ブラッドリー『論理学』 15

[それは精神において扱われる最初の普遍に由来する。24-26]

 

§24.英国では、「経験の哲学」の真理の伝統に忠実なあまり偏見が積み重ねられ、ほとんど事実に対する訴えかけが無効になっているのではないかと私は恐れる。しかし、私はいかに無益なことであろうと事実を述べるつもりである。個々のイメージが連合するというのは真実ではない。低次の動物において普遍的な観念が決して用いられないというのも真実ではない。決して使用されないのは個的な観念であり、その連合で、個別性が刈り取られる過程以外では何ものも連合されることはない。最後の言葉については以下において詳述しなければならないが、ここでは、個的な観念が原始的な精神に最初から備わったものだという誤った主張を扱うことにしよう。

 

 第一に、低次の動物が個物について観念を有していないことは歴然としているように思える。ある事物が世界に一つのものであること、他のすべてのものと異なっているのを知ることは、単純な仕事ではない。それに含まれる識別について考えてみるなら、それが精神に後になってあらわれたことがわかるに違いない。そして、事実に立ち戻ってみると、我々は優秀な知性をもった動物たちが明らかにそれをもっていないこと、あるいは少なくとも、それを有していると考えるに足るどんな根拠もないことを見いだす。過去の知覚から生じ現在の知覚を変容する非限定的な普遍、曖昧に感じとられる型は、明らかに彼らの知的経験の過程である。幼い子供がすべての男性を父さんと呼ぶとき、子供が父親を個的なものとして知覚し、他の男性も個的なものとして知覚するが、当座はついていた区別が混乱するのだと仮定するのは、事実の歪曲以外のものではない。

 

 しかし、これはいま問題になっている本当の論点を指しているとはいえない。個物を知ることは精神段階の後の達成だとは認められるだろう。粗雑な知性にとっては、ある型の観念をもち、それに合わないものを排除した上で、この型を唯一無比の個物と認めることはほとんど不可能である。実際に問題となっているのは、初期の知識においてつくられたイメージの使用法についてである。それは普遍として使われているのであろうか、それとも個物として使われているのであろうか。

 

§25.どちらの側に立っても、心的存在としての観念は他のあらゆる現象と同様個物であることは認められる。論議はその使用に限られるのである。私は、それが個物にとどまっている限り、単純な事実であり、観念では全くないと主張する。そして、経験を敷衍したり変容したりするために用いられるときには、決して個的な形で用いられないのである。A-Bが知覚にあらわれるとき、過去の知覚の結果であるB-Cが個的なイメージb-cとしてあらわれ、呼び起こされたこれらのイメージが現在のあらわれに結びつくのだと言われている。しかし、これ以上の誤りはあり得ない。bとcの個別性を形づくるしるし、関係、相違がA-B-Cの合成のうちにあらわれる、あるいはどのようにしてか、それを生みだすために用いられるというのは真実ではない。そのcとしての内容を別にしたイメージcは心的現象の非限定的な細部をもっている。しかし、A-B-Cにおいて使用されたのはそれではなく普遍としてのcであり、知覚A-Bがそれによってcを再個別化する。もしそうなら、実際に働いているのは、普遍的観念間のつながりだと言わなければならない。我々は、無意識にではあるが、明示されたときには既にシンボルの意味を有しているのである。

 

