ケネス・バーク『動機の修辞学』 30

.. マルクスの「神秘化」

 

 中世初期の修辞学理論を論じた箇所で(『スペキュラム』1942年1月)、リチャード・マッケオンは書いている。「カッシオドルスによれば、『修辞の技芸とは、世俗的な言葉の精通者が教えるものであり、市民社会の問題をうまく語る学である』が、この定義はほとんど同じ言葉でイシドール、アルクィン、ラバヌス・マウルスによって繰り返された。」ベンサムマルクスの修辞分析への貢献も同じ論点だが、彼らの政治的主張のために(あるいは関心の向けられる点が異なるために)修辞は市民社会の問題を悪く語る技巧、と定義されている。

 

 マルクス主義が「科学」だという主張がどのようなものであろうと、その用語は中立的な「行動に向けた準備」ではなく「行動への誘いかけ」である。この意味において、マルクス主義の説得力の多くが純粋な科学であることから来ており、「修辞」などは非マルクス主義者の弁明に用いられる意図的、無意識的なごまかしだと見なしているにもかかわらず、マルクス主義はどこまでも修辞的である。かつてあるマルキストが(それ以後彼は共産党を離れたのだが)左翼の批評家は「赤色の修辞学」を共同して研究すべきだと提案して仲間たちに当然にも強く非難されているのを見たことがある。ある状況において行動にもっとも効果的に影響を与えるスローガン、標語、信条を見いだそうと常に努力し、芸術においても「プロパガンダ」や「社会的意義」に好意的であるにもかかわらず、彼らは「赤色の修辞学」について語ることは許さなかったのである。彼らにとって、「修辞」とは資本主義者、ファシスト、非マルクス主義的用語(あるいは「イデオロギー」)の説得にのみ用いられるものである。

 

 だが、現実の実践においては、彼らの立場は(<mutatis mutandis!必要な変更を加えれば>)アウグスティヌスにかなり近いように思われる。すなわち、マルクス主義者は修辞学、説得法をもっており、それは弁証法を土台としている。修辞は言葉である。弁証法は、動機の非言語的な秩序に関わっているので、「科学」と等しいものとなりうる。そこで使われる技芸は、自然な現実の経験から来ている限り「科学」(あるいは「弁証法」)に基づいており、その説得力によってコミュニストの目的にとって好都合な判断、選択、姿勢の形成を助けるのに比例して修辞的である。これらはすべて十分明らかだと思われる。しかし、修辞自体は非マルクス主義の修辞と同じものなので、マルクス主義の説得は通常修辞でないものの名において提示される。

 

 『謬見の書』で、ベンサムは党派的な利害と普遍的な利害の双方を認めていた。党派的には、彼は、国会の論争を与党対野党の争いとして扱った。そして、「<与党>は現政権を握り、<野党>は次の政権に備えている」ので、その「悪意ある利害関係」や、彼らが守ろうとし、その利害を助長する謬見には相違を認めなかった。しかし、そうした党派的な分裂に加えて、「敵対関係にある者たちは、共同体全体の一員として普遍的な利害を分かちもっている。そうした意味では、彼らは普遍的利害の維持に必要と思われる立場をとることもある」と彼は観察している。

 

 人間の動機を包括的にとらえようとするには、ベンサムのこの区別は必須のものだと思われる。例えば、理想的な協力が、共通の犠牲者に対する共謀のように、悪意のある<党派的な>利益を得るためになされることもあり得る。だが、協力は、また、<人類一般>の利害に役立つ理想でもある。

 

 マルクス主義の修辞分析は、主として、ベンサムの「曖昧な一般化に関する謬見」に新たな光りを投げかけようとしたものだと言える。別の言い方をすると、資本主義の修辞の批判として、ブルジョアが<普遍的な>利害という都合のいい語の下に隠しもっている悪意ある<党派的>利害を開示(暴露)しようとする。マルクスは、ベンサムを「利害」にかかずらっていると言ってあざけったが、マルクス主義は「先入観によってもたらされる利害」というベンサムの考えに独特な性格を与えたのである。財産の分析において、マルクス主義ベンサムの与党と野党というある意味脆弱な区別の下に、建築学的に堅固な土台を置いた(実際、ベンサムも恐らく同意するだろうが、マルクス主義が示したのは、与党と野党の転換というのが、些末な宮廷内の革命にすぎず、行為者は一掃されても、その場面の病的状態は本質的になにも変わっていないことである)。そして、ベンサムは修辞的表現の背後の言語外的な状況的要素を調べ、「立法行為にも時間と場所の影響」を認識して、ある状況にとっていい法律も範疇としていいとは考えられないと見なしたが、マルクスは、そうした「状況に基づいた」思考をヘーゲル弁証法の修正と結びつけることで印象的に形式化した。まとめて言えば、このようにして、マルクスは恐るべき機械をつくりあげた。人類の誇りであった諸伝統を、それによって特別な利益を得る経済的社会的階級によって支持され、普遍的に適正なものとして、党派的な利害をより広い、より一般的な普遍的利害の名のもとに守るごまかしの「イデオロギー」だと言って粉々にした。

