幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈56

櫛箱に餠すゆる閨ほのかなる 荷兮 一句は、遊女の室中で、櫛などがある鏡台のあたり、白紙を折って新年の飾りの葉を敷いて、小さな餅を据えたところに灯火がほのかにさしている様子である。遊女たちは、幸先がよいことを願って、座敷の床の間に大きな鏡餅を…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』

しかしながら、じっとしているのが不可能だった兄は、残りの生涯をかけて悲劇の開拓に一心不乱に取り組むつもりだと宣言した。即座に仕事に取りかかった。すぐさま「スルタン・セリム」の第一幕ができあがった。しかし、すぐに表題が、韻律を無視して、より…

ブラッドリー『論理学』92

§7.しかし、(b)たとえこうした意味を拡がりに与えたとしても、この説は真ではない。いくつかの観念を比較したとき、より狭い意味をもったものが、常により広い適用が為されるわけではない。単純な例を取ってみよう。可視的という観念は、我々全てが認め…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈55

禿いくらの春ぞかはゆき 野水 禿はかぶろともかむろともいい、本来は髪がない意味で、髪振(振り乱した髪)という意味は間違っているだろう。髪を束ねないのを禿というのは、あるべきものがなく、冠もかぶっていないことからいうのだろう。『源平盛衰記』巻…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』25

しかしながら、この仮説は、他の無数にある説と同様、子供部屋の聴衆の持続的な共感を得られないとなると、続けられなかった。ある時には、彼は関心を哲学に向けたこともあるし、物理学のある分野の講義を毎晩我々に読み上げたこともある。このことは、我々…

ブラッドリー『論理学』91

§5.ある語が何も意味せず、何もあらわさないことも可能なことは容易に証明できよう。多分、このことに触れておくのは有益かもしれない。あらゆる命題が「実在」であることは既に見た(42頁)。語による命題は、「Sの意味はPである」と書けば、<明らか…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈54

初花の世とや嫁のいかめしく 杜國 「嫁」は「よめり」と読むべきであり、動詞から派生した名詞と読まなければここではよくない。「よめ」と読んで、字足らずなので脱字があるとして、「初花の世とてや嫁」とするひとがあるのは間違っている。この句もまた句…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』24

私の一番上の兄は、あらゆる点において非凡な少年だった。堂々としており、野心があり、計り知れないほど活動的だった。ロビンソン・クルーソーのように旺盛な生命力があった。そして、想像の及ぶ限り数多くの喧嘩をした。相手がいないときには、朝、西に向…

ブラッドリー『論理学』90

§3.その相違は「外延」と「内包」という用語によって表現することができる。これらの語は英国の公衆によって好まれており、「内包」という語の見境のない使用は優れた人のなかにも認められる。しかし、それらは論理学のためには有用ではない。不必要であり…

幸田露伴「あやしやな」

明治二十二年の短編。日本人が一人も登場しない。ある男が死に、殺人事件と疑われる。関係者のうち、妻と医者は容疑を離れ、夫婦の娘に乱暴をはたらき、自殺に追いやった伯爵が犯人だとわかる。ゴシックロマンス的な探偵小説を目指していて、幽霊のようなも…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈53

こつ/\とのみ地蔵きる町 荷兮 前句は漁師町近くの旧家などの古びた様子を句にしたが、ここでは石工の仕事場としていて、一転奇警で無理がなく、この句非常に愛すべきものである。きるは刻み削って形をつくりだすことである。石を出す地も多く、房州保田金…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』23

こうした新鮮な訓練を受け、五、六年が過ぎて彼の歳が私のほぼ倍になると、兄はごく自然に私を軽蔑した。そして、過度の率直さから、それを隠そうと骨折ろうとはしなかった。なぜそうする必要があったろう。誰が彼の軽蔑によって悩ましく感じる権利を持ち得…

ブラッドリー『論理学』89

第六章 判断の量【名辞の範囲】 §1.ある観念を考えるとき、その内容に注目するなら(1)、内包、あるいは含意を得る。その拡がりは、二つの異なった方向をもっている。それは一つの事例であるか諸例であり、観念的であるか現実的である。(2)それは究極…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈52

縄あみのかゞりは破れ壁落ちて 重五 蹴鞠をする場所を「かかり」というので、かがりを誤って鞠場と解したものもあるが間違いであり、取りがたい。蹴鞠の場は四方に竹の囲いを作るのが習慣で、壁、縄編みなど用いるとは聞いたことがないし、また、松桜楓柳を…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』22

それは常になく重々しい夏の午後だった。召使いと我々四人の子供は、家の前の芝生に集まって数時間のあいだ車の音を聞いていた。日没がきた————九時、十時、十一時、更に一時間が過ぎても————しるしとなる音はなかった。グリーンヘイには一軒しか家がなく、…

