ケネス・バーク『動機の修辞学』 52

.. 宮廷作法の戯画:カフカ(『城』)

 

 『宮廷人の書』の弁証法的対称を視野におきつつ、フランツ・カフカのグロテスクな小説『城』を考えてみよう。トーマス・マンカフカを「宗教的ユーモリスト」と呼んだ。うまい例えであって、それだけにマンがした以上につっこんだ説明をする価値がある。マンはカフカのうちに、平凡さに対する愛と「神に近づき、神のうちに生き、神の意志に従って正しく生きようとする」願いの循環を見ている。マンの『トニオ・クレーゲル』で、芸術家の動機とブルジョアとしての動機の解決できない葛藤が感傷とユーモアを生んだように、『城』の主要な動機は「宗教的な領域にあり、トニオ・クレーゲルの孤立に対応する」とマンは言う。

 

 しかし、我々の宮廷作法の魔術に関わる観点からすると、『トニオ・クレーゲル』にさえ<カースト>への関心が示されているのが認められる。ブルジョアのインゲボルグに対するトニオの内気な思慕は、階級としてのブルジョアへのノスタルジックな姿勢が性的な形であらわされたに過ぎない。事実、帰還は確保されているので、芸術家としての「離脱」、ボヘミアンに転ずるブルジョアという姿は、彼自身が通常そうだと感じている階級の諸動機に相反するものではない、と我々は捉え始める。若いボヘミアンの放浪は、老いたボヘミアンの帰還の第一段階に過ぎない。ボヘミアンは「実質的には」去る前に元に戻っている。ボイグがペール・ギュントに諭すように、回り道をしなければならない。父親と放蕩息子は、共同体の底に潜む動機という点から見ると区別できないにしても、彼ら自身は両極端におり、<種として>異なっていると感じることができる——マンの物語の辛辣さは、実践的ブルジョアと倫理的ブルジョアを異なった<階級>として扱い、トニオが両者の間を揺れ動き、そしてまた、インゲボルグとリザベータという二人の女性に、その人物だけではなく、二人の代表する社会的動機の対照的な秩序のために求婚することにある。彼女たちは二つの非性的な原理を、二つの異なったカーストを性的に体現する神秘的な容器である。彼女たちに対する両義的な求愛は、カースト間の遠回りの交流である。

 

 美学的動機の代わりに宗教的動機を置き換えると、『城』と『トニオ・クレーゲル』の動機にアナロジーを認めたマンが正しいことがわかる。しかし、我々の目的からすると、このアナロジーの意味深い要素がマンによる自作の考察では除かれていた。この要素を加え、カフカの小説を『宮廷人の書』の弁証法を頭に置きつつ見ると、なぜ、またいかにマンの図式が当てはまるのか正確に理解されよう。カフカは、究極的神秘、人間の諸動機の普遍的な根拠に関心を払っているという意味で「宗教的」と言えよう。しかし、宗教的動機についての彼の考察は「ユーモラス」であり、それは、社会的秩序が我々の神の観念と不釣り合いなこと、人間は世俗的な気後れとのアナロジーなしには神とのコミュニケーションが考えられないことを彼が決して忘れないからである。

 

 宮廷作法の原理は表現主義的でグロテスクな断片にあらわれている。「威厳」の神秘があり、高い地位と低い地位とのコミュニケーションである官僚制ゆえにそうした原理が存在する。宮廷作法の究極は低い身分と「最高位」にあるものとの交わりであるから、社会的神秘を通じて神の神秘を見やることで、まさしくカフカは自らの主題の本質に赴くこととなる。しかし、彼は決して社会的神秘と神の神秘との不均衡を忘れないし、我々に忘れさせない。かくして、社会的神秘は神の神秘をあらわす形象を与えてはくれるが、その形象は究極的な位階原理には不条理なまでに不十分である。

 

