一言一話 78

 

二つのレアリスム

 今、読んだばかりの古いテクスト(スタンダールの伝える聖職者の生活の一挿話)に命名された食物が登場する。牛乳、タルティーヌ、シャンティイのクリーム・チーズ、バールのジャム、マルトのオレンジ、いちごの砂糖漬け。これもまた純粋な表象の快楽(この場合、食通の読者にだけ感じられる)だろうか。しかし、私は牛乳も、甘い食物もそれほど好きではない。私はこうした食事の細部にはほとんどついていけない。おそらく<<表象>>という語の別の意味に結びついているのだが、別の場合もある。議論の中で、ある人が相手にあることを<表象する>時、彼は現実の<最後の状態>、現実の中の手に負えないものを挙げるだけである。同様に、小説家は、おそらく、食物を引用し、命名し、告知する時(告知し得るものとして扱う時)、読者に、物質の最後の状態、物質の中にあって、乗り越えられないもの、遠ざけられないものを押しつけるのである(先程挙げた、<マルクス主義、観念論>、等々といった名前の場合はきっと違う)。<まさにそれだ!>この叫びは知性の閃きとして理解すべきでなく、命名行為の、想像力の限界そのものとして理解すべきである。要するに、二つのレアリスムが存在するのだろう。第一のレアリスムは<<現実のもの>>を解読する(証明されるが、見られない)。第二のレアリスムは<<現実>>を語る(見られるが、証明されない)。この二つのレアリスムを混ぜることのできる小説は、<<現実のもの>>の了解可能なものに、<<現実>>の幻影的な尻尾をつけ加えるのである。今日のレストランと同じように、一七九一年にも、<<ラム酒入りオレンジサラダ>>を食べていたのかという驚き。歴史的に了解可能なものの誘惑と、物(オレンジ、ラム酒)があくまで<そこにあろう>とするしたたかさ。

リアリズムはもっとも幻覚的なものとなり得る。