トマス・ド・クインシー『自叙伝』3

 私の父の蔵書について記すにあたって、一言だけ付け加えたい。というのも彼のことを記すことは彼の階級を記すことだからである。蔵書は広範囲に渡るもので、英国とスコットランドの文学が過去から現在にかけて揃えられていた。一冊の本を歴史、伝記、航海記、旅行記、小説、通俗宗教書と分類することは不可能で、そうした分類はなかったのである。そしてこれらに加えて(ペナントのもののような)地方の旅行記と地誌のかなり完全な収集があった。それらの多くは沢山の図版があったので子供たちの記憶にずっと残った。しかし一つの事は留意される。つまりすべての本は英語のものだったことである。私の父にも母にも、同時代に母国語で書かれた何千という書物よりも優れたものであるわけではない外国語の本でテーブルを飾ろうとするような衒いはなかった。或は、言葉の全体的な力や価値に口を通じて親しんでいない者にしばしばありがちなように、その内容を曖昧に疑いをもちながら一字一字骨折って読むようなこともしなかった。現代の文学者の机の上によく見られる無神経でもあり消化不良でもあることは、楽しめるような状態にもないのに六種類或は八種類の異なった言葉の本が並んでいることで、そのどれ一つとして真に気取りなくその言葉本来の豊かさをもつといえる程度にも習熟してはいないし、真になんの衒いもなくその言葉に飾りのない喜びを見出せるような状態でもないのである。また、自分の所のものを掘り尽くしたのでなければ、異国の贅沢品を楽しみだけのために輸入する理由がどこにあろうか。ダマスクスの川であるアバナやパーパーイスラエルの他の水よりも本当に良いものなのだろうか。実際には、言語を学ぶのには異なった理由があるのだが、それについてはここでは言わない。しかし、文学の贅沢さが問題になっているのであれば、なぜデンマーク人が英語を学ぶのかを理解することはできる。というのも、その自国の文学が幅広くもなく独創的なものでもないからである。かの国の最近の作家たちは、より大きな読者をにらんでドイツ語で書くという特徴がある。スペイン人やポルトガル人でさえ、多少の骨折りの末に英語やドイツ語を習得しようとする十分な理由がある。彼らの国の文学には、二、三の素晴らしい宝石はあるが、すべての分野が十分に装備されていることはない。しかし彼らはケレスの贈り物を団栗のために捨てるようなことをしているのではないだろうか。これは人間の進歩についての古い神話的な物語の反対である。例えば、いま英国の文学の分野で最も豊穣なのは、エリザベス治下の時代から議会戦争まではたまたま劇文学である。こうした、人間の生活を絵画的な手法で、社会を独創的な人物描写と性格造型であらわしたものはどこにもないし、わが国においても周期的に発生するものではない。ギリシャ悲劇は同じように興味深く価値のある文学の一部門に過ぎない。いまこの部門の文学を充分に知る者はほどんどいない。喜劇的な描写でシェイクスピアに迫ったボーモンやフレッチャーの力強いスケッチでさえ埃をかぶっている。そしてこうした事態のとき、二十年程前にはアルフィエーリの無味乾燥な無趣味が婦人の閨房に入り込んでいるのを我々は見る。この特別な例、この生気のない生の描き手、非劇的な劇作家が過度の賞賛を受けたについては、たまたまその時彼の回想記が出版されたためだというのは本当である。またその面白味のない、生命を保ち続けることのできない劇がそれ以来長い間忘却の底に沈んでいることも本当である。しかし彼ほど優れていない作家たちがいまだ後に続いている。ある作品の本当の主張を感情において試すほど充分に言葉を習熟していない読者にはあることなのだが、彼らは作者によってもたらされる喜びと実際には困難を克服することに自然に結びついている歓び(1)とを間違ってしまうのである。

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*1:1.この独特の間違いは、疑いなくギリシャ文学の凡庸なものにさえ過度に高い評価を与えることの主要な原因である。