 カフカ個人のことで言うと、もちろん、社会的神秘は反ユダヤ主義の形で経験され、苦しめられた。自由主義的な、ヒットラー以前のオーストリアでは、ユダヤ人は完全に排斥されもしなかったし、完全に認められたわけでもなかった。充分自由主義が行き渡っていたときにナチズムへと向かう運動が起こり、ユダヤ人の社会的地位が揺らいだ。この文学外の状況が『城』のプロットにも影を投げかけており、特に主要な登場人物である「K」が城との連絡を強めたり失ったりする不確実さにそのことはあらわれている。(同様に、『審判』では、どこにもなくまた至る所にある神秘的な裁判所によって無罪や有罪が宣告されるKの不確実さがある。実際、彼は何を咎められているかさえ知ることができない。)

 

 ある部分では、状況は、身分制の神秘への関与から閉め出され、排斥されたようでもある。だが、ある部分では新参者がしごきにかけられているようでもある。しごきの裁判であり、「罪のある」被告は、最終的には内部にある聖所、至聖所に入ることが希望できる。しごきを受ける志願者は、その本性のある部分において<部外者>であるために儀礼的な罰を受けるのだが、<内部の人間>になる希望をもてるのである。あるいは、状況は、上級生が新入生に召使いの仕事を押しつける「上流の」学校のようだとも言える。あるいはまた、仲間や秘密結社員にだけ神秘が伝えられる掟のようなものでもあろうか。しかし、一つの重要な相違がある。そうした儀式が行き渡ったところでは、失敗は煤けた制度が要求するだけの「威厳」を築き上げ、志願者は自分がどこにいて、どのように振舞えば最終的に神秘的実体への関与が許されるのか知っている。だが、そうした形式的な決まりがない場合、どのような状況にあるのかは理解されない。志願者はしごきを受けるのだが、志願者もしごいている者もこれからどうなっていくのか理解していない。それゆえ、被告の「罪」はなんであるか、どんな「裁判」が、どんな目的でなされねばならなのか誰も確信をもっていない。

 

 ある友人がこう言っていた。「1929年の財政破綻の後、リベラルな知識人の多くが政治的ラディカリズムに加わったのを覚えているだろう。長年、闘争を繰り返してきたラディカルな文学組織は、突然の新たな転向者たちに圧倒されることになった。組織の古参はメンバーを増やそうと努めていたわけだが、状況はまったく逆になった。新たな参加者を歓迎する代わりに、彼らが詰まらぬ人材だと証明しようとする傾向が生じた。この傾向が増すにつれて、古参は、運動の拡張を喜ぶプロパガンディストというより、近所の不動産開発に憤る排他的な住人のように振舞った。

 

 何年か後、私はなにが間違っていたのかわかった。古参たちは、組織で以前のような影響力が失われるのを恐れていたのではなかった。不注意に神秘を踏みつけにすることが彼らを困らせていたのだ。新人はレストランに入る一団の子供のようにして入ってきた。段階もなければ、罰もなく、しごきもなかった。ある瞬間にはいなかった者が、次の瞬間突然そこにいた。こうした場合に必要な形式的儀礼がなく、古参たちは我知らず、非公式的なしごきをしたり、以前だっら精力的に取り入れようとしていた人々を閉め出そうとしたりしたのだ。」*

 

