ケネス・バーク『動機の修辞学』 47

.. 「知識の社会学」対プラトン的「神話」

 

 『イデオロギーユートピア』でカール・マンハイムが論じ、計画した「知識の社会学」は、マルクス主義的レトリックを中立化、自由主義化する目的をもった方法論だと言える。実在的、弁証法的、究極的用語法を区別する観点から見ると、それは純粋に議会的な弁証法は越えているが、究極的秩序には足りない部分がある。とりあえず、「前究極的」と呼ぶことにしよう。というのも、それは実在的秩序と弁証法的秩序との関係を正確に研究することによって、厳密さを増していこうとするものだからである。

 

 少なくとも、マンハイムの「相対主義」と「相関主義」との区別はそのように解釈される。「相対主義」はイデオロギー的観点の広範な多様さを認識し、多様なままに記述し、よくてもそれらがとりうる妥協点を探すことに止まろう。しかし、「相関主義」はイデオロギーとその背景を研究することによって、イデオロギーについての正確な知識を打ち立てることができる。

 

 この目的のために、マンハイムは、マルクス主義による「神秘化」の暴露を、<いかなる>教説の「仮面をはぐ」ものにまで一般化する。つまり、人間の動機に関する用語法は、必然的に偏っている。従って、いかに普遍的な妥当性を主張するとしても、その「原理」はある特定の集団の利害に都合がいい。そして、対立する理論家について、見かけ上は「普遍的な」原理に潜む党派的な限界を「暴く」発見をすることができる。

 

 イデオロギーの限界を「暴露する」こと自体、どうであろうと、限定された観点からなされている。しかし、そうした限定された各観点は、イデオロギーの普遍的原理とそれが意識的、無意識的に奉仕する特殊な利害との関係に光を投げかけることができる。かくして、各観点は、イデオロギー(それを体系化された言語行為と呼ぶことができる)と非言語的な諸条件(行為の行われる場面)との関係について何らかを明らかにできる。

 

 こうして、あらゆるイデオロギーとそれが生じてくる生存の条件との関係について正確な知識を得る者は、弁証法的操作のために修辞的党派性を使用できる。そして、この方法によることで、そうした分析の専門家は自分自身の立場の偏りを幾分軽減することができよう(対立する専門家同士が仲間の気づかれていない偏りを暴露することで、お互いにその偏りの超越に寄与し、普遍的に妥当だと思われる観点に向かって偏向を減らし、正確さを徐々に増していくことは可能である)。そうした手順によって次第に蓄積される体験知が「知識の社会学」をつくりあげることとなろう。

 

 そのすべてについて成果が上がったときにのみ、究極的な秩序を主張することができる。しかし、「イデオロギー」の本性についての絶対的知識にできるだけ接近しようと修辞的、弁証法的要素を体系的に活用することは、一般的意見とその背景を相対的に研究するよりずっと「究極的」秩序に近い。「相対主義」は、「相関主義」の弁証法的分野に必要な材料を提供する、実在に関する最初の予備的調査以上のものではないと言えよう。

 

 もちろん、こうした目的にあっては、マルクス主義も多くの声のなかの一つとなろう。そして、マルクス主義によるイデオロギーの定義は、切れ味が鋭く盛んに使われているので、マルクス主義自体もイデオロギーとして分析できるようになっている。すなわち、いかに究極的な語彙を装っているにしても、「知識の社会学」の観点からすると、偏りによる過度の重要視や過度の軽視から、党派性を完全に斟酌した修辞と弁証法の体系的な使用による完璧に均衡のとれた語彙へと向かう、重要ではあるが、一歩に過ぎない。

 

 ある意味において、「ユートピア」はイデオロギーの特殊事例に過ぎない。本質的に、ユートピアの偏向は進歩的で、未来志向だが、イデオロギーの偏向は保守的、あるいは反動的で、<現状>維持か以前の社会秩序の回復を目指している。しかし、マンハイムは「イデオロギー」という語を、両者を共に含む、より一般的な意味で使っているようである。この用法の転換は、歴史的条件が変化すると観点の働きが変わり、かつては進歩的な意味で使われていた語が保守的意味をもちうるという事実から必要となる。しかしながら、つけ加えて主張しておきたいが、もし用語の構造を十分にかつ密着して分析することができるなら、純粋に内的な分析によって、いつそうした性質の変化が生じたのか発見することができ、異なった時代にある語は異なった用いられ方をするといった知識だけに頼り切る必要はなくなろう。