ブラッドリー『論理学』88

§31.あり得べき誤解のもとを取り除くよう努めてみよう。実際には、ある判断の否定は、常に判断そのものとは異なるなにかによって否定されることが主張されよう。かくして、例えば、「昨日は雨だった」は、雪が降っていた、あるいは晴れていたために間違い…

幸田露伴「是は/\」

質屋の佐野平に鹿鳴館から使いが来る。伺ってみると、貴婦人がいて、巨瀬金岡、古土佐、探幽応挙、容斎北斎などを気に入って七千円程度、千円だけ手付けにして取り置いてもらっているが、すでに日本で買い物をしすぎ、本国から送ってもらっているが、まだ一…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈51

月は遅かれ牡丹ぬす人 杜國 月は遅れ、いま少しでてくれるな、さて牡丹盗人となろうということである。前句を転じて、小三太に盃を取らせ、酔いをよそおいて戯れると見なしての付け句である。「月は遅かれ」の言葉づくり、何となく謡いめいて面白く、あるい…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』21

第二章で、私はこの上なく優しい姉妹たちの間で育ったことに深甚の感謝をあらわしておいたが、「恐ろしく戦闘的な兄弟たち」には触れなかった。とにかく、私にはそうした兄弟がひとりいた。私よりも年上で、クラスで最も激しい性格をもっていた。彼について…

ブラッドリー『論理学』87

§29.否定の否定が肯定である本当の根拠は、単に次のようなことにある。あらゆる否定において、我々は実定的な根拠をもっていなければならない。第二の否定における実定的な根拠は最初の否定によって否定された述部以外ではあり得ない。すでに<Aはbであ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈50

小三太に盃取らせ一ッうたひ 芭蕉 小三太は特定の人物の名ではない。ただその人柄をあらわすだけの仮の名である。旧註には、扈従の童であるとか子供だとしてある。主従のちぎりが深く、頼み頼まれる関係の侍などであろう。一句は前句を受けて、明日を必死の…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』20

第三章 戦いの世界の始まり かくして、私の生涯の一章は終了した。既に、六歳が終わるまでには、この第一章は一巡し、その音楽の最後の音が演奏されたのである————熟した果実が木から落ちるように、私の生を織りなしているものから永遠に引き離されたように…

ブラッドリー『論理学』86

§27.この問題につけ加えて、イェボン教授の精妙な議論についても述べておこうと思うが、残念ながら私にはその議論が理解できないと言わねばならない。彼は、「A=Bあるいはb」と言うのは不正確に違いない、と論じる。*というのも、「Bあるいはb」の…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈49

明日は敵に首おくりせむ 重五 これもまた前句を意想外のところに転じて、術つき力もきわまって、明日は敵に自分の首を授けることになろうと決心した勇士が、この命を捨てて戦死するには心にかかる雲もないが、ただ自分の瘤の異様に大なのを見て、情なき敵の…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』19

神は子供たちに夢のなかで、また闇に潜む神託によって話しかける。だが、とりわけ孤独において真理は瞑想的な心に語りかけられ、その礼拝において神は子供たちに「乱されることのない霊的交わり」を与える。孤独とは光のように静謐なものであり、光のように…

ブラッドリー『論理学』85

§25.こうした幾分基礎的な間違いから眼を転じ、排中律によってもたらされる実際の知識について考えてみると、とても吹聴するほどのことがあるとは思われない。たとえ事物それ自体のような主語について主張をなすようなときでさえ、我々は常に誤りに対して…

幸田露伴「一刹那」

明治二十二年の短編。露伴は他の作家と比較して、小説形式の仕掛けを工夫していて、この小説では「一刹那」という言葉をきっかけにして状況が変わる。短編だが、さらに三つの話から構成されている。第一は、放蕩の末財産をなくしていまはらお屋をしている男…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈48

口をしと瘤をちぎる力無き 野水 「瘤」ははふすべと読んでも、しいねと読んでもいいが、ふすべと読まれてきた。こぶである。『倭名抄』に従おうとする者はしいねと読むべきだろう。前句の縁さまたげの恨みを縁談不成立と見なして、ここでは花婿になろうとし…

トマス・ド・クインシー『自叙伝』18

この時、飽くことを知らない悲しみの衝動のもとで、得ることのできないものを捕まえること、僅かの材料からイメージを形づくり、それを熱望の順に分類する能力が私のなかで病的なほどに発達した。現在でも私はその一例を思い出すが、それは単なる陰や光のき…

ブラッドリー『論理学』84

§23.既に見たように、排中律は選言判断の特殊例である。このことは、いくつかの錯覚を吹き払う助けとなるだろう。 第一に、排中律は、それを使うことで、未知の深みから知識を魔術のように呼びだす、そうした呪文ではない。いかなる主語も二つの述語のう…