レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 15

 彼の努力の多くは、活動性としての、実践的意識としての言語への強調を取り戻すことで、それは閉鎖された「個人意識」や「内的精神」へ向かう特殊化によって結果的に否定されてきたものだった。この伝統は、閉じられた形式体系の二者選択ということを離れても、意味の活発な創造という主張に根強く残っている。ボロシノフは、意味は社会的関係に依存し、必然的に社会的行動だと論じた。しかし、このことを理解するには、観念論のように社会を受け継がれていく既製品であり「不活性な外皮」であって、創造性とはすべてそれを越えた個人的なものであるという見解からも、また、客観主義者のように社会を形式的体系に投影し、自律的に内的な法則のみによって支配され、その内部の法則によってのみ意味は生産されるのだという見解からも異なる「社会の」十全な意味を取り戻さねばならない。どちらの見解も、根本においては同じ間違いを犯している。社会と個人の意味のある活動とを分離しているのである(どちらの要素に価値を置くかで敵対する)。観念論的な心理学主義に対してボロシノフは「意識は社会的交流の過程である組織化された集団によって創造される物質的な記号によって始まり形をとる。個人の意識は記号によって養われる。そこから成長し、その論理と法則とを反映する。」

 

 通常、まさしくこの点において(そして、ボロシノフが再び価値づけ、使い続けた「記号」という概念を保持することで危険が増大する)客観主義が参加してくる。「物質的記号」は「記号の体系」と言い換えることができる。この体系は(ソシュールのように、「共時的」分析を「通時的」分析に優先させることで検証から守られるある種の理論的な「社会契約」によって)近寄ることのできない言語体系の法則や規範に従うしかないのとは異なり、個人が社会に意味深く参入する歴史や同時代の社会生活といった活発な概念化を越えたところにある。ボロシノフの議論は常に新鮮さをもったものだが、「記号」という概念の(不完全な)再評価において今日性がもっとも明らかである。

 

 ボロシノフは、言語における「記号」が「二項的な」性格をもっていることを受け入れた。(事実、後に見るように、こうした言葉を保持したことで彼の作品は根本的な批判を受け、見過ごされることになった。)つまり、彼は言語的記号がそれが指示し表現する対象や性質の単なる反映と等しいものではないと同意した。形式的要素とそうした要素がもたらす意味とがある記号内部の関係は、かくして不可避的に慣習的なものであるが(正統的な意味論の理論の同意を得るには遠い)任意※ではなく、重要なことに固定されてはいない。反対に、形式的要素と意味との融合は(この動的な融合があるからこそ「二項的な」記述は誤りに向かうことになる)活動的な発話と言語の絶え間ない発展における真の社会的発達の過程の結果である。実際、記号はこうした活動的な社会関係がある場合にのみ存在することができる。使用可能な記号とは――形式的要素と意味との融合――社会的関係をとり続ける実在の個人のあいだで連続的に行なわれる発話活動の産物である。この意味において「記号」とは産物ではあるが、「常に与えられた」物象化された言語体系であり、単なる過去の産物であるわけではない。反対に、有用な記号とはコミュニケーションの真の「産物」であり、個人が生まれ、そのなかで形づくられ、連続的な過程のなかで活動的に寄与する絶え間のない社会過程の生きた証拠である。社会化と個人化は一つのものである。単一の過程に結びついた側面であり、「システム」と「表現」の理論がそれを分け離しているのである。我々はそこで、物象化された「言語」や「社会」ではない活動的な「社会言語」を見いだすことになる。この言語は(実証主義や正統的な唯物論の言うような)「物質的現実」の単なる「反映」や「表現」ではない。むしろ、我々は言語を通じて現実を把握しているのであり、この実践的意識には、生産活動も含めた社会的活動が染みわたっているのである。そして、この把握は社会的なものであり、継続的なものであるから(「人間」と「世界」との、「意識」と「現実」との、「言語と物質的存在」との抽象的な出会いとは異なる)、活動的で変化する社会の内部でも生じる。この経験について、またこの経験に向けて――観念論や正統的唯物論のたてる抽象的な「主体」と「対象」の関係には失われた経験――言語は語る。あるいは、より直接的に言えば、言語はこの活動的で変化する経験の分節化であり、世界において力のあり分節された社会的存在である。

 

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 だが、分節の様態が特殊なものであることは真であり続ける。これはフォルマリズムが把握した真実の一部である。分節は形式的かつ体系的なものとして、見ることができ、ある観点から見られてもきた。物理的音は、他の多くの自然の要素と同じく、記号となりうるが、その相違は常に明らかである、とボロシノフは論じている。「記号はある一つの現実の部分として単に存在するのではない――別の現実を反映し、屈折させるのである」。あるものを記号として区別すること、実際にはそれは記号をつくりだすことだが、それはこの意味において、形式的過程である。意味の特殊な分節化である。フォルマリストの言語学者はこの点を強調したが、分節化の過程はまた必然的に物質的過程であり、記号自体(社会的に創造された)物理的物質的世界の一部であることを認めなかった。「音であろうと、物理的な塊、色、身体の運動などであろうと」。形式的な記号の使用を通じて意味を社会的に創造する意味作用は、実践的で物質的な活動である。実際、文字通りの意味で、生産の手段なのである。社会的物質的活動のすべてと切り離すことのできない実践意識の特殊な形である。フォルマリスムが述べたように、そして、表現の観念論的理論が最初から仮定しているような、「意識」のかつその内部での操作、社会的物質的活動からアプリオリに分離される状態或いは過程ではないのである。反対に、顕著な物質的過程――記号をつくりだすこと――そして、実践意識においてその顕著な部分が中心的な性質となっていることは、当初から他のあらゆる人間の社会的物質的活動に含まれている。

*1:※記号が「任意」であるかどうかという問題は狭い部分での混乱に基づいている。この言葉は、まさしく多くの言語的記号が事物の「イメージ」ではないことを示すために「像的」と区別されるために発達してきたものである。しかし、「でたらめ」、あるいは「偶然」という意味合いの「任意」が使われるようになり、ボロシノフが反対しているのはその意味である。