 

 しかし、マンハイムの著作によると、ユートピアの観念にはもう一つの隠された要素があり得る。この「知識の社会学」の魅力の一斑は、社会学の一般的な行程を越えた、全く非社会学的な原因にあると信じるに足る理由がある。それは、千年王国研究の分析に基づいており、扱いにくい問題にも関わらず、決してその神話的挿話の反響が見失なわれることはなかった。かくして、我々は厳密に社会学的な取り組みがなされた場合よりも、より究極的な秩序を<感じる>ことになる。ここには、一度解体され再び寄せ集められたプラトン対話の要素を認めることさえできる。

 

 プラトンによって書かれた作品は次のように進行するだろう。最初に、異なった「イデオロギー」を代表し、修辞的に対立者の正体を暴露しようとする幾つかの声が設定される。次に、競合する修辞的党派の偏向を超越する一般化を成し遂げようとするソクラテス弁証法的試みがある。次に、そうした計画の理想的な目的についての彼のヴィジョンがある。最後に、神話、この場合は千年王国的なヴィジョンによる純粋に知的な抽象物で締めくくられる。神話はイメージと寓話による「純粋観念」の変形となるだろう。その本性上、有効範囲は限られており、字義通りの判断では、「科学的に」疑問視されよう。*

 

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 しかし、プラトン対話がこうした要求に従っている限り、結論における神話の偏りは、議論が始まったときの修辞的党派がもっていた偏りと全く異なるものであろう。というのも、神話は、そうした修辞的、あるいはイデオロギー的偏向が純粋な観念によって弁証法的に超越されるまでは生じることがないからである。しかしながら、神話がたどってきた段階を無視するなら、対立する「イデオロギー」同士の発言に明らかであったのとおなじ偏りと党派性を、そこに内包されるものとして認めることとなろう。そのとき「神話」は、「イデオロギー」が後ろ向きの党派性をあらわすのと対照的に、前向きの党派性をあらわしていると言えるかもしれない。次に、イデオロギ−と神話の双方の偏りを超越する方法をもった新たな弁証法を得るために、対話の諸要素をかき混ぜることもできる。

 

 弁証法の基礎にはこの相違が潜んでいる。プラトン的対話では、純粋に抽象的な観念から想像的神話への一歩は、下降でもあれば上昇でもある。下降というのは、抽象の純粋性からイメージの不純に降りているからである。上昇だというのは、新たな動機づけのレベル、純粋観念への弁証法的還元にはなかった観念を<越えた>動機づけが導入されているからである。

 

 しかしながら、もし神話的動機をイデオロギー的動機と同等に扱うなら、動機づけについて問題が生じる。というのも、もしあらゆる偏りをなくす方法が成功を収めるなら、社会からその主たる動機を奪ってしまうだろうからである。偏向が間違った前提であるにしても、それは前提である。それゆえ、人間の社会的動機から偏向(幻影)を取り除いてしまうなら、同じくらい切迫した社会的動機をどこに見いだすだろうか。これが、マンハイムが徹底的に「プラトン対話」を混ぜ合わせた末に直面する懐古的問題と思われる。というのも、熱のこもった人間的努力が、ユートピアの間違った前提でなければどこから来るのであろうか、と自問されるからである。周到な方法によって間違った前提や神話的ユートピアの幻影に対する熱狂を破壊しようとしているにもかかわらず、そう問いかけるのである。

 