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 ユダヤカフカにとって、神秘を再確認するしごきは公式に認められてはなかった。実際、彼がしごかれていたという確証もない。『城』で追放される人物について言われるように、上官は告発もされてもいない者を許すことはできない。「許される前に、罪が証明されねばならない」のである。更に、神秘がどこにあり、どのようなものであったか明確な手がかりは存在しない。最も近くに見て取れる明らかなしるしは官僚構造である。最大限に意味を増幅させれば、そこで人は「神」の意味合いを得たし、「宗教的」にもなった。しかし、神性をあらわすのにいかに不適当であるかがわかっているので、グロテスクな「ユーモア」をもって扱うのである。かくして、その実体が本来の人格ではなく、職務に備わる威厳だけにある神秘的な役人は、ここで新たな意味合いをもつことになる。彼は、宗教的動機に適した<本来的な性質>も何らあらわさないという意味において非実在的である。だが、階級の神秘が「威厳」を与えている。実際、聖職者として不適格なことが職務からくる威厳の効果を逆に示している。(同じように、学校を神秘として受け取る学生は、その本質を、学ぶことではなく、学ぶことをおろそかにした「学校精神」であらわすだろう。あるいは、資本をもとに高慢な態度を取り、奉仕を金で買い、骨で犬を打つ資本家は、人々の忠誠を取りつける性格上の魅力があったとしても、「純粋な」金の力を効果的に示そうとするだろう。)『城』では、<人>としてはみすぼらしい官僚が、<職務>と融合した神秘の全能を不条理にも示すのである。

 

 我々の見方によれば、『城』はそうした秩序の断片的な戯画であり、カスティリオーネの対話にあった形式的要素が、カフカの小説においてどの程度までグロテスクに対応しているかを見ることにしよう。

 

 『宮廷人の書』の第一の関心事は、君主のもと、宮廷において、恩顧と昇進を得るためにどう振舞うべきかにある。それはまた、測量士であるKの主要な関心事でもある。しかし、宮廷人は、宮廷の<なかでの>優位を得ることに関わるが、全くの部外者であるKには、自分と神秘的な支配者との間に曖昧に介在する広大な役所組織がある(宮廷のグロテスクで官僚的な対応物である)。Kは恩顧から離れた場所にいる。村人のなかでも異邦人である。村人は城に属しているが、彼らと城の間にも大きな隔たりがある。村で生活しているが、城の外部事務所と連絡を取る伝令がいる(グロテスクに天使に対応する)。そして、村のなかで城を代表する役人がいるが、位階の神秘的なよそよそしさに満ちており、小説全体を通じてKは彼らからあらかじめ話を聞いておこうとする無駄な努力で身をすり減らす。宮廷人が、君主の秘密の部屋でいかに振舞うべきかを考えたように、Kは入り口をどう越えるか悩まねばならない。

 

 フリーダとアマリアがグロテスクな宮廷作法を女性に移し替えたものである。フリーダについては、「クラムとの近しい関係があるために」(彼女はKと一緒に暮らす前はクラムの愛人だった)「不合理にも彼女はKを誘惑するのだ」と言われる——そして、クラムは、Kが悪夢にうなされるかのように、定かならぬ理由によって常に会いたがっている城の役人である。アマリアは、役人からの卑猥な申し出の手紙をはねつけることで破滅した少女である(手紙は宮廷作法が歪められ裏返された言葉で書かれている)。ある登場人物は「役所の決定は少女のように恥ずかしがりだ」という土地の言い習わしを引用する。小説家はここで、巧妙に性的秩序と官僚秩序を混ぜ合わせている。「クラムがKの仕事に及ぼすことのできる単なる形式的な権力」と「クラムがKの寝室で実際に持っている権力」とをカフカは比較し、「Kは職業と生とがここにおいてほど絡み合っているのを経験したことがなかった。・・・両者が互いに場所を入れ替えたのだと考えることもできたろう」と言う。

 

 神秘と階級の関係について以前に言ったことを思い返すと、この発言は並はずれた意味を響かせるように思える。身分と分業とが同じものの二つの側面に過ぎないなら、「職業」は遠回しに<階級>を述べていると読める。実際、プロテスタント的文化の明らかな場所では、分業によって生じた身分の実質は、実際的に、仕事によって表現される。しかし、プロテステンティズムの説く世俗的な労働の神性は、カトリシスムの神性が身分を認めているのと同じく、世俗的な「神秘」と超自然的な「神秘」とが入り交じったものである。それゆえ、どちらの場合でも、社会的、宗教的双方の意味における「崇敬」が入れ替わり得る。カフカが述べた「職業」と「生」との交換可能性について考えてみよう。クラム(宮廷原理の神秘をあらわす)がKとフリーダとの性的関係にも侵入してくる様が語られている。そして、結局のところ、身分に関わる社会的動機(「職業」)は普遍的な動機(「生」)と絡み合っていて、入れ替わることが可能だと言われる。城が社会的カーストの優位をあらわしもすれば、神の優位をあらわしもするこの本の性質を思い返してみれば、この一節に二種類の「崇敬」(社会的なものと「神的」なもの)が性的関係によってグロテスクに融合されている様子が見て取れないだろうか。

