ブラッドリー『論理学』78

 §11.矛盾の原理が事実についての言明なら、それは相反は相反であり、排除し合うものは融和させようとするどんな試みにもかかわらず両立不可能なままだという以上のことは言っていない。また、それを一つの規則として呈示するなら、それが言うのは、「矛盾するものを思考において結びつけようとはするな。なんらかの主語になんらかの性質を加えようとするとき、主語をまったく変わらないものであるかのように扱うべきではない。ある性質をつけ加えるとき、単に主語を前と異なったかたちにするというのではなく、完全に変えてしまうのであり、それをもとのように扱うことはできない」ということである。これが矛盾の公準に安心して与えることのできる意味のすべてである。この意味は、以前の議論を思い返してみるとすぐ明らかになるように思える。相反するものが常に矛盾の基礎にあり、矛盾は相反するものの一般的な観念である。例えば、非AはAのあり得るすべての相反をあらわしている(第三章§16)。

 

 §12.我々は矛盾を扱うにあたって、同一性の本性を曖昧なものにしたのと同じ間違いをしないようにしなければならない。そこでは同語反復を生みだすように命じられ、それ以外のものを生みだすことを禁じられさえした。「Aは非Aではない」はAが単なるA以外の何ものでもあり得ないことを意味するととられる。繰り返しになるが、これはいかなる差異もない単なる抽象的な同一性の間違った主張である。それはAとは<異なる>すべてのもの、その意味で非Aであるものを、Aの性質としては否定するよう我々に命じる。しかし、差異と相反とは混同するべきではない。差異は相互に排除し合うことはない。それは差異の否定のみを排するのである。Aと相反するものはどのような主語においてもAと共に見いだされることはないし、主語とその属性という関係で結ばれることもない。Aとの差異は、それをAと同一化しようとしない限り排除されることはない。それは一般的なAではなく、Aとの単一の関係であり、それが拒否される。

 

 既に見たように、どの性質が実際に相反するのか教えてくれるような論理的原理は存在しない。実際、形而上学はどこから先が両立不可能の領域になるのかについて自問しなければならない。それを解決はできないにしても、問題として認識していなければならない。どんなものも隣り合っていられる間は排除し合わないし、両立不可能性は同じ領域を複数のものが占めるときに始まると言うことはできる。そして、我々の難問を解く鍵は空間に見いだされると結論づけようとするかもしれない。しかし、肯定と否定、苦痛と快のような経験も両立不可能であるので、我々の説明が不十分であることはすぐに明らかになる。しかし、論理学では、原理を議論するよう求められているのではなく、事実に依拠することを求められている。ある要素が両立不可能な<ものとして>見いだされる。それがそうであるなら、そのようなものとして扱わなければならない。