ブラッドリー『論理学』88

 §31.あり得べき誤解のもとを取り除くよう努めてみよう。実際には、ある判断の否定は、常に判断そのものとは異なるなにかによって否定されることが主張されよう。かくして、例えば、「昨日は雨だった」は、雪が降っていた、あるいは晴れていたために間違いである。しかし、いずれにしても元々の判断とは異なる根拠によって否定されうる。「雨が降っていた」の二重否定の帰結は、「雪が降っていた」でも「晴れていた」でもあり得る。「雨が降っていた」に帰りつくためには、二重ではなく三重の否定が必要となろう。

 

 しかし、この反論は誤解に基づいている。「雨が降っていた」ということを否定するとき、私がそこになんらかの相反する性質を含意し、それを用いていることは完全に正しい。私の心のなかにあり、根拠としてもっているのが、「雪が降っていた」であったり「晴れていた」であったりするのも同様に真である。しかし、否定がそのどちらかに実際に拠っていると結論するのは間違いである。心に何を抱いていようと、あなたの否定が「雪が降っていた」か「晴れていた」のどちらかに委ねられていると無理に認めさせることのできるような論理はあり得ない。我々が否定において<用いる>のは<全面的な>相反ではない。我々の目的に答えてくれるのは部分的な相反である。否定が主張するのは、「雨が降っていた」という判断を排除するに十分なだけの性質が存在することである。この普遍的な「十分さ」は「雪が降っていた」にも「晴れていた」にもあり、<それは>「雨が降っていた」という判断では追い払うことのできないものである。別の言葉で言えば、「雨が降っていなかった」と言うと、すぐさま実定的な「なぜなら」に関わり合うことになるが、特定されない性質以外のものに関わっているわけではない。この性質の証拠は、最終的には矛盾する主張の存在に見いだされねばならないが、単なる矛盾は、なんらかの個別な相反を主張するものではない。それは単に<なんらかの>矛盾を主張し、「雨が降っていた」という判断によってのみそれを免れることができる。我々はここで再び、前に見た(第三章§19)否定の使用を不確かなものにする、恒常的な曖昧さを見いだすことになる。私が咎めたような誤りを犯すことなしにここで二重否定について扱うことは非常に困難でほとんど期待がもてないだろう。