 

 カフカにある宗教的な動機づけについては、トーマス・マンカフカの友人のマックル・ブロートのような権威によって明らかにされているので、ここで検証することはない。しかし、この性質を最も手早く伝えているのは第八章の二節目の文章だろう。

 

Kは、城をながめていると、静かに腰をかけて、ぼんやり前方を見やっている人間の様子をうかがっているような気がすることがときおりあった。相手は、もの思いにふけっていて、そのためにすべてのことに無関心になっているというのではなく、自分はひとりきりで、だれも自分を観察などしていないと言わんばかりに平然と安心しきったように腰をかけている。しかし、そのうち、いやでも観察されていることに気づくにちがいない。それでも、彼の平静さは、すこしもくずれないのだ。すると、これがそのことの原因なのか、それとも結果なのかはわからないが、観察者の眼は、焦点を定められなくなって、ずり落ちてしまう。(前田敬作訳)

 

 

そして、第九章では、「クラムの精神に満ち」、「クラムの名のもとに」行われたことや、「クラムの手のなかにある道具」でしかない人物についての議論が、純粋に官僚的な神秘に超越的な次元をつけ加えている。嵐と鷹のイメージがここでもあらわれる。実際、この作品から伝統的な神学的モチーフを取り出すのは容易である。むしろ問題は、英訳者が示すマンとブロートの発言にあるように、ここで重要な役割を果たしている社会的階級のモチーフを忘れないようにしておくことにある。

 

 『宮廷人の書』の他の二つの主要テーマ、笑いと教育についてはどうであろうか(これらのテーマはラブレー的なレトリックで、きらびやかに、ほとんどヒステリカルに提示される)。『城』では、笑いと教育という社交的修辞は(この本の宗教的側面では二つの「純粋な説得」の形式)は議論の対象ではないが、作品そのものの本質となっている。笑いは、グロテスクな変更を加えられて、崇敬の奇妙で「ユーモラスな」扱いとして、この本の構想と方法に埋め込まれている。そうした表現の社会的評価は、恐らく今日では、グロテスクとユーモアとが入り混じった『ニュー・ヨーカー』の類の「お洒落さ」に最もよくあらわれているだろう(「位階的な」訴えかけはそれに付された宣伝広告で示されており、明らかに郊外の中流階級の「エレガンス」に向けられている)。

 

 伝令のバルナバスが最初に任務を受けたとき泣き叫んだとKが聞かされるところがある。神秘についての注釈として、この出来事は極めて多くのことを語っている。というのも、バルナバスの最初の任務とはKと接触をもつことにある。それまで我々はバルナバスがKに神秘を見るように、バルナバスに神秘を見ていた。曲がり角を曲がることで突然視野に入ってきたこと、つまり、AにとってBは神秘的であり、BにとってAは神秘的で、それはいずれもCの神秘に関わっていることによる、という認識は幻想を追い払うわけではない。というのも、だれもが神秘が存在する<かのように>振舞い続けるからである。行為はイメージであり、神秘は我々の想像のなかで強い力を持ち続ける。実際、一度規則を学んでしまえば、一度このグロテスクな笑いを住みかにしてしまえば、神秘への動機の欠如そのものが神秘の感覚をつけ加えることになる。

 

