ブラッドリー『論理学』 18

§5.こうしたことが現実を構成するいくつかの点である。真理はその一つをももっていない。それは観念の世界に存在する。観念は、我々が見てきたように、単なるシンボルである。一般的であり形容詞的で、実体でも個的でもない。その本質は意味のなかにあり、その存在を越えている。観念とはその存在を無視し、その内容を削減した事実である。現実から切り取られた事実内容の一部に過ぎず、なにか別のものを指し示すのに用いられる。観念は実在ではあり得ない。

 

 もし判断が二つの観念の総合なら、真理とは非実在物の接合に存することになる。金は黄色である、と私が言うとき、確かにある事実が私の頭には浮んでいる。しかし、普遍的な金や普遍的な黄色性は実在ではなく、他方、私が実際にもっている黄色や金の<イメージ>は、心的な事実として実際に存在しているにもかかわらず、不運にもそれは、私がなにかについて言おうとしているような事実ではない。既に見たように(第一章)、私は、金のイメージは私の心のなかで他の黄色のイメージと心的に結びついている、と言おうとしているのではない。私の心的な事実とはまったく別に、金一般はある種の色をもっている、ということを言っているのである。私は心的事実のある部分を取り除き、残った形容詞的部分をつなぎ合わせ、それを総合的な真理と呼んでいる。

 

 しかし、現実は形容詞のつながりではなく、そのようにあらわすこともできない。その本質は実体的で個的である。しかし、我々は形容詞をあやつりそれを普遍と一緒にすることで、自律的で個的な性格にたどり着くことができるだろうか。もしできなければ、事実はどのような真理においても<直接には>与えられないことになる。定言的な真理は存在し得ない。だが、形容詞は実体に依存しているので、実体は含意されている。そこで、真理は事実を<間接的に>指し示すことになろう。真理における形容詞的なものは現実を前提としており、この意味であらゆる判断は仮定に基づいていることとなる。判断とはすべて仮言的であり、直接に扱っているのは非実在だと告白することとなろう。

 

§6.より一般的な考察でも、恐らく我々はこの結果を早めることにしかならない。我々の外部にある事実は、我々のなかに真理という形で通る、あるいは忠実な鏡に自分の姿を映し出すという常識的な考えは、最も単純な考察によって揺さぶられ、混乱させられる。否定的な判断で主張されている事実とはなんだろうか。あらゆる否定において私は事物の世界に実在の対応物を見つけださねばならないのだろうか。論理的な否定において事実に対応するようなものが<なにか>あるだろうか。仮言的判断をもう一度考えてみよう。<もし>なにかがあれば、<それから>それ以外のなにかが続き、そのどちらも存在しなくなる、この発言は間違いだろうか。事実があってもなくても真実だと思われるが、もしそうなら、この発言が主張することのできる事実とはなんだろうか。選言的判断もまた我々を混乱させる。「Aはbまたはcである」というのは真か偽に間違いないが、いったいどうしてある<事実>が「bまたはc」おかしな曖昧さで存在することがあろうか。我々の「または」に答える具体性を見いだすことはほとんど不可能であろう。

 

 こうした難問があまりに技術的で、探し出してこられたものに思われるなら、より明瞭な例を取り上げてみよう。我々は過去や未来のことを気ままに話しているが、それは実在として存在しているのだろうか。あるいは、ごく一般的な定言的肯定判断「動物は死すべきものである」を取り上げてもいい。はじめは現実に密着しているように思われる。事実の接合が観念の接合とまったく同一であるように思われる。しかし、経験は、もし観念が形容詞的なものなら、この場合ではあり得ない、と我々に警告を発するだろう。納得できなければ、続けてみることにしよう。存在する動物は実在するものなので、「動物」は恐らく事実に対応しているように思われる。しかし、「動物は死すべきものである」で、我々が語っているのは存在している動物だけだろうか。我々はこれ以後生まれる動物も確実に死ぬということを言おうとしているのではないだろうか。実在の事物の完全な収集は、もちろん、実在の事物そのものと同数の事実であるが、未来の個体となると困難が生じる。それは別としても、一般的に、心のなかで完全な収集をすることもほとんど不可能である。「動物であればみな死ぬ」というのは、<もし>なにかが動物であれば、<そのとき>それは死すべきものである、ということを<意味している>。この肯定判断は実は仮定に関するもので、事実についてのものではなかったのである。

 

 普遍的判断において、判断が表現する形容詞の総合が現実の存在に見いだされることは我々がしばしば見てとることである。しかし、判断はそう言いはしない。それは単に我々自身の個人的な推測である。それは部分的には事例の性質からくるものであり、部分的には我々の悪しき論理学の伝統からくる。判断において結びつけられた形容詞は、存在する事物の形容詞ととることができるために、我々は自然にそれが当然のことだと思ってしまう。第二に、主語について「すべて」とつけ加えることは常に曖昧さを生じさせる。我々は普遍的なものを「すべての動物」という具合に書き、それをもって現実のそれぞれの動物、あるいは存在する動物の総計を意味させている。しかし、これは「ABCはそれぞれ死すべきものである」以上に普遍的な判断というわけではなかろう。そして、我々はそうしたことを<意味している>のではない。「すべての動物」と言うときに、集合のことを考えているにしても、我々は一瞬でそれを完全に想像することは決してできない。我々はまた、「これ以外に動物がいるとしても、それもまた死すべきものである」ということを言おうとしている。普遍的判断において、我々は決して「すべて」を言い尽くすことはできない。我々が意味しているのは「そのうちのどれか」、「どれであれ」、「いつであれ」ということである。しかし、それらには「もし」が含まれている。

 

 簡単な観察によってもっと簡単にこのことを見て取れる。もし現実の存在に関する主張がなされているなら、判断は存在と食い違うときに間違うこととなろう。だがそれはあり得ない。あらゆる動物が死に絶えたときには、死すべきものというのは誤った性質づけとなり、動物が再び存在するようになるとそれが再び真となる、というのでは運任せの主張だということになろう。こうした事例は存在するし、そこにはどんな疑いもあり得ない。「この土地に侵入したものは罰せられる」というのは、約束事であると同時に予言であることもある。しかし、それは予言しようとしているのではないし、誰も侵入するものがいなくとも、発言は真でありうる。「あらゆる三角形には二直角分の内角の和がある」というのは、もし三角形が存在しなくとも、滅多に偽になることはなかろう。もしこれが奇妙に思われるなら、シリアゴンの場合を取り上げてみよう。いまこの瞬間に誰もシリアゴンのことを考えなかったら、シリアゴンに関する発言は真であることをやめるだろうか。そんなことは言えないにしても、ではシリアゴンはどこに存在するのだろうか。確かに、いまこの瞬間に実際の存在として呈示できないような観念を結びつけた科学的命題が存在するに違いない。しかし、それらを生みだす科学が存在しないからといって、判断が<そのこと自体で>非実在で間違ったものだと主張できるだろうか。

 

 かくして、普遍的判断は常に仮言的である。それは「あるものが<与えられれば>、<そのとき>こうなる」ということ以上のことは言わない。真理は事実に関する言明をすることができない。