 神話は通常、プラトン対話の初歩的な教えで取り組まれることがない、という事実によっても彼の試みは正当化される。神話が文字通りに取られる限り、それはイデオロギーとして働き、「知識の社会学」による斟酌が必要とされる。しかし、同じ社会学的な方法をイデオロギーと神話双方の偏向をなくすために適用するなら、その方法の成功は必然的に社会学的動機づけを超越することとなろう。神話的動機は、間違ったイデオロギー的動機が除去された後にも生き残ることができるという点でのみイデオロギー的動機と異なる。しかし、「知識の社会学」によって規定された斟酌の方法によれば、もはや生き残ることはできない。

 

 社会学的斟酌の方法に間違いがあると言っているのではない。社会学が動機づけの究極的な根拠を与えると期待するのは錯覚だというだけである。かくして、社会学的語彙の「前究極的」な性質は社会学そのものの本性と解釈されるべきで、究極的な動機の縁にまでは運んでくれるが、それを形づくることはできない。この点、神話は、全く社会学的ではない、それゆえ、社会学的間違いや社会学的知識に基礎をおいていない動機を形づくるのに必要となるかもしれない。そうした神話は常に偏った適用を斟酌されるべきであるが、形式的弁証法では、最初から神話の偏向した翻訳としての性質が形式上認められ得る。

 

 こうした諸段階を要約すると、

 1.不完全な観念(感覚的イメージに縛られた観念)の相互的な摘発。

 2.そうした偏りのソクラテス的超越。

 3.ソクラテスによる純粋観念の要約的ヴィジョン。

 4.純粋観念の神話的イメージへの翻訳。

 5.ここでマンハイムが介入し、第一段階と最終段階を同じ性質として扱うことによって、「知識の社会学」を発展させることを提案する。それゆえ、彼は両者の限界を斟酌することで(それらの偏向を「暴露する」ことで)方法を完成させるだろう。

 6.しかし、

 3から4の段階は単なる下方に向けての翻訳(「純粋観念」の神話的イメージの諸条件への具体化)ではない。というのも、純粋観念のレベルへの到達は、それ自体では<準備段階>に過ぎないからである。観念を<越え>、観念における言明には力を貸さない動機に直面するための準備段階である。<感覚的>イメージから観念に向かい、観念を通じて観念の終結に行き着くことではじめて<神話的>イメージには到達できる。実際、そうした究極的動機はイメージによっては正確に示されないだろう。しかし、人間に選択できるのは観念とイメージだけである。<感覚的イメージを弁証法的に超越し、観念を弁証法的に批判することで神話的イメージに統制を取って到達すること>は、神話的イメージ(弁証法的操作の実在的基盤を形成する純粋に経験的、あるいは概念的イメージとは対照的な)を単に字義通りに解釈することに対する防護になるはずである。

 

 しかし、神話的イメージが理性的観念を越えた動機を形づくるとしても、究極的な神話的イメージを対立しあうイデオロギーと同じ秩序として扱えば、イデオロギーに見いだされる以上の動機づけの要素を見いだすことはないであろう。

 

 あるいはむしろ、両者に本来ある質的相違は、いまでは、せいぜい、前向きなイデオロギーユートピア)と後ろ向きなイデオロギーとの差異くらいのと見られていよう。それゆえ、イデオロギーと神話(ユートピア)両者の偏向をただす限りにおいて、動機は失われることとなる。しかし、もちろん、神話を<イデオロギーの有効範囲を超えた場所で動機を形づくる>ものだと解釈すると、神話の動機は<対立しあうイデオロギーで扱われる動機づけの秩序を越えたものだ>と感じられる。イデオロギーの動機はそうではないが、神話の動機は「究極的な」ものとなろう。実際には、最盛期の神話は、ソクラテス的批判による予備作業もなく、文字通りに受け取られて<いる>——そして、その限りにおいて、イデオロギーとして警告を促す分析に力を与える。しかし、「神話の哲学」(プラトンの対話がそう呼ばれうるだろう)だけが、社会学的知識を越えた動機を形づくり、真実で究極的な普遍的基盤からの、そしてそれに向けた運動を形づくる神話の真の本質をあらわにできた。

*1:*ここではJ・A・スチュアートの『プラトンの神話』でのプラトン的超越についての考察を借用した。