 破綻したグロテスクな宮廷作法に、均整のとれた古典的な宮廷作法のそれぞれの要素に対応する点を見いだせるわけではない。だが、教育の原理に対応するものはたまたま存在する。形象として判断すると、Kの測量士という役割、あるいはむしろ、その役目を公的に認めさせようとする彼の努力は、教育の原理を含んでいる。というのも、象徴的に解釈すれば、測量士とは位置と高さとを特定する者だからである。そして、この半ば認められ、半ば排斥されるKが著者をあらわしているのは明らかなので、社会的位階に直面したKの苦境は位階的動機の正確な小説化であり、カフカはここでユダヤ「知識人」として書いているのだと言っても言いすぎではない(Kの村の農民や労働者への姿勢を見ればわかるように、知識人が肉体労働者よりも優れているとごく自然に考える点で彼は「内部」の人間である。名づけようのない、名づけることができないとさえ言える呪いを受け、その呪いのために永久に「有罪」であるという意味では「外部」の人間である。)カフカは「牧歌的に」労働者階級に求愛し、(党からはぐれた)左翼の尻尾振りが「インテリゲンチャプロレタリアートのなかに入っていかねばならない」などと言ってそそのかす社会的関係を結ぶかもしれないが、知識人は当然労働者階級よりも優れた身分だと考える限りにおいて「内部の」人間である。知識階級そのものがある意味疑わしいものであり(教会に対しては、アクイナスの天使は純粋な知識人だと言われるにしても)、加えて、将来ヒットラー<帝国>の一部となるべき場所でユダヤ人である限りにおいて、カフカは「外部の」人間である。

 

 また、少なくとも、不確かな状態のKが用務員と思われながらフリーダとともに学校で生活し、住まいとする教室に生徒たちが群がる様子を表現主義的に描いている事実には、教育のイメージがあることが示されている。しかし、教育と幼年期の主題の絡み合いには、むしろ「文法」と「象徴」に属する要素が含まれている。我々は様々な場所で、論理的先行が、時間的先行という形で物語として語られる文法的な方便について記してきた。こうした交換可能性によって、本質は論理的な「始め」であり、幼児期は叙述的な始めであるから、位階原理の本質(城)は幼児期の諸条件と同一視することができる。かくして、物語の冒頭近く、初めて城を見たとき、Kは生まれた町を「束の間思い起こした」と描かれている。農民は子供として描かれ、助手の子供っぽい要素も幾度か指摘される。Kが城に電話しようとすると、受話器は「無数の子供たちの声のざわめき——ざわめきというよりもむしろ、無限の距離を隔てた場所での歌い声が反響しているかのような」うなりを立てる。フリーダと生活する教室では、常に行われるプライバシーの侵犯が状況全体を子供時代に特有なものとしている。

 

 また、城を指すドイツ語、Sclossには英語にはない意味合いがある。閉める、あるいは閉じこめるという動詞schliessenと関連した囲い込みの観念が示唆されているのは明らかである。クラムklammkは、形容詞として、囲い込むという行為をあらわす別の言葉lemmenと関連して、固定や密閉を意味している。我々は中世の思考にあるhortus conclususを思い起こすことができ、理想的な「閉庭園」とは町の外壁によって二重に防御されたものなのである。また、そう遠くない言葉として、「宣伝」、「災難」をあらわすReklamとKalamitatがある。

 

 「退行」の文法についてはこんなところでいいだろう。「象徴」の観点からすると、幼児期の性現象に関わる形象は、ある重要な点において、社交的宮廷作法の神秘を表現するのに適している。社会的な交際は本質的に性的なものではないので、宮廷作法は成人の性的対よりも幼児期の「多形倒錯的な」性現象により近しい。(シャーリー・ジャクソンの小説『壁を通り抜ける道』を見ると、社会的差別の語り得ない神秘が、幼児期には、性的で曖昧な語り得ない神秘と混じり合っていることが繊細かつ敏感に描かれている。)Kのフリーダとの結びつきはクラム(城を頂点とする秩序をあらわす)への遠回りの接近に過ぎないので、Kとフリーダがその最も内密な愛の行為のあいだにも、他者の観察のもとにあるという事実にはグロテスクな適切さがある。ここが恐らく最も幼児期を強く想起させるところで、というのも、子供たちの性に関する観察では、フリーダとKとの無頓着で、ほとんど上の空と言ってもいい性的関係同様に、親密さやプライバシーが欠けているからである。

