ブラッドリー『論理学』 22
§13.しかし、こうした込み入ったことはそのままにしておかなければならない。(言ってみれば)知覚にあらわれる実在は単一の瞬間にあらわれるのではないことを知ることで満足しなければならない。しばらく立ち止まり反省してみるなら、我々がどれだけ迷信にがんじがらめにされているかがわかるだろう。我々が実在を求めるとき、我々は空間と時間のなかでそれに出会う。絶えまのない変化の連続的な要素が我々の前にあるのが見いだされる。我々は観察と区別を始め、その要素は出来事の系列になる。そこで我々は大ざっぱに事を済ませてしまいがちである。実在する出来事には現実の鎖が存在し、この鎖がどのようにしてか我々を過去に送り、あるいは我々がそれに添って進み、環のところまで来るとその装置は止まり、それぞれの環を我々の「ここ」と「いま」として迎え入れるかのように語ってしまう。だが、我々はいまここに<ない>残りの環が同じように存在していると信じているわけではなく、そうであれば、鎖についても確かなことは言えないこととなる。そして、いまここにある環も確固とした実体ではない。それを観察だけしてみるなら、その部分がいかようにも分割できる流動的連続で、いくつかの他のいまによって区切りをつけなければいまとはならない。
あるいは、我々は、自分がボートに座り、時間という流れをくだり、岸には扉に数字のついた家が並んでいる、という具合に考えているように思える。ボートから下り、19の扉をノックし、再びボートに乗ると、突然20の前にいるのがわかり、前と同じことをして21に進む。その間にも、過去と未来のしっかりとした列が我々の前にも後ろにも拡がっている。
もし本当になんらかのイメージをもつことが必要なら、次のようなものの方が悪くはないだろう。完全な暗闇のなか流れの上に吊され、流れを見下ろしているのだと想像してみよう。流れには岸がなく、水面は浮遊物で覆われいっぱいになっている。我々の正面の水面には明るく照らされた場所がありその範囲をたえず広げたり狭めたりしていて、流れに過ぎ去っていくものを我々に示している。明るく照らされたこの場所が我々のいまであり、現在である。
もう少しこのイメージに乗っ取って進み、後の結論を先取りすることができる。照らされた場所と完全な暗闇があるだけではない。上流と下流双方に向いた青白い光が、我々のいまの前と後ろを照らしている。この青白い光は現在の光がもとになっている。我々の頭の後ろにはいまを照らしだす光を反射するなにかがあって、それが過去と未来に、よりぼんやりとした光を投げかけている。この反射の他は完全な暗闇である。光のなかでは、我々の真下に来るに従い明るさが徐々に上がっている。
このイメージでは、抜け目なくしようとするなら、二つのことをつけ加えられる。第一に、現在の光が我々の背後から発し、光を反射するものもそれを用いていることは可能である。どちらが正解かはわからないが、いまが過去と未来に投げかける光の源であることを我々は知っている。我々が唯一知っているのは浮遊物の流れだけなので、その映像がなければ過去と未来は消え去ってしまうだろう。それに、見失ってはならないもう一つの点がある。いまの明るさと、過去と未来の青白い光には相違がある。しかし、この相違にもかかわらず、我々は流れとそこに浮んでいるものを一つのものと見ている。相違を乗り越えている。過去、現在、未来における要素の連続性を見ることで我々はそうしているのである。そのため、異なった明るさであっても、浮いているもの、別の言葉で言えば、内容の同一性によってつながりが生まれ、流れとそれが運ぶものが我々にとって一つのものとなり、我々が見ているほとんどのものが自律的ではなく、他の力を借りた形容詞的なものであることを忘れさえすることになる。いまここを越えた時間と空間が現在がそうである意味においては、厳密には存在していないことは後に見ることになろう。それらは直接に与えられるのではなく、現在から推論される。光があたっているいまこことは、それらを超越し、我々の乗り越えるべきものが依拠している実在のあらわれであるがゆえにそう推察される。
§14.しかし、これは先走りである。現在我々が明確にしたい結論とは、実在のあらわれるいまここは不連続で別個の瞬間に限定されるものではない、ということである。それは我々が直接に関係をもつ連続的内容の部分である。調べてみれば、いまここの向こうに溶け込む縁にも、最初に与えられたもののなかにも流れのとどまるところはない。ここのなかにはここと向こうがある。時間における変化の絶え間ない進行のなかで、視点を最小限にまで狭めることはできるが、静止を見いだすことはなかろう。あらわれとは常に消え去り往く過程であり、我々が現在と呼んでいるこの過程の持続には定まった長さなどない。
もっと進めば、このような考察で我々が踏み迷うことはなかろう。さほど遠くない時期にこの問題には再び戻ることになるだろうが、いまは以前に述べた(§7)判断形式についてよりよい見地から再び議論をせねばならない。