 

 こうした「イデオロギー」の働きをあらわにするためには、それが形成される「客観的状況」を徹底的に分析する必要がある。その言語外的状況を記述する言葉が正しい限り、外見上は「弁証法的」なものとなろう(非言語的事物と諸関係の問題に関して、「科学」に等しいという意味での「弁証法」である)。しかしながら、いくつかの重要な意味でそれは修辞と言える。(1)修辞的表現の言語外的要素を考えること自体(経済的利害がいかに表現様式に影響を与えているかあらわにすることは、「そのこと自体」を考えると、経済を完全に越えているように思える)、恐らく外縁ではあろうが、<教育的修辞rhetorica docen>の一側面である。(2)マルクス主義の語彙そのものが部分的で、党派的である限り、修辞的であり、対立する原理にも等しく共感的な表現を手に入れるまでは十全な意味における弁証法を手にできぬことになる(後に見るように、この反対意見は変更されねばならないが)。(3)利点について考える際、他の用語法(あるいは「イデオロギー」)の隠された利点を分析するだけでなく、そこから特殊な利点を引き出している。(ある種の<有用な修辞rhetorica utens>となる。)

 

 修辞理論としてのマルクス主義の主要原理は、多分、マルクスエンゲルスの初期の作品である『ドイツ・イデオロギー』でもっとも直接的に表現されている。マルクス主義の著作は「イデオロギー」という現在信望のある言葉に大いに貢献しているにもかかわらず、その言葉がマルクスの意味で使われることは滅多にない。そこで、それがもっていると思われるいくつかの意味を記すことから始めようと思うが、それらは互いに対立してるとは言えないまでも、その洞察しているところ、強調点がまったく異なる。

 

 1.それ自体において考察される観念の研究、発展、批評。(ソクラテスの対話のように)

 

 2.社会的政治的行動を目的とした観念の体系。(パレートの社会学ヒットラーの『我が生涯』)

 

 3.直接的、間接的に、市民社会に実際的な帰結をもたらす相互関連した言葉の一群。(ビジネスマンの公正な取引の規範がそのいい例だろう。)

 

 4.政治支配の目的のために考えだされた「神話」。(「イデオロギー」はここでは正確に「国家神話」の同義語となろう。)

 

 5.現実を部分的に、それ故ある程度欺瞞的に見る見方で、特に「先入観によってもたらされる利害」によって限定が加えられる場合。(例えば、南部の白人の知識人が「白人優位」のうちに建てられた<現状>に対してもつ「反語的な忍従」。)

 

 6.議論のある政治的社会的問題の論争において、故意に過度の強調をしたり過小評価したりする。(例えば、海外の不調に終わった会議から自国に戻ってきた政治家が発言するような場合。ラジオ番組では「うち解けた調子」で「率直で簡潔な事実の報告」をする。しかし、その報告は、別の側面からどう見られるかについていかなる暗示ももたらさないように周到に練られている。)

 

 7.文化の系譜の転倒で、<派生物>として扱われるべき観念を<原初>の観念とし、「幻影」と「神秘化」をもたらす。

 

 この最後の意味がもっとも難しい。というのも、『ドイツ・イデオロギー』の著者たちはこの七番目の定義から出発し、常にそこに戻ってくるばかりでなく、マルクス主義ヘーゲルの観念論の唯物論的修正だからである。この特殊な用法を我々が理解すれば、マルクス主義者が、政治的敵対者を「イデオロジスト」だと攻撃し、マルクス主義も「イデオロギー」ではないかと言い返されたときに、なぜそれに筋道の立つように反対できるのかが見て取れる。『ドイツ・イデオロギー』で使われている語の特殊な意味においては、マルクス主義が攻撃している学派や運動が「イデオロギー」であり、マルクス主義がそうでないのはまったく正しい。

