ブラッドリー『論理学』87

 §29.否定の否定が肯定である本当の根拠は、単に次のようなことにある。あらゆる否定において、我々は実定的な根拠をもっていなければならない。第二の否定における実定的な根拠は最初の否定によって否定された述部以外ではあり得ない。すでに<Aはbである>という確かな知識をもっていなければ、「Aはbではないというのは誤りである」と言うことはできない。そのことの根拠は、<他の>どんな知識も十分な根拠とはならないことに求められる。

 

 §30.簡単に説明してみよう。これまでのことから、Aがbではないという判断において、私がAにbとは相容れない性質を仮定していることはわかっている。それをyとしよう。私は自分の判断をいまでは否定したく思い、以前のように、新たな否定の根拠となるなんらかの性質を必要とする。bとは異なる性質を取り上げることとする。それは、yと相容れない性質zであり、我々の手に何が残されたか見てみよう。我々はbを排除するyを排除するAzを手にしている。しかし、これはどこにも我々を導かない。Aがbであるのか、あるいはbではないのかも区別がつかず、というのも、我々の知る限り、zはyがそうしたように、bを排除するかもしれないからである。結局、我々が得たのは「Aはbである」ことを否定する能力がないということである。しかし、我々が欲しているのはそうした否定が間違いであると主張するための客観的な根拠である。

 

 b以外のどんな性質をとっても同じ結果となる。bが不在ではないという唯一の確かな根拠は、bが存在していることを示すことにある。というのも、bの排除についての可能な根拠は無限にあり、bの否定を言い尽くそうとしてそれを無視することはできないからである。Aに関して可能性の数が選言判断によって既に制限されている場合にのみそうすることができる。そして、それはいま問題になっていることとは違う。

 

 例えば、我々が「究極的実在は知り得ない」という判断をもっており、この判断が間違いであることを主張したいと願っているとしよう。我々はそれが基づいている根拠を明らかにし、その根拠が妥当ではないことを示そうとする。間違いなく、我々のやり方は立派なものだが、それが与えてくれるのは元々の判断を疑い、それが基づいている根拠の真実性を否定する権利である。我々が元々の判断を<否定する>ことを望むなら、敵対者を退けることでそうはできない。実在が知りうるもの<である>ことを我々自ら示さねばならない。「Aはb<でない>」ことを否定する根拠は、「Aはb<である>」ことになければならない。