ブラッドリー『論理学』89
第六章 判断の量【名辞の範囲】
§1.ある観念を考えるとき、その内容に注目するなら(1)、内包、あるいは含意を得る。その拡がりは、二つの異なった方向をもっている。それは一つの事例であるか諸例であり、観念的であるか現実的である。(2)それは究極的には実在を指すが、直接に意味しているのは(a)内包に含まれているより具体的な観念、あるいは(b)内包によって性質づけられるようななんらかの個物である。かくして、もし「馬」が一頭の馬にある属性を意味するなら、内包が考えられている。「馬」に含まれる他の観念、つまり荷馬や競走馬が意味されるなら、外延が考えられている。また、個々の馬に用いられるなら、それも外延が考えられていることになる。
§2.いまではおなじみのものとなった区別に再びたどり着く。観念はシンボルであり、あらゆるシンボルはそれが意味するものと、それがあらわすものに区別される。記号は自分とは異なる何かを指し示す。我々が認めるそれらの事物の属性を、人為的にあるいは自然に伝えることによってそうするのである。言葉は、決してそれがあらわすものを意味したり、意味するものをあらわしたりしないと言うことができる。というのも、そうしたものと認められ、記号の内容と対応する事実の範囲というのは、事実そのものではないからである。抽象の場合でさえ、ある事例における性質が性質そのものでしかないことなど滅多にあるものではない。観念と実在とは異なったものだと考えられる。
多分、我々が密かに抱く理想とは、言葉があらわしているものを意味し、意味するものをあらわすことだろう。形而上学においては、こうした理想の要求を真剣に考えざるを得ない。しかし、論理的な目的にとっては、それは無視したほうがいい。意味は、意味がそれについて真である事実とは別のものだと仮定したほうがいいのである。事実は単数、あるいは複数の個物であり、観念は普遍的なものである。拡がりは内在に還元することはできない。