 

 グロテスクな宮廷作法という観点からの『城』の分析を複雑なものとする二つの主要な問題は、カフカの病気と父親との個人的な葛藤である。子供はしばしば夢のなかで虫の姿をとるというフロイトの示唆を思い返すと、「存在の種類」が異なる父親と息子との神秘的でこじれたコミュニケーションが最も直接的に表現された明瞭な例として、息子がゴキブリの怪物になる『変身』がある。修辞的に言うと、この子供の恥辱によって、親に対する死にものぐるいの復讐がなされている。

 

 『城』で述べられる疲労は著者の個人的な病気をあらわしてはいるが、それが最も明確にあらわれるのは『断食芸人』で、肺病による消耗が職業として断食する芸人に不思議な具合に表現されている。グロテスクに対する感受性のある者なら、この物語のプロットを奇抜な比喩として思いつくことがあるかもしれない。しかし、桁外れの想像力を有しているのでなければ、作者は実際に結核を経験することによってのみ、身の毛もよだつような徹底的なやり方でこの虚構を作り上げることができたのである。

 

 病気はまた、芸術の主題と絡み合うことが多いマンの作品のように(例えば『トリスタン』)、美的にも補われている。(この観点からの議論については、『アクセント』1948年冬号のR・W・スタールマンのエッセイ「カフカの獄舎」を参照のこと。)再び社会的受容の問題が鋭く考えられているために、修辞的意味合いがある。修辞的要素は純粋に身体的な挫折からでさえ生じうるが、カフカが「病気と疲労が農民たちを優雅にしていた」と書くときのように、病気を取りまく同一化にも認められる。かくして、城に関わる強迫観念は、身体的精神的双方における病気の形象に適合している(あるいは、精神的病いの文学的稀釈化がグロテスクにはある)。文法的に言えば、病気は「受難」であり、宗教的受難にロマンティックに、また社会的に対応しうるものである。

 

 カフカの法律の勉強は修辞的動機に直接結びついた。書類仕事や、法的執行の強く位階的な性質は、宮廷作法の基本をなす官僚の形象に多くの材料を提供できた。そして、城が村の上にのしかかるように、実定法の背後には、常に神学的法の問題が仄見える。

 

 カフカについて、マックル・ブロートはこう書いている。

 

 「城」——神的な指標である——と女性との関係は、Kによって半ば見いだされ、半ば感ずかれているのだが、役人(天)が少女に明らかに不道徳的で猥褻なことを求めるソルティニの挿話で不明瞭な、不可解なものにさえなる。ここで、キルケゴールの『恐れとおののき』を参照にするのは価値のあることだろう——カフカが非常に愛し、幾度も読み返し、多くの手紙で深い解釈を加えた作品である。ソルティニの挿話は、神がアブラハムに犯罪を、息子の生け贄を命じた事実から始まるキルケゴールの本と文字通り平行関係にある。キルケゴールはこの逆説によって、道徳と宗教の範疇は全く同一ではないという結論を誇らかに導き出した。地上における目的と宗教的な目的は通約不可能である。このことからカフカの小説の中心に入る権利を得る。

 

 

 この発言では二つの重要な要素を区別することができる。生け贄の問題(創世記二十二章の物語の解釈を含む)と不条理の問題(宗教と社会的動機の「通約不可能性」の教えを含む)である。両者は解きがたくもつれ合っているので、一方だけを区別して論じることはできない。だが、不合理や「不条理」の礼賛は、創世記のこの章以外にも多くの場面から引き出すことができ、生け贄の理論は、キルケゴールの聖書解釈のように「殺害」を強調する必要はないので、組織だったやり方をもってすれば分離されよう。

