ブラッドリー『論理学』69

 §7.この過程は更に考えることになるが、その前にある間違いを正しておこう。二者選択は常に排他的であるのかどうか疑われる向きがあるかもしれない。「Aはbあるいはcである」はAが両方である可能性を認めていると言われるかもしれない。それはbcあるいbあるいはcである。確かに、通常の選言的な発言では、文脈から得られる意味そのままであることも、自分が何を意図しているかわからないこともある。しかし、我々の表現や思考の不注意な習慣が選言の排他的な性格に対する真の証拠とはならない。「Aはbあるいはcである」は「Aはbであるとともにcである」を厳密に排除する。ある人間が馬鹿かごろつきだと言われるとき、語り手は、その人間が両方であることを否定しようと<意図>しているわけではない。しかし、語り手は、その人物が両方であることを示すことに関心は示さず、bあるいはcのいずれかであることで完全に満足し、bcである可能性など思い浮かべもしない。見当違いのものと無視し、そうした可能性が存在しないかのように論じる。形式的に言えば彼の陳述はまぎれもなく間違いであるが、実際には彼の言っていることは正しい。というのも、彼はbcという選択を排除しているからである。

 

 しかし、不注意が常に安全であるわけではない。選言を正確で完全なものにし、我々が意味しているのは「Aはbあるいはcである」のか、あるいは「Aはbcあるいはbあるいはcである」のか知る決定的な瞬間の場合である。形而上学に最もよく見られる誤りは、誤った二者択一を掲げることである。bとcが相容れないのに述語としてbcを認めたり、bとcが両立できるのにbcを退けたりしたときの最悪の結論の責任は我々にある。先に挙げた例がまさしく我々に教えを与えてくれる。「ごろつきあるいは馬鹿」という選言が両者である可能性を決して排除しない、というのは誤っている。それは次のような間違いにも共通している。我々がある人間のふるまいを推測しようとするとき、まず彼が馬鹿であるかごろつきであるかを考え、確かにごろつきだということを論じてから、彼の行動は自己中心的な意図をもつものだろうと結論する。しかし、不運なことに彼は同じく馬鹿であり、その予測がまったく頼りにならないこともある。しばしば明確に語るのが不可能なこともあるが、不正確は不正確のまま残っている。そして、もし我々が「あるいはその両者」という選択肢を言葉にあらわさないなら、我々がそれを排除していることは確かである。

 

 もし我々が「Aはbあるいはcあるいはbcである」と言おうとしているなら、判断の過程は非常に単純である。Aは存在し、限定される。bcという領域において決定される。Aはbとcそれにbcと両立できないすべての性質を排除する。bcにはbとcそれにbcがあり、それ以外のものはない。そして、それらは互いに相反するので、Aはそのうちのどれかである。事実はここまでで、次に仮定がくる。このように決定されたAがbとcを排除するなら、それはbcでなければならない。cとbcを排除するならbで、bとbcを排除するならcでなければならない。もちろん、相反の数はこの過程の本性には関係がない。

 

 §8.しかし、我々の注目した不正確さは自然な根拠をもっている。我々は「あるいは」という語をある意味を込めて使いがちであり、「あるいは」をそのままの意味で用いたのか、なんらかの性質をつけて用いたのか忘れてしまうこともある。簡単に例を示してみよう。ある規則をつくり、「切符の数が限られているので、各人は赤い切符か白い切符を手に入れることになります」と言ったら、両者が両立不可能なことはすぐに理解される。切符というのがここでは<多くとも>一枚であるのは明らかである。しかし、私が「白か赤の切符をもっている者以外はこの囲いのなかに入る資格はない」と言ったら、両方をもつ者を排除しているとは言えなくなる。切符はここでは<少なくとも>一枚を意味している。それぞれの場合の「あるいは」は異なった力をもっていると容易に誤解され思いこまれることとなる。

 

 しかし、どちらの場合も、「あるいは」は正確に同じことを意味している。第二の場合も第一の場合と同様、厳密な選言である。しかし、第二の例では「あるいは」は独り立ちしていない。表現されていない「もし~でないなら」、「~がない場合は」によって性質づけられている。この含意が決定的な相違を形づくる。