ブラッドリー『論理学』91
§5.ある語が何も意味せず、何もあらわさないことも可能なことは容易に証明できよう。多分、このことに触れておくのは有益かもしれない。あらゆる命題が「実在」であることは既に見た(42頁)。語による命題は、「Sの意味はPである」と書けば、<明らかに>実在となる。しかし、主語が明確な意味をもたず、完全な記号でもないような判断が存在する。「magistriはmagisterの属格である」といった陳述をとると、ある種の語は拡がりも内在も欠いていると主張したくなろう。
「テオフィロスはギリシャ人である」、「テオフィロスは神への愛である」、「テオフィロスは麻疹である」。最後の文は人が病気であることを伝えている。第二の文は名の意味である。最初の文は、語が記号体系の一員であることを保証はするが、語があらわすもの、語が意味するものはなにも与えてくれないように思える。もし記号が<明確な>意味をもつなにかだとすると、すべての語が記号だとは言えない。音だけを知っていて、それが記号であることは知らないかもしれない。なにかをあらわしているが、それがなにかはわからないかもしれない。なにかを意味しているが、なにを意味しているのかわからないかもしれない。
それで終りではない。一般的に使われる拡がりと内在の最後の残りも消え去る運命にある。私は語を雑音として扱うこともできる。「あの男を見たときにあなたはなぜ<テオフィロス>という雑音を出すんです。<テオフィロス>というのは気持ちのいい音ではありません。」ここには意味作用もなければ意味もなく、もはや語さえないことになる。しかし、ここでも、ごく初歩的な形で、我々は拡がりと内在とをもっている。<テオフィロス>に含まれる二つの要素を区別することができる。ここにさえ、普遍的なもの、抽象と一般化の産物がある。様々な調子、発する人間の違い、場所と時間の違いのもと私の聞き取る音が全体の一側面である。他方の側面は、<この>特殊な発言と、可能な個別の発言である。こうした要素がこの発展の初期段階にも共存している。間違いによるのでなければ、我々は両者を切り離すことはできない。
§6.永久に「内包」といった語は捨て去り、そこから生じる誤りを一掃しよう。もう一つの教義、先のものほど人を惑わすものではないが、同じく根拠のない説に移ろう。拡がりと内在は関係しており、しかもある種の仕方で関係していなければならない、といわれる。一方が少なくなれば、他方が多くなければならない。この陳述は、しばしば、真でありかつ重要なものとして遇される。私にとっては、それは常に間違いか取るに足らないものに思える、と告白する。
(a)拡がりをその意味が真である実在する個物の数を意味するととると、拡がりの増加が意味の縮小をもたらすというのは馬鹿げた誤りである。子供をもつ論理学者は、事実に則った三段論法によって、自分の説は証明されないことを見いだそう。いくつかの前提を組合わせた結果は疑いなく子供を驚かし、経験に何かをつけ加えるが、子供の言葉から察するに、その「理解」を減じはしない。新たに得た例によって、<人間>を<笑う動物>とする定義は破壊されるかもしれないが、それによって刈り取られた意味は大部分他の属性によって補われる。彼は、決してそんなことを言おうとは考えていなかったこと、子供は<すべて>災いだ、と言うことになるかもしれない。
新たな例が、本質的だが見過ごされていた属性を発見することによって意味を増やすことは明らかである。こうした意味に理解されると、上記の説は誤りである。それが「実際の」個物にとっては「可能だ」と書いてみても、意味の減少は数の増加を必要とはしない。可能というのが、存在されると推定されるものを意味するなら、複雑なものは単純なものと同じぐらい可能だと言うことができる。しかし、実際には単純なものはそれ自体で存在することは不可能である。しかし、可能が人為的で任意の考え方から生みだされうるなら(203頁)、我々は今扱っている拡がりの意味を明らかに置き去りにしている。拡がりは個物のうちに存することをやめる。分析が意味を見いだすことのできる属性の集合となるのである。