一言一話 77

 

新しいことと悦楽

 「新しいこと」はモードではない。批評全体の基礎となる価値だ。世界に対するわれわれの評価は、もはや、少なくとも直接的には、ニーチェにおけるように、<高貴と卑賤>の対立には左右されない。「古いこと」と「新しいこと」との対立だ。(「新しいこと」のエロス論は十八世紀に始まった。長い変貌の道程。)現代社会の疎外を免れるには、もはやこの手しかない。すなわち、<前方への逃走>である。古い言語活動はすぐに評判が悪くなる。言語活動は繰り返されるとすぐに古くなる。ところで、禁欲的な言語活動(権力の保護のもとに生れ、広まる言語活動)は、規定からいって、繰り返しの言語活動である。言語活動の公的制度はすべて繰り返しの機構である。学校、スポーツ、広告、量産作品、シャンソン、ニュースは、いつも、同じ構造、同じ意味、そして、しばしば同じ単語を繰り返す。ステレオタイプは政治的事実だ。イデオロギーの主要な顔だ。それに対して、「新しいこと」は悦楽である(フロイト曰く<<成人においては、新規さが常に悦楽の条件である>>)。こうして、次のような現代の力の布置が生れる。すなわち、一方には、(言語活動の繰り返しと結びついた)大量の平板化――悦楽の埒外にある、しかし、必ずしも、快楽の埒外ではない平板化――、もう一方には、「新しいこと」への(周辺部の、常軌を逸した)熱中――言述の破壊にまでいきかねない、気違いじみた熱中、ステレオタイプに抑圧された悦楽を再び歴史的に出現させようとする試み。

 対立(価値のナイフ)は、必ずしも、公認され、命名された対立物(唯物論と観念論、改良主義と革命、等々)の間にある訳ではない。しかし、<いつでも、どこでも、例外と規則>の間にはある。規則、それは濫用だ。例外、それは悦楽だ。例えば、時には、「神秘主義者」の<例外>を支持することもありうる。規則(一般性、ステレオタイプ、個人言語、すなわち、凝着した言語活動)でなければ、何でもいい。

「新しいこと」がなくなったいまでは、テクストの悦楽は困難なものになっている。