ブラッドリー『論理学』 17

§3.しかし、ヘルバルトは、後で見るように、そう簡単に片付けられはしない。彼は、判断が事物に関するものだという常識的な教義を無批判に受け入れ、事物とは言葉ではないという発見に驚き、繋辞の本性についての言語学的啓示と思われていたものにひれ伏した最初の人間ではなかった。判断が事実を肯定するものであることを否定したとき、彼は十分に自分の立場を知っていた。文法上の主語にはなんの謎もなかったが、真理と観念の本性に関してはすべてが難解だった。我々が判断について反省すると、まず最初に、もちろんのこと、我々はそれを理解したと思う。それは事実に関わる、というのが我々の確信である。しかし、それはまた、観念にも関わることを我々は見る。この段階では、問題はまったく単純なように思える。我々は心のなかに観念の接合や総合をもっており、この接合は外側にある事実の同じような接合を表現しているというわけである。真理と事実とは、かくして、一緒に与えられるもので、いわば、異なった半球にある、別種の要素をもった同じものである。

 

 しかし、より以上の反省は、我々の確信を霧散させることになる。判断は観念の統合で、真理は判断以外の所では見いだせないことを我々は見た。それでは、観念はどのように現実と関係するのだろうか。それらは同じように思えたが、明らかにそうではないのであり、その相違は矛盾にいたる先触れとなっている。事実は個別的で、観念は普遍的である。事実は実体をもち、観念は形容詞的である。事実は自律し、観念はシンボル的である。これは、観念は事実がそうであるようには結びついて<いない>ことをあらわしていないだろうか。観念の本質は、考えれば考えるほど、現実からますます離れていくように思われる。そして、我々はなにかが真である限りにおいて、それは事実では<なく>、事実である限りにおいて真ではあり得ない、という結論に直面する。同じ結論を別の形で言うこともできる。定言的判断はある事実が肯定されたり否定されたりする実在に関する主張である。しかし、判断にそうしたことができないのであれば、結局すべての判断は仮言的だということになる。それはある仮定に基づいて真なだけである。S-Pを主張するとき、私はSあるいはP、あるいはその総合が実在であることを意味しているのではない。事実における統合に関してはなにも言っていない。S-Pの真理で意味されているのは、<もし私がSを仮定するなら>、<その場合>私はS-Pを肯定せざるを得ない、ということである。こうした意味において、<あらゆる>判断は仮言的である。*

 

*1

 

 ヘルバルトのよって遂行されたこうした結論はその前提からの帰結として抗うことのできないものだと思われる。しかし、その諸前提が適正ではない。前の章で見たように、判断は諸観念の総合ではあり得ない。ここでしばらく中断をして、この誤った教義の帰結について述べたいと思う。判断が諸観念の統合なら、定言的判断は存在できない、ということを明確に見てとることは、論理学の理解にとって非常に大きな一歩である。次のセクションでは、この点を容易にわかるような形にしてみたい。

 

§4.現実と真理との対象比較は、疑いなく、究極的な原理を含むものである。事実とはなにかを探求することは、同時に形而上学への旅路につくことであり、その終着点にはすぐに着けるものではない。いま現在の目的のためには、我々は常識からさほど遠くないレベルで問題に答えねばならない。一般的な見解で、多分我々の多くが同意するのは次のようなことだろう。

 

 現実とは、あらわれにおいて、あるいは直感的知識によって知られるものである。我々が感情や知覚において出会うものである。また、それは空間と時間において生じる出来事の系列にあらわれる。それはまた、我々の意志に抵抗をする。事物は、ある種の力、強制力をふるい、必然性をあらわすときに実在する。簡単に言うと、行動し、自律した存在である。この二つの特徴はつながっているように思われる。空間や時間、あるいは両者の系列を変えることによらない限り我々は行動について知ることがない。恐らく、行動なしにあらわれるものは存在しないだろう。そして、誰でもが申し立てることのできる最も単純な考えを言葉にすると、実在は自律した存在である、となる。別の言い方をすると、実在は個的なものである、となる。

 

 こうした観念を体系的に考察するのが形而上学の仕事である。ここではそれをひとまず預け、一般的な誤解を指摘するに留めよう。「実在は個的なものである」というのは、実在が抽象的な単一物であるとか、単なる一個物であることを意味すると考えるのは誤りである。内的な多数性は個的であることを排除しないし、ましてや他のものを排除する関係に立つ自律した事物であることを排除しない。この意味において、形而上学は、一個物が自律した存在から最もかけ離れたものであることを証明できる。個的なものは、単なる個物からは遠く、その内的な多数性とは対照的に、真の普遍である(第六章参照)。これは逆説ではない。我々は実在をある瞬間、ある場所を越えて存在するものとして語り、信じることに慣れている。そうした実在は、異なったとき場所でも同じままにあらわれる同一性と言えよう。それゆえ、真の普遍と言えよう。*

 

*2

*1:*ヘルバルト『著作集』I.92。彼はここでこの点を部分的に先取りしていたウォルフに言及している。フィヒテ『著作集』I.69,93参照。

*2:*次のような考察は読者の興味をひくかもしれない。空間と時間が連続的なら、そして、あらゆるあらわれはなんらかの時間や空間を占めなければならないなら--どちらの<論点>も支持するに困難なものではない--すぐさま我々は、単なる個物など存在しない、という結論に進むことができる。あらゆる現象は一つの時間場所を越えて存在する。そして再び、多数性こそが普遍なのである。