 

 もちろん、言葉の戦争では、論争者が手にするものを何でも使って打ち合うことを妨げるものはなにもない。マルクス主義者が言葉に強い非難の意味合いを加えると、自分たちも同じ言葉で非難されるようになることは確かである(熱心に「ファシズム」を非難の言葉にしていた彼らが最後には「赤色ファシスト」と呼ばれることになる)。しかし、いまの目的のためには、マルクスが使う正確な言葉の意味を見るよう努めよう。というのも、問題を直視することによってのみ我々はマルクス主義の修辞学への貢献を理解することができ、マルクス主義の目的を超えた場でさえ適用できる原理を抽出できるからである。

 

 実際、反共産主義のヒステリーがマルクスを無視するよう脅しつけるのは浅薄さのしるしと思われる。(「脅しつける」と言ったが、今日の典型的教師がそうした理論的未熟さを「脅しつけ」られているわけでないことは我々も気づいている。彼はそれを歓迎し、積極的に教化されてさえいる。自分の国を自分自身の鮮やかな考えで飾ることができないのであれば、敵対者の鮮やかな考えに心を閉じ、愛国者だと自ら納得するくらいはできる。そうした傾向が広がっているのも驚くにはあたらない。多数者がなし得る否定的な種類の達成である。)

 

 マルクスが言うには、労働の分化と、それに伴い社会が異なった社会的経済的階級に分かれることから支配階級が生じる。同じように、手仕事と知的作業との相違から聖職者、哲学者、理論家、法学者といった、一般的に「イデオロジスト」と呼ばれる言葉(あるいは「観念」)の専門家が生れ、物事を自分の専門の観点からしか見ないために、人間の歴史において「意識」、「精神」、「観念」が演じた役割を過って解釈することになる。かくして、「物質」と「精神」との間の関係は、現実とはまさに反対になっていると思われる。財産と労働の分化が特有の諸観念をもつ支配階級を生み出した。経済的変化は支配階級の性質を変化させ(革命的危機のときには新たな支配階級が取って代わる)、支配階級の諸条件が変わるごとにそれが「観念」の変化に反映される。

 

 支配階級の「イデオロジストたち」は、それぞれの専門性を保ったまま支配階級の観念を完璧で体系的なものにする。そして、支配階級が主要な表現手段を支配しているので、支配階級の観念は「支配的な観念」となる。

 

 しかし、社会の経済的基盤が変わり、それに従って階級構造が変化したあとも、行き渡っていた観念が変わらずに残るのが記録というものの性質である。つまり、言葉や美的表現が一度記録されると、生れたときの形のまま保持される。

 

 さて、ある「イデオロジスト」が何世紀にも渡る記録をたずさえ、次々と展開していく「支配的な」観念を調査し、それらの観念「そのもの」を考察し、その発展を説明しようとしていると想像してみよう。もし彼がヘーゲル的な弁証法に従って進むなら、マルクスが攻撃している転倒した系譜を得ることになろう。彼は観念の特殊な一群を、精神、意識、<イデー>といったようなある総合的な称号、一般的観念をあらわす言葉で扱うことができる。彼は「支配的な」観念の継起(「名誉」、「忠義」、「自由」のような)を一つの普遍的な観念の表現であるかのように見なすことができる(すべてをあらわす称号を彼は要約の言葉として用いるのではなく、厳密に哲学的な意味における「主−体」、つまり、下に横たわる、底にあるものとして扱い、各段階はその属性あるいは表現と考える)。次に彼はその系列に、自由や自己意識の漸進的な増大というような方向を与えられる。そしてこの究極的な方向を全系列の本質として扱い、その目的に向けて全体は懸命に進み、その方向は最初の一歩にすでに内在していたと考えることができる。そして、この目的、普遍的な観念は全系列の内部で働く創造的な原理としてとらえられる。過程の各段階は普遍的原理の限定された表現となるだろう。その性質は系列のどの場所にあるかによって決定される。だが、その制限された性質の内部においてさえ、各段階は総体的発展の原理をあらわしているのである(植物の生長の各段階であるつぼみ、花、種が単一の生物学的連続性のそれぞれの時期における表現と呼ばれうるようなものである)。

 

