レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 11

 この言語の物象化の主要な理論的表現は、二十世紀に、客観主義的なデュルケム的社会学と密接な関係をもつソシュールの作品においてあらわれた。ソシュールにおいて、言語の社会的性質は安定しており、自律的で、規範的で同一の形式に基づいたある体系(ラング)としてあらわされる。「発話」(パロール)は「精神身体的メカニズム」を可能にする「特殊な言語コード」を「個人的に」(「社会」と抽象的に区別される)用いることと見られる。この深遠な理論の発達が実際に及ぼした結果は、あらゆる面において、まれに見るほど生産的で衝撃的だった。語源学の大部分は注目すべき言語研究によって補完され、言語は形式的な体系であるという支配的な考え方は、実際の言語操作やそこに潜む「諸法則」へと分け入る道を開けたのである。

 

 この達成はマルクス主義と反語的な関係をもっている。一方において、それは、比較分析、社会の各段階の分類化によって、体系的に進む段階に潜む変化の根本的な法則を発見し、「個人的な」意志や知性によってはアプリオリ到達不可能な支配的な「社会的」体系を主張するマルクス主義の重要でしばしば主導的な傾向を繰り返している。この明らかな類似性は、二十世紀中盤において影響力のあったマルクス主義と構造言語学とを総合しようという試みを説明している。しかし、マルクス主義者は、まず第一に、特殊で、活動的であり、様々な意味を結び合わせる歴史が社会活動を言語を中心にとらえることで消え去ることに気づかざるを得なかった(ある趨勢を理論的に排除することによって)。第二に、この体系が発達させてきたカテゴリーはおなじみのブルジョア的範疇であり、そこでは「個人」と「社会」との抽象的な分離と区別がごく習慣的に行なわれているので、それが「自然な」出発点とされるのである。

 

 実際、二十世紀以前には、マルクス主義者の言語学に関する論考はほとんど目立ったものがなかった。『ドイツ・イデオロギー』のフォイエルバッハについての章で、マルクスエンゲルスは純粋で指示的な意識に反対する影響力のあった議論の一部で、この問題に触れている。歴史の唯物論的概念の「諸契機」、「諸側面」を要約して、彼らは書いている。

 

根本的な歴史的関係として、四つの契機、四つの側面を考えてきたいまようやく、我々は人間が「意識」を有していることを見いだす。しかし、それは固有のものでも、「純粋な」意識でもない。その始まりから、「精神」は物質によって「担わされた」呪いに苦しんでおり、それは言語には至らない空気や音の撹拌にあらわれている。言語は意識と同じくらい古く、言語は実践的な意識であり、他者のために存在するまさにそのことによって私にとっても個人的に存在し始める。というのも、意識同様、言語も他者との交流への必要、必然性からのみ生じるものだからである。(『ドイツ・イデオロギー』)

 


この限りにおいては、言語を実践的で、本質的に活動的なものだとする考え方に完全に適合している。本質という観念が時間的に順序づけられた要素に分解し、異なった形で考えられるようになると難点が生じる。かくして、ヴィーコやヘルダーにおいて、言語が人間の自己創造において本質的な部分ではなく、人間性を基礎づける要素であって、人間性に関係があり入手されるものとして「主要」であり「本来的」だと考えられることには明らかな危険性がある。「始めに言葉ありき」というのは、まさしく「本質を構成し」、人間の自己創造と切り離すことができないものとして言語がとらえられている。他の関連した活動に先行するものと主張するのとはまったく異なることなのである。