トマス・ド・クインシー『自叙伝』24

 私の一番上の兄は、あらゆる点において非凡な少年だった。堂々としており、野心があり、計り知れないほど活動的だった。ロビンソン・クルーソーのように旺盛な生命力があった。そして、想像の及ぶ限り数多くの喧嘩をした。相手がいないときには、朝、西に向かうときには前方を走る自分の影を喧嘩相手に決めたのであって、影は忠実な子供のように、存在の本体である主人の背後に恭しく従うべきものであるからそれも道理ではあった。自分でたまたま書くことになった本を除けば、本はどれもこれも嫌っていた。そして、自ら書いた本は少なくなかった。人間に知りうる限りのあらゆる主題、英国教会の三十九箇条から、花火、手品、白魔術に黒魔術、まじない、降霊まで、彼はえり抜きの評価でもって世界(私が妹たちと暮らしていた子供部屋の世界である)を愛していた。特に、最後の降霊に関しては、彼は非常に偉大だった。断片的で、不運なことにシンデレラのもとから散逸して長いこと経ってしまっているその深遠なる作品は、「霊をいかに呼びだすか、しかる後それをどう鎮めるか」と題されていた。彼が我々に請け合ったところによると、名前を挙げれば一フィート半にも及ぶ学識優れた多大な霊が彼に補遺をつけることを約束していた。その補遺は紅海やソロモンの印付き指輪のことを扱っていた。不従順な霊には収監礼状が出された。霊のなかで反乱や暴動が起きれば、恐らく、バリケードが立てられようとするだろう。そうした事態、つまり、無限の世代を巻き込んだ霊たちの連合、厳粛同盟、陰謀が地球を守るために形成されたたった一つの世代に向かってくるのだと想定して、彼はしばしば我々幼い者の心をぞくぞくさせた(ありそうもないことだと断言はしたが)。人が死ぬことをあらわすローマでの言い方————すなわち「Abiit ad plures」(亡き人の数に入る)————について兄は我々に説明した。生きている人間の数など、たとえ結集し、協力して行動したとしても、我々以前にこの地上を歩いた数え切れない世代に較べれば、驚くほど少数派でしかないことを我々は容易に理解した。生者の議会など、上院下院を併せたとしても、霊たちの議会の両院に較べたらなんとみすぼらしい陣容だろう。霊たちの軍隊では、恐らくアダム以前の者たちが一翼を形成するだろう。この兄は十六歳のときに死んだが、ワーテルローを見る、あるいは予見するには十分だった。生者と先祖の霊たちの凄まじい闘争は、一八一五年の六月十八日昼の三時、それを見る者に震えんばかりの関心を呼び起こしたに違いないワーテルローでの大規模な戦いを恐ろしい幻影として描きだしたものだったかもしれない。戦いによって多大な苦しみを受けた英国軍は、角陣を取り、驚くほど狭い数カ所の幾何学的な図形のなかに押し込まれ、縮こまっていた————この軍隊に多大な信頼と関心、危うい均衡の上に立つキリスト教国の希望を託した哲学的な目撃者にとって、遠くから見られるその薄っぺらな四角形はいかに儚く思われただろう。こうした不釣り合いは、可能であるはずの収穫と、それを刈り取るものがごく少ない幽霊との戦いにしか存在しないように思われる。こうした類推よりも更に悪い危険がワーテルローにはあったことが証明された。実際、八折判二巻の書物で英国の軍医が示そうとしているところによると、英国の着実さを動揺させようとする浅ましい目的のもと、一斉射撃によって、また、貨車を爆発することによって、猛烈な戦いのさなかパニックをたきつけようという陰謀が二、三の外国軍のあいだで広まっていた。しかし、その証拠は明確なものではない。ところが、事実は、兄の主張するところによると、人類のあいだに広範囲にわたって紛れ込み、我々に対して裏切りを行う偽物の人間の存在が、すべての真の哲学者たちの満足がいくように証明されたのだった。誰がこの偽の、見せかけだけの人間なのだろうか。実際のところ、彼らは数世紀の間に死んでしまった人間で、彼ら自身にしかわからない理由からこの地上に舞い戻り、我々の間を歩き回っていて、最も熟練した霊媒師でなければ、血肉を備えた本当の人間と区別がつかないのである。私はこのことを、同じような狂気は人間において永遠に繰り返されるものであるという事実を示すために述べたのであり、その一例は注に見られるだろう。(1)

 

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*1:(1)五年前、実際家、思想家にかかわらず広まった無秩序な馬鹿騒ぎのなか、「新たなる啓示;あるいは、実体化した死者とそれに気づかぬ生者との交渉。によるつまらない作り事の混じらない重要なる事実」と題されたしっかりした印刷のパンフレットが出版された。残念ながら私はを存じ上げない。しかし、彼がこの法外な主題について、極めて真面目に書いていることは認めざるを得ない。彼は、予想されることではあるが、スウェーデンボルグの妄想に怒っている。しかしながら、その幾つかについては近年その見方が際だって変わってきている。だが、にとってはそうした妄想を受け入れることなどあり得ないのであって、というのも(6頁)、「死者がこの世に現れるという事実を知る幾人かの人間に会った」からである--habes confitentem reum.しかしながら、かくも率直なる人間はそうはいない。文学の名誉のためにも、特に私を悲しませたのは、10頁に、そうした偽物の多く、恐らくその最も不誠実な者は制作物の「大多数」が贋作であると思われる「出版社や印刷業」に見いだされるというのである。問題をここまで率直に語った者はほとんどいないし、思うに、無礼だと思われることなどまったく気にしていないのである。しかし、大部分の者はそれをきっぱりと否定するだろうし、偽物だと非難し続けたら、警察を呼ぶことになろう。私の兄との間には幾つかの相違があるが、おおよその見方では一致しているのである。