 後の章でこのことははっきりさせようとは思っているが(第二巻第二部第一章を見よ)、問題が重要なので、あえていくつかの例を挙げておきたい。昨日私の犬が猫を追いかけたか敵と戦ったかした場所に今日着き、その知覚が観念を「呼び出し」、犬は必死に駆け出そうとする。彼の経験は白い猫か、大きな真鍮の首輪をした黒いレトリバーのものであったろう。今日のイメージは多分それほど明確には「呼びだされ」なかったが、いくつかの細部は確かにあり、それが経験を再現するのだろうと我々は思う。今日はそこに黒い猫がおり、犬の方はいつもと変わらなかったとしよう。白いイメージはまったく見当違いのものである。(34)あるいは今日は別のもう一匹の犬がいて、ただその犬が同じようにしてにらみつけるので、いつもの犬がそれを攻撃するとき、彼は知性ではなく行動においてより普遍的だということになる。というのも、全体のイメージではなく、内容の一部が彼の心では働いているからである。彼は小さな犬、白い犬、毛並みのいい犬には目をとめないかもしれないが、そのとき、大きさ、黒さ、毛並みの荒さは典型的な観念として確かに彼のうちで働いているだろう。確かに、観念は個物であり、それは知覚とは異なり、それを区別できないことが動物の欠点だと言うことはできる。しかし、なぜ区別することに失敗するのだろうか。テリアくらいの知性があれば、白の猫と黒の猫、ニューファウンドランドと牧羊犬の区別くらい見てとることができないだろうか。「いいや」と言う者があるかもしれない、「注意を向けさえすれば彼にはできる、たとえ両方ともいたとしても*、彼は注意を向けていないのだ」と。しかしもしそうなら、相違が用いられず働かないままに残されているなら、それは働いているもの、使われているものが、相違のなかで永続し、後に普遍的な意味となる内容の一部だということの明らかな証拠ではないか、と私は言わなければならない。

 

*1

 

*2

 

 また、ある動物がある日台所の火で火傷をしたら、次の日には火のついたマッチを怖がるかもしれない。しかし、二つのことはいかに異なっていることか。似ているところより異なっているところが多い。マッチの火は最初に召喚され、それが台所の火と混同されることがないと影響を及ぼさないとでもいうのだろうか。あるいは、個別的なものではない要素間のつながりが最初の経験によって心に生みだされるとでもいったほうがいいのではないだろうか。しかし、もしそうなら、最初から普遍は用いられ、事実と観念、存在と意味の相違は発達していない知性においても無意識に働いていたのである。

 

§26.これ以上は先走るべきではない。伝統によってお下がりのように伝えられてきた「連合の法則」の虚構性については後に示すことになろう。ここでの我々の対象は、ついでではあるが、判断における観念のシンボル的な使用は、精神の初期のものではないにしても、心的発達の自然な帰結だということである。知性の最初期から働いているのはこの種のものであり、イメージではない。イメージは決して魂に保持されないし、それは可能でもない。そのなかにある諸要素のつながりはすべて置き去りにされる。もし望むなら、それを我々の想像力の無能力といってもいいし、知性の本質である精神の観念化する働きといってもいいが、どの段階においても、なんらかの毀損なしに、個物であるために必要な細部の除去なしに事実が保持されることは不可能だということは変わらない。我々の成長の早い段階にまで、あるいは生命というものの初期の段階に下りていく程、より典型的で個的でない、細かな区別がなくより曖昧で普遍的、広範囲でシンボル的なものが経験の貯蔵庫となっている。意味がまず事実以外のものとして認められるという意味でシンボル的なのではない。分析が関係のある細部と関係のない細部とを区別し、より単純な要素を見いだし、知覚によるものよりも広範囲にわたる総合を行なうという意味での普遍でもない。存在を抜きにして意味をとり、個物を個物として扱わないという意味での、常に所与のものを超越し、どこでであろうと一度経験したものはいつどこででも真であり確実で、最初期の知性も最後期の知性も生の領域では端から端までまったく同一のものであるという意味で普遍的、シンボル的なのである。

 

*1:(34)個的な細部の総計についてここには誇張があるが、原則として言われていることは正しいと思う。

*2:*後に見るように、これは誤った仮定である。第一に、精神がABからCに赴くときには、個別なイメージbを通らねばならないというのは真実ではない。次に、個的なbが現存しているなら、それが本来の知覚Bの性質をもっていると仮定する理由はない。もし白い猫を今日見て、そのイメージが白だとしても、次の日に我々がその猫を見るとき、イメージの白さというのは使われる必要はない。また、その白さが関心の対象ではないなら、イメージが白であり他の色合いではない根拠など存在しない。過去の経験によって残された普遍化された結果とは常に不完全なものなのである。