 「観念」は、かくして普遍的で自己発展する有機体となる。その各段階は弁証法的な系列をなしており、所有、生産、規則が転換することで支配的な観念も転換する。しかし、それら支配的な観念は「純粋に」考えられる(個別な支配階級のではなく「絶対的観念」のあらわれとして)。絶対的観念は自然と歴史の創造者となり、自然も歴史もその具体的な表現にすぎない。それ故、歴史における<物質的>関係はすべて、経験世界にあらわれた普遍的精神の産物と解釈される。もちろん、この経験世界の研究には、所有をめぐる争いといった問題も含まれることだろう。しかし、マルクスが攻撃する類の「イデオロジスト」は、観念をこうした戦いに用いられる武器と考える代わりに、戦いそのものをすべての歴史的進展に内在する普遍的観念が表現される「契機」として扱うに過ぎない。

 

 この厳密にヘーゲル的な形式において、マルクスは実際的な人間ならほとんど支持しないような教義を攻撃しているように思える。だが、実際にマルクスの批判の論理を辿り始めるとわかるのは、ヘーゲルが多くの人間と異なるのはその考え方ではなく、<徹底性>だということである。マルクスは、いかにしてこの立場が信念の<体系>を生みだすか示している。非哲学的な精神で切れ切れに考える者が出会うのは、この「イデオロギー」の多様なばらばらの断片である。こうした断片は、ナショナリズムのような重要な問題にまで拡がっているので、我々の思考に潜むそうしたパターンを修辞的に批判することがこの上ない重要性をもつのである。

 

 マルクスたちはこうした「弁神論」の内情を明かす三つの詐術をあげているが、それは歴史における精神の「ヘゲモニー」あるいは「ヒエラルキー」によって「証明」される。(1)思想家は支配階級と支配観念を切り離し、観念を「純粋な」形で扱うことによって、歴史における支配的な力は「観念」や「幻影」だと結論づける。(2)観念は発達していく系列に配され、それらの間には「神秘的な」連関があるとされる(継起する観念は神的、絶対的、純粋な観念の部分として「自己確定していく運動」として扱われる)。(3)「自己確定していく概念」を徐々に増大する「自己意識」に置き換えることで「神秘的な外観」は取り除かれうる。あるいは、その発展を人物、思想家、哲学者、「イデオロジスト」といった「概念」の歴史における代表者に置き換えれば、完全に唯物論的な<見方>を取り得る(内在する原理は「神秘化」であるにしても)。

 

 修辞学の観点からすれば、『ドイツ・イデオロギー』の描きだす絵柄は次のようなものになろうか。

 

 個人的所有と労働の分化は同じものである。これは、観念の領域においては「幻影」や「神秘化」に導かれるが、重要な<状況を決定する>事実である。観念をその「純粋状態」において考えようとするイデオロジストの傾向は、人間関係を「意識」や「人間の本質」といった全体的な神−語によって説明しようとするが、社会にある典型的な戦いは<所有>に根ざしている。もし所有に関する反目があるとき、真っ向から向かい合う代わりに、深遠な普遍的意識の問題を考えたり、遠くかけ離れた形而上学的、神学的不安や人間性に固有の疎外を探したりするなら、あなたは「神秘化」の原理によって盲目にされているのである。経済的要因に関する重要なすべての点において、「イデオロギー」は「幻影」を、純粋に精神的なものの「出現」を導き入れる。帝国が<世界市場>を得ようと努めている場合には、「イデオロギー的」に、「普遍的精神」が考えられる傾向がある。国家内の諸階級が支配権をめぐって争っているような場合には、国家統一の幻影を与える様々な理想によって問題が混乱しがちになるだろう。

 

 金銭のために経営され、金銭のために売られる商品の広告料によって収入を得、金銭のためにあちらこちらで働いている人びとに読まれ、金銭に関する政治的、経済的、社会的出来事の記事(そのなかで優先順位が高いのは所有に対する犯罪の記事である)を配布するその同じ新聞が、啓蒙のために「自由」、「個人の尊厳」、「西洋人」、「キリスト教文明」、「民主主義」などについて語るが、それは、少なくとも<我々の>民衆や<我々の>政府、それより程度は低いが、<我々が>同盟を結びたい<国々>を動かす動機となるにしても、<我々が>争っている国々を支配する支配階級や派閥の動機とはならない。

 

