づいた人間社会の縮図を一望の下に見たことがある。十歳くらいの少年たちが空き地で遊んでいた。彼らはガラガラヘビを見つけて沸き立ち、一人の少年の父親が鍬で蛇を殺した。彼らは死んだ蛇をぶら下げた写真を撮る。その直後、彼らはガラガラヘビクラブを設立する。メンバーはこの犠牲によって結びついており、それは共に分かち合った危険と勝利をあらわしている。蛇は神聖なる献げものである。その死によって、魔術的に結びついたこの一団の精神が与えられた。(我々は、この出来事が人間社会の縮図だと言った。役員の選出や、会費の徴収もあるという事実は心に留めてある。役員と会費の問題は、すぐさま、争いと派閥を生む——かくして、争奪の修辞学が、バベルの不調和が生じたときには、すぐさま蛇神の荘厳なる霊が二度目の生け贄にされる。)

 

 全体として言うと、「犠牲」としての<自己放棄>は存在する。犠牲は宗教の本質である。象徴的に言うと、それは、あれこれの個別なこと(「苦行」)や、それ自体を目的として死ぬのではなく、それに従うことが絶対における犠牲の原理をあらわすが故に、一種の<自殺>であり、望んで<死にゆく>ことである。つまり、事実上は、宗教は自殺を禁止するが、それには、「弁証法的に」死にゆくことで超越に達しようとする多くの宗教的規律が対立している。同時に死なねばならず、かつ死ぬべきではない場合、その逆説を解決する説得力のある方法は、象徴の助けを借り、本質を共有する他の人間を犠牲にすることで「実質的に」自らを殺害することではなかろうか。実際、究極的な父が究極的な息子を犠牲にするキリスト教の心理学的魅力には、そうした失いかつ得ることの完璧な範例があり、父と息子という二つの人格は共通の本質をもち、究極的父は人類の改善のために究極的な息子を犠牲にするのである(個的な犠牲の原理そのものが究極的にはこうした社会的目的に動機づけられており、「美徳」に適った個人性の犠牲的制限は、人類一般の進歩のために企図されている)。

 

 友人が息子と共に高いところに立ち、「子殺し」の衝動を感じたのは、恐らく、自分と息子が天上における究極的な父と究極的な息子の属性を共有しているかのような高揚した気分を間接的にあらわしたに過ぎない。真に宗教的な崇敬によってそうした感情を得たのでなくとも、社会的崇敬の誘惑によって得ることもあり得る。彼が立つ高層ビルそのものが巨大な近代的バビロンの歪んだ社会的位階をあらわすものでしかなく、位階原理の物質化だからである。「その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、『大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母』という名である。」(『ヨハネの黙示録』17:5)