レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 14

 言語を道具へ還元することに対抗するものとして、活動としての言語を観念論風にあらわした、言語を表現としてとらえる考え方は、明らかに魅力的なものであった。それは、敵対理論が情報の伝達、メッセージの交換、対象の名づけに限定し、最終的には抑圧した言語経験について語っているように思われた。他者とともに語り、言語に参入し、単純な「情報」でも「メッセージ」でも「対象」でもないリズムや抑揚をつくりだし対応する経験を含めることができた。実際、この経験は「文学」において明らかなものであり、限定的に言えば、それに一致するものでさえある。だが、実際に起こったのは、根深い分裂であり、分裂した強力な範疇を生みだし、その幾つかは古い用語を新しい言葉で言うものだった。「指示的」と「情動的」、「外示的」と「内示的」、「一般言語と文学言語」との範疇の分裂である。確かに、こうした範疇が示す用法は、特殊な状況の特殊な実践においては区別される。しかし、範疇として、更に異なった存在として、言語使用の異なる「実質」としてそれを投影し、分解と特殊化を許したことは、長い間、言語についていまだ完了していない基本的な議論を、言説という単一の領域に焦点化することを妨げてきたのである。

 

 マルクス主義は、言説という領域で力を振るえたかもしれないが、マルクス主義もまた限定と特殊化を加えてきていた。そのもっとも明らかな例は、物質的な社会過程全体を「労働」に特殊化することで、それはますます限定的に考えられるようになっていた。このことは、進化論的で、自然科学的な人類学という新たな科学への文脈を再び開くことができたかもしれない言語の起源と発達についての重要な議論に影響を与えた。代わりに起こったのは、「労働」という抽象的な概念を唯一有効な起源として適用することだった。かくして、現代の権威的な考え方によれば

 

最初に労働があり、次に言葉が分節され、この二つの主要な刺激の影響のもと、猿の脳は次第に人間の脳へと変化していった。(シュナイエルソン編『弁証法唯物論の基礎』モスクワ1967年)

 

 

これは抽象的な二段階の時間的発達を確立しただけではない。労働と言語とをつなぐ実践を強調すべきであったのに、両者を「刺激」に転化してしまっている。進化論的な段階は抽象化される。

 

労働の発展は、共同の活動、相互扶助を可能にし、共同体のメンバーがより密着することになった。労働関係は原始人に互いに語り、コミュニケーションする必要を生ぜしめた。(同上)

 

 

結局これは抽象的な刺激と必要の観念論である。実践としての労働と言語が進化的、歴史的に本質的な構成要素だと見る正確な唯物論理論と対比せねばなるまい。

 

現代人による言語体系がないところでは言語は不可能だという議論は、人間の手は道具を作りその使用を可能にするという古い理論とまったく同じである。しかし、道具は現代人の手の形よりも何千年も古いものである。人間特有の手が進化における道具使用の結果であるように、現代の言語生産の構造は言語の進化的過程の結果である。(J・S・ウォッシュバーン、J・B・ランカスター『現代の人類学』12巻3号1971年)

 

 

実践を本質とみなす理論、特に唯物論は、言語の活動的過程の問題を再び述べ直すことで、起源の問題を越える重要な影響をもたらす。それは「言語」と「現実」という範疇の分裂をも越える。だが、正統的なマルクス主義は、受け入れられた抽象的範疇を結びつける唯一説得力のある唯物論的説明として、反映理論に固執している。反映理論は、当初においては、実証主義的生理学から取られた粗雑な刺激-反応モデルに特殊に適用されたものだった。パヴロフの後期の作品における第二段階において、感覚と反応という単純な身体的システムとともに言語という特殊な性質をもつものを扱うために、「第二信号体系」という概念がつけ加えられた。なにもないよりはましだったが、それは言語を機械的やり方で「信号体系」の特徴と同化するものであり、実際には単純な連合のモデルを越えて意味の問題を扱うには適切でなかった。この点から出発し、L・S・ヴィゴツキー(『思考と言語』モスクワ1934年)は、いまだ「第二信号体系」という語を使ってはいるが、身体的知覚との単純な類推からは自由な言語と意識の新たな社会理論を提案した。子供における言語の発達や、「内的会話」という重大な問題についての彼の研究は、歴史的唯物論的観点のなかに新たな出発点を与えた。しかし、一世代のうちに、正統的なマルクス主義においてこれらは無視された。より古いモデルに基づいたN・S・マーは言語を「上部構造」に、単純な階級基盤に結びつけさえしたのである。他のマルクス主義思想が取った教条的な立場は、必要とされる理論的発達を制限した。マーの影響が、最終的には1950年のスターリンの発言、言語は「上部構造の一部」ではなく、言語はいかなる「階級的性格」ももっておらず、むしろ「国民的性格」をもつものである、ということに終わったのは皮肉なことである。皮肉であるのは、この宣言は議論をずっと以前の段階に戻し、マルクス主義者の用語における「反映」の身分、より特殊には「上部構造」の身分を疑問視するために必要であったからである。この時期までには、言語学は客観主義に特有であり特徴的な形式によって支配されるようになり、強力な構造主義と意味論の体系を生みだしていた。この時点において、他の領域、特に客観的に決定される体系の一般的形式におけるマルクス主義的立場は、純然たるマルクス主義的立場からは強く反対される必要がある言語理論に実際には統合されてしまっていた。

 

 こうした理論は、1920年代のレニングラードにおいて、意義深いマルクス主義言語学が事実上発生したときに、根本的に反対されたものだった。それは、V・N・ヴォロシノフの『マルクス主義と言語の哲学』の1929年と1930年の二つの版に最良の形であらわれている。第二版は英語に翻訳された(マテイカ、ティツニック、ニューヨーク、ロンドン、1973年)ヴォロシノフはドストエフスキー研究(Problemy Ivor cestva Dostoevskogo,1929年、新たな題の新たな版であるProblemy poetiki Dostoevskogo1963年)の著者であるM・M・バフチンペンネームであると広く信じられている。また、「メドヴェデブ」というペンネームもある(Formal'ny metod v literaturovedenii-kriticeskoe vvedenie v sociologiceskuju poetiku『文学研究における形式的方法:社会論理的詩学への批判的入門』1928年の著者である)。いずれにしても、便宜上、出版されたときのヴォロシノフという名で呼ぶことにしよう。

 

 ヴォロシノフの決定的な貢献は、強力ではあるが、部分的な表現と客観的システムの理論を越える道を見いだしたことである。彼は、マルクス主義の言語に関する思想は事実上存在しないと言うことで研究を始めているのだが、根本的なマルクス主義的用語のなかにその道を見いだした。彼の独創性は、他のマルクス主義者の観念を言語に適用しようとはしないという事実にある。反対に、彼は言語の問題のすべてを一般的なマルクス主義的布置のなかで考え直そうとした。そのことで、「活動性」(フンボルト以後の観念論の強みを示す)を社会的活動性として、「システム」(新客観主義的言語学の強みである)を社会的活動性との関わりにおいて、形式的にそれと分離できないものとしてみることが可能になった。こうした、二者択一の伝統から強みを引きだすことで、両者を並べて根本的な弱さを示すことで、彼は一世紀以上ものあいだ必要とされていた新たな種類の理論への道を開いたのである。