*1:

*ある個人が異質な社会的グループに受け入れられるとき、グループの成員がしごく必要を感じるように、新入者自身も「しごかれる」必要を感じるかもしれない。内部の者が、新入者に暗黙のうちに裁かれている、あるいは、自分たちのやり方が脅かされていると感じるに従い、神秘は多かれ少なかれ露わな憂慮へと変わり、新入者は集団のなかで、マルクス・アウレリウスならば「膿瘍」と言ったであろう状態で突出していると感じる。しかし、加入儀礼に必要な儀式がほんの僅かしか公に認められていないこともあって、困惑は後戻りすることになる。儀式が不確かであったり、思いつきであったり、不完全である限り、魔術的な特性は損なわれる(損失は、支払われない負債のように両者共に感じられる)。そして、加入儀礼は容認どころか、あることすら認められずにばらばらになり、ぼんやりとした制約、微妙な侮辱、半ば無意識の無視などにしか残らなくなる。

 こうした考察のもとマーク・トウェインの『抜け作ウィルソン』を見ると、「野蛮な」、または「神秘的な」動機がそこに働いているのかどうか疑問に感じられる。事実、共同体の善良な人間たちは、二人の余所者、アンジェロとルイジ(「すてきな名前だ、堂々として異国風だ」)を当初は熱烈に歓迎する。しかし、それほどの読み巧者でなくとも、物語の最初から、作者は引きづり落とすために持ち上げているのだということがわかる。それに続く双子への残酷な行為は卑劣なトムがもたらした誤解によるもので、トムは自分の罪を隠すために余所者たちの悪い印象を吹き込んだのだった。しかし、こうした説明がないとき、なにが残るだろうか。プロットは詰まるところ次のようになる。二人の余所者が共同体に入る。風変わりな様子にもかかわらず、心から歓迎される。しかし、その後すぐ、厳しい冷淡さと疑いをもたれる長い時期があり、最終的に容疑を晴らし受け入れられるまでつらい審判を受ける。村人のよそよそしさを悪漢の陰謀に帰する合理的な説明のことを忘れると、新入者が非公式的でその場その場のしごきを長きにわたり経験していたのだということになる。余所者につらく当たっていた隣人たちを二つのグループに分けることは、ひどい行為を悪人にだけ押しつけ、その行為に含まれる<集団的な>性質を覆い隠す。合理化なしに、結果だけを見ると、同じく共同体の悪い評判のために不公平な扱いを受けていた一人の例外を除き、住民の誰もが余所者へのひどい行為に従っていたのである。

 我々の考えによれば、劇的仕掛けとしてごく普通に「スケープゴート機構」を働かせることで、トウェインはしごきの動機を「善」と「悪」の二つの原理に分けることができた——その結果、しごきは作者にとってさえそれと認める必要がなくなったのである。しかし、「合理的な」説明(無実な隣人と卑劣な隣人との区別による)を越えて、あるいはその底に働いている「神秘的」あるいは「魔術的な」要素は、明確に定義されることなく、著者と読者の双方に感じられている。

 こうした考えは、マーク・トウェインの主要作品すべてに当てはまるように思われる。例えば、我々は魔術的で儀式的な動機を求めるが(位階の原理と強く混じり合った)、彼はそうした動機をリアリスティックに描くために子供(あるいは王や公爵を騙る者)を使う。子供や悪漢は自分たちで主張するように完全な形式主義者であるかもしれないし、そうではないかもしれない。そうでないにしても、読者は小説の決まり事として、彼らの言ったことをそのまま受け入れる。それゆえ、生にある社会的な「神性」は軽妙に受け入れられやすい形で象徴化され、読者は自分の関心がそうした動機に関わると気づくこともないのである。