 こうした「イデオロギー的神秘化」を用いることで難解な形而上学となる(あるいは、ベンサムなら「称賛による覆い」と言うだろう)。「国家」を無批判な観念として使うことは、ヘーゲル派が絶対について語るのと同じく、マルクス主義特有の意味において全くのイデオロギーである。ナショナリストの「我々」は少なくとも社説の「我々」と同様に疑わしく、「我々」には記者、読者、オーナーが含まれている(<ある点までは>読者と記者が<除外される>こともあるだろう)。

 

 弁証法的には、マルクス主義の分析は、明らかに、観念論が吸収の原理から始めるのに対し、分離の原理から始めると言えよう。そして、修辞の影響に関しては、所有や労働の分化に由来する社会の分裂が、統一的な言葉(ある種の所有構造を守ろうとする国家が財産をもつ者、もたない者双方を等しく代表しているように語られるとき)によって曖昧にされるときには、「神秘化」の働きを探しだすよう警告する。実際のところは、個人的所有が修辞的動機としてかくも説得力のあるものだとすると、現代産業の極端な専門化(労働の分化)の状況下で共産主義が可能なのかどうか、我々は疑問に思う。『ドイツ・イデオロギー』はそのときの気分で何でも屋のように仕事を次々と変える共産主義下の人間を明快に描きだしている(朝には狩り、昼には釣り、午後には牛を育て、夕食の後は批評をするが「漁師、漁夫、羊飼い、批評家になりはしない」)。そこで働く者にほとんどピューリタン的な厳密さを要求する現代の高度に専門化されたテクノロジーに対し、マルクスが描くようなディレッタント的な生活様式が真の共産主義社会のしるしだとすると、ソ連の産業の進化は、労働の分化から生じる裂け目(それに伴う所有の偏り、ばらばらな意識)のない世界からはほど遠いように思われる。

 

 しかし、我々はマルクス主義者がマルクス主義的分析を修辞的目的のために使う見込みがあると信じるべきではない。極度に労働が分化したテクノロジー社会で個人所有の廃棄が可能なのかどうか、マルクス本人の理論ではどうなっているのか問うことはできる。我々は現代産業の条件により適した所有構造を生みだす変化だけを期待している。国家によって生産手段が「所有」される場合、個人的財産は二次的なものとなり、労働者階級の各個人が様々な仕方で経済過程に参加し、そこから報酬を得ることになろう。しかし、そうした所有や個人的な将来財産の期待と権利の構造は、正統的な資本主義の評価基準によると個人財産とは見られないかもしれない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それを決めることはいまの我々の目的ではない。我々の目的にとっては、個人所有が神秘化の修辞を生みだすこと、社会関係に「イデオロギー的に」関わろうとする者は、明確な分離の言葉が必要なのに、霧のようにすべてを一緒にしてしまう言葉を使うものだ、という価値ある忠告を記すだけで十分である。

 

 我々はここで『ドイツ・イデオロギー』の完全な要約をするつもりはない。我々の現在の目的に関係するのは、「イデオロギー」分析が修辞学に貢献するその仕方である。形式的にいえば、一般的な、特殊な、個人的な人間の動機について語れるとき、階級闘争によって「観念」を扱うことは特殊な動機に強調点をおくことになろう。つまり、「人類の本質」のような普遍的な人間に関わる動機の代わりに、マルクスイデオロギーの<階級>性を強調する。そして、普遍的包括的な動機は特殊な動機を隠蔽するものとして(つまり、「神秘化」として)分析される。それ故、マルクスによれば、そうした特殊な、階級の動機を形成している所有関係を廃棄することによってのみ、我々は真に普遍的な動機づけを期待することができる。その上、そうした普遍的包括的動機づけは個人の解放を意味することになろう。それ故、弁証法的に動機づけの三つのレベルがそこに包含されることになる(全体、特殊階級的、個人)。共産主義下であろうと、社会的等級づけが職業の高度の多様化には不可避であると論じる者もあるだろう。しかし、その議論にここで決着をつける必要はない。ただ、精神の唯物論的批判とは、精神を修辞的技巧として分析するものであり、マルクス主義分析の背後にある弁証法的な対称関係とは、特殊階級的な動機を通して全体的、個人的動機を取り上げるものだということだけは記しておく必要がある。

 

 まとめると、「イデオロギー」は幻影、神秘化と等しく、人間の関係を絶対的意識、名誉、忠誠、正義、自由、実体、本質などによって議論することは、端的に言って、物質的な歴史が「精神」から生じてきたかのようにみなす「転倒」である(対照的に、弁証法唯物論の方法では、意識の変化は物質